第二章第六話
1998フランスワールドカップ開幕です
1998年、夏。初夏の陽光が注ぐフランスの地に、浅葱色の歓喜を背負った青年の姿があった。
Jリーグ・ファーストステージ優勝、そして得点王。
彗星のごとく現れ、日本サッカー界の歴史を塗り替えたステラマーレ函館のエース・響木蒼生は、ついに夢の頂点であるワールドカップの日本代表メンバーへと名を連ねていた。
だが、フランス・トゥールーズ郊外のトレーニングキャンプ地で見せる彼の佇まいは、世界の強豪に挑む代表ストライカーのそれとはほど遠いものだった。
「響木、緊張してんのか?」
気さくに声をかけてきたのは、代表の黄金の中盤でタクトを振り、チームを陰から支える左利きのボランチだった。
「あ、……はい。なんだか、まだ夢の中にいるみたいで……」
響木は少し猫背になりながら、恐縮したように頭を下げ、はにかんだような笑みを浮かべる。練習着の袖を少し引っ張りながら話す姿は、どう見てもどこにでもいる大人しく控えめな青年にしか見えない。国内外のスター選手がひしめく日本代表の宿舎でも、彼は常に一歩引いて周囲に気を配り、年上のベテランたちにも恭しく接していた。
「ハハッ、相変わらずピッチの外だと借りてきた猫だな。だが、お前がファーストステージで叩き込んだゴールの数々、俺もしっかり見てたぜ」
ボランチの男は優しく響木の肩を叩き、いたずらっぽく微笑んだ。
「お前が死角に消える動き、俺の左足ならいくらでも合わせられる。余計なことは考えず、気持ちよく走ってくれればいいからな」
「ありがとうございます……頑張ります!」
そんな和やかな二人のやり取りから少し離れた場所。
パイプ椅子に腰掛け、一人鋭い眼光でピッチを見つめる男がいた。
背番号10を背負い、チームの心臓として君臨する「日本代表の絶対的エースのトップ下」である。
圧倒的なフィジカルと世界基準の戦術眼を持ち、孤高の雰囲気を纏う若きカリスマ。彼が発する張り詰めた空気は、代表チームの誰もが容易に近寄りがたいほどだった。
絶対的エースのトップ下は静かに立ち上がると、無言のまま響木の目の前まで歩み寄ってきた。
冷徹な眼差しが、はにかむ響木の表情を射抜く。
「……響木」
「は、はい!」
背筋を伸ばす響木に対し、トップ下のエースはフッと短く息を漏らし、低い声で言い放った。
「お前は、足元でボールをこねる必要はない。守備で下がりすぎる必要もない。……ただ、相手DFが一番嫌がるスペースへ、一番冷酷なタイミングで飛び込め」
その目が、極限の集中力を孕んで鋭く光る。
「お前がそこに走り込みさえすれば、俺がどんな体勢からでも、完璧なパスを通す。……俺を信じて走れ」
その言葉には、一切の妥協を許さない絶対的な自信と、響木というストライカーの「異常な特異性」を誰よりも見抜いている者だけの信頼が込められていた。
「……はい! よろしくお願いします!」
響木は力強く頷いた。
ピッチの外ではどこまでも大人しく、親しみやすい青年。
だが、その内側に秘めた牙が、世界という最高峰の舞台を前にして静かに研ぎ澄まされていく。
そして――ついに開幕の日が訪れた。
フランスの青空の下、超満員のスタジアムを揺らす万雷の歓声とブラスバンドの響き。
各国の国歌が演奏され、世界中の視線がピッチ上の22人に注がれる。緑の芝生を踏みしめた日本代表の十一人の中心には、圧倒的なオーラを放つ絶対的エースのトップ下、中盤を締め締めるボランチ、そして、胸に日の丸をつけた響木の姿があった。
国歌斉唱が終わり、主審がホイッスルを口に咥える。
その瞬間。
響木蒼生から、はにかむような穏やかな表情が完全に消え失せた。
背筋がすっと伸び、周囲の喧騒が遠のいていく。
世界の強豪DFたちの立ち位置、芝の濡れ具合、スタジアムを吹き抜けるフランスの風の向き。ストライカーとしての冷酷な計算だけが、彼の頭の中を支配していく。
静かな青年は姿を消し、世界を喰らうために解き放たれた「冷酷な捕食者」が、ピッチの中央に降臨した。
「行くぞ」
絶対的エースのトップ下の短い一言とともに、キックオフのホイッスルが世界の空に高く鳴り響いた。
日本サッカー史に刻まれる、果てしなき奇跡と死闘のフランスワールドカップが、今、幕を開けた。




