第二章第五話
キックオフの笛が鳴った瞬間から、試合は激しい主導権争いどころか、札幌による一方的な蹂躙へと変貌した。
中盤の底。冷徹な司令塔である久保敏通が、感情を一切交えない正確無比なパスで函館の急所を的確に突き刺していく。右サイドでは武田半平がブレない技術でボールをキープし、函館の守備陣を押し下げる。
そして、ペナルティエリア付近でパスを受けた「奇兵」高柳晋が、函館DF陣のタイミングを完全に外す変則的なトーキックでゴールを強襲した。
「させかァッ!!」
ゴールマウスを割るかと思われたシュートを、GK近江勇将が横っ飛びで弾き出す。
すかさずこぼれ球に飛び込んできた天才・桂木巧のシュートには、主将の門倉鉄馬が顔面からブロックに入り、泥まみれの斎間創が懸命にボールをスタンドへ蹴り出した。
「ラインを下げすぎるな! 押し返せ!」
左ウイングバックの南山計助が、必死に陣形のバランスを修正しようと声を張り上げる。だが、大郷、坂崎、桂木、そして高柳が入り乱れる札幌の超攻撃的ポゼッションは、函館の守備陣から息を吸う暇すら奪い去っていた。
右サイドの原野駿之介も、自慢の無尽蔵のスタミナを攻撃へのスプリントではなく、自陣深くまで戻っての守備にすり減らされている。
シュート数、ボール支配率、すべてにおいて札幌が函館を圧倒していた。
優勝へのプレッシャー、そして宿敵の凄まじい執念の前に、函館の「絶対防壁」は今にも決壊しそうだった。
だが。
どれほど防戦一方になろうとも、どれほど札幌が波状攻撃を仕掛けようとも。
最前線にポツリと残る背番号「9」だけは、その鋭い眼光を一度たりとも失っていなかった。
(……来い。必ず、一瞬の隙ができる)
自陣が蹂躙される様を冷徹に見つめながら、響木蒼生はピッチの「空白」を探し続けていた。
守備には一切参加しない。足元でボールをこねる気もない。
ただひたすらに、札幌の守備陣が前掛かりになった背後、オフ・ザ・ボールの駆け引きだけで勝負を決するその一瞬を、息を潜めて待ち構えている。
「ここからだ! 俺たちは、こんな泥沼を何度も這い上がってきたんだろうが!」
門倉の魂の咆哮が、防戦一方のチームを鼓舞する。
勝てば頂点。負ければすべてが泡と消える最終決戦。
猛攻を仕掛ける札幌の「維新志士」と、耐え忍び一撃必殺の牙を研ぐ函館の「新選組」。互いの意地と誇り、そして因縁が激しく衝突する北海道ダービーは、スコアレスのまま、中盤へと突き進んでいった。
防戦一方だった序盤の様相から一転、試合は両者の意地と誇りが真正面から激突する壮絶な死闘へと変貌していた。
電光掲示板に赤々と灯るスコアは『2 - 2』。 札幌の巨躯・大郷隆将のパワーと「奇兵」高柳晋の予測不能な牙が函館の強固な盾を二度打ち砕けば、函館もまた、原野駿之介の無尽蔵の脚力と沖瀬司の華麗なタクトから二度のカウンターを突き刺し、泥臭く同点に食らいついていた。
「戻れェッ! 陣形を崩すな!」 後半44分。主将の門倉鉄馬が、自身の血と泥にまみれた顔を拭うことも忘れて絶叫する。 優勝への重圧、そして宿敵・札幌の執念は凄まじかった。タイトルなど関係ない。ただ目の前の函館に勝ためだけに、札幌は全エネルギーをこの終盤の猛攻に注ぎ込んでいた。 中盤の底でタクトを振るう久保敏通が、冷徹な視線で函館の最終ラインのわずかなズレを見抜く。そこへ右の武田半平から正確なクサビのパスが打ち込まれ、札幌の分厚い波状攻撃が函館のペナルティエリアを呑み込もうとしていた。
「行かせねえよッ!」 シュート体勢に入った天才・桂木巧に対し、斎間創が文字通り泥水を舐めるような低いスライディングで食らいつく。こぼれたボールを左ウイングバックの南山計助が冷静な戦術眼で拾い上げ、寸前のところで致命傷を回避する。 息も絶え絶えの函館守備陣。限界をとっくに超えているはずの原野ですら、歯を食いしばりながら自陣深くで相手の突破を阻んでいた。
札幌のベンチ前で、吉田監督が冷酷な表情で腕を振り下ろす。
「終わらせろ。我々の誇りにかけて」
後半ロスタイム。 札幌の波状攻撃が三度、函館のゴール前へ襲いかかる。ペナルティエリア内でルーズボールを拾った高柳が、予備動作のまったくない変則的なシュートを放った。 「近江ィッ!」 門倉の叫び声に応え、守護神・近江勇将が横っ飛びでボールを弾き出す。
その弾かれたボールが、ピッチの中央へ高く舞い上がった。
(……拾える) 落下点へいち早く入り込んだのは、函館のトップ下・沖瀬司だった。 激しい雨と泥にまみれながらも、その身のこなしはどこまでも優雅で美しい。札幌のMFが猛然とプレスをかけてくるが、沖瀬はボールをトラップすることなく、ダイレクトで右足の甲に乗せた。 女性ファンを虜にする甘いマスクに、この時ばかりは鬼気迫る勝負師の笑みが浮かんでいた。
「頼むぜ、エース」
沖瀬の右足から放たれたボールは、札幌の守備陣を一気に切り裂き、前線に広がる広大なスペースへと蹴り出された。 そこは、両チームの誰もが予測していなかった「空白」の地帯だった。 ただ一人を除いては。
「なっ……!?」 札幌の最終ラインを統率していたDFが、凍りついたように息を呑む。 それまで徹底したマークを受け、守備にも参加せず、ただ前線で息を潜めていたはずの背番号「9」が、いつの間にか完全に視界から消え去っていたのだ。
響木蒼生。 ピッチ外では信じられないほど大人しく、ファンからの声援にもはにかむように微笑む控えめな青年。だが、ひとたびペナルティエリアの匂いを嗅ぎ取れば、彼は一切の感情を捨て去り、最も冷酷な捕食者へと変貌する。 彼がピッチのどこに潜んでいたのか、誰にもわからなかった。札幌のDF陣が前掛かりになったその一瞬の隙。オフ・ザ・ボールの完璧な駆け引きだけで、響木は誰よりも早くボールの落下点――ゴールへの最短距離へと滑り込んでいた。
「止めろォッ!!」 札幌のGKが飛び出し、必死の形相で距離を詰めようとする。 だが、響木はボールのバウンドを一切見なかった。その鋭い眼光はすでに、ゴールネットの四隅だけを捉えている。
地面に落ちる直前のボールを、右足の甲で完璧に撃ち抜いた。
ドスッ、という重い破裂音。 必死に伸ばされた札幌GKの手を嘲笑うかのように、ボールは鋭い軌道を描いてゴール右隅へと深々と突き刺さった。
『3 - 2』。 時間が止まったかのような静寂の後、スタジアムが爆発した。
「ッッッシャアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!!」 響木の獣のような咆哮が、雨のピッチに轟く。 普段の控えめな姿からは想像もつかないほど感情を爆発させ、コーナーフラッグへ向かって駆け出す響木。その背中に、無尽蔵のスタミナの最後の数滴を絞り出した原野が飛びつき、沖瀬が泥まみれのまま抱きつき、門倉が男泣きしながら折り重なる。
そして、長く、短いホイッスルが三度、スタジアムに鳴り響いた。
「試合終了ォォォォッ!! ステラマーレ函館、泥濘から這い上がった新選組が、ついに……ついにJリーグ・ファーストステージの頂点に立ちました!!」 実況アナウンサーの絶叫が、地鳴りのような歓声にかき消されていく。 「そして、今の一撃! 激戦のファーストステージを締めくくる劇的な決勝ゴールにより、響木蒼生が単独トップに浮上! 見事、得点王のタイトルを獲得しました!!」
ピッチの上では、函館の選手たちが次々と泣き崩れ、抱き合っていた。 敗れた札幌の選手たちも、その場に立ち尽くし、あるいは膝をついて動けない。因縁の北海道ダービーは、あまりにも劇的な幕切れで終焉を迎えた。
狂乱の輪の中心。 もみくちゃにされ、ようやく解放された響木のもとへ、スタンドから割れんばかりの『ヒビキ』コールが降り注ぐ。 先ほどまでの冷酷な捕食者の顔は、もうそこにはなかった。 「あ、ありがとうございます……」 照れくさそうに頭を掻き、少し猫背になりながらスタンドに向かって控えめに手を振る。その親しみやすく大人しい笑顔を見たサポーターたちは、さらに大きな歓声と温かい笑い声をスタジアムに響かせた。
数奇な運命に導かれ、消滅したクラブの思いと函館の誇りを背負って駆け抜けた1998年・春。 最下層から這い上がった浅葱色の戦士たちと、冷酷で心優しい類まれなるストライカーは、日本サッカーの歴史に、決して消えることのない鮮烈な伝説を刻み込んだ。




