第二章第四話
1998年、Jリーグ・ファーストステージ最終節。 歴史的な大混戦となったリーグ戦は、誰もが予想しえなかった劇的なシナリオを用意していた。 首位から勝ち点差わずか数ポイントの間に複数のクラブがひしめく異常事態。その混沌を抜け出し、自力優勝の条件である「勝利」を懸けて最終ピッチに立つのは、昨季からJFLから昇格したステラマーレ函館だった。
勝てば、Jリーグ・ファーストステージ優勝。 悲劇的な消滅劇による繰り上げ昇格から始まった奇跡の航海が、ついに日本サッカーの頂点へと辿り着こうとしている。
だが、運命は彼らに最大の試練をぶつけてきた。 最終節の対戦相手。それは、同じ北海道を本拠地とし、常に彼らの前に立ちはだかってきた宿敵、プログレッソ札幌であった。
札幌にとって、この試合にタイトルは懸かっていない。彼らの順位はすでに中位に確定しており、勝敗がもたらす物理的な利益は何一つなかった。 しかし、超満員のスタジアムを包み込む異様な熱気と、ピッチに立つ札幌の選手たちが放つ殺気は、間違いなく優勝を争うチームのそれであった。
「函館には、絶対に負けられない」 ウォーミングアップ中から、札幌の巨躯のFW・大郷隆将が鋭く敵陣を睨みつける。 昨年のJFL最終節。札幌は昇格を手にし、直接対決では絶体絶命の中、函館に「3-1」というスコアであの氷点下の星海陣屋で勝った自信が自分達のプレースタイルを貫き通す強い原動力となっていた。
北海道の覇権を争うダービーマッチの意地。タイトルなど関係ない。自分たちのアイデンティティーを証明するために、札幌は持てる全戦力を解放してこの最終戦に臨んでいた。
「さあ、始めようか。我々のサッカーを彼らに見せつけてやろう、タイトルなど関係ない。これは私たちと彼らとの決闘だ」
ベンチ前で、札幌の指揮官・吉田松司が静かに腕を組んだ。
その視線の先。ピッチの反対側では、ステラマーレ函館のイレブンが試合開始直前の強固な円陣を組んでいた。 沸き立つ大歓声と札幌の放つ圧倒的な殺気の中にあって、函館の選手たちが纏う空気は、不思議なほど静かで、研ぎ澄まされていた。
「……いいか、お前ら」 円陣の中心で、主将の門倉鉄馬が低く、よく響く声で口を開いた。彼の腕には、チームの象徴である浅葱色のキャプテンマークが固く巻かれている。 「ここまで、泥水すする思いで勝ち点を拾ってきた。俺たちに華麗なパスワークなんてねえ。相手のほうが上手くて、強くて、速い。今日も間違いなく、サンドバッグみたいに殴られ続ける90分になる」
その言葉に、泥臭いボールハンターの斎間創がフッと笑みをこぼし、守護神の近江勇将が両手で力強く自身の頬を叩いた。 「だがな」 門倉が全員の顔を見回す。 「俺たちの『盾』は、誰にも砕けねえ。どれだけ押し込まれようが、最後に笑うのは俺たちだ。……函館の誇りを、あの消えていった奴らの無念を、全部背負って戦うぞ」
「おうッ!!」 選手たちが低く唸るような声で応える。 新加入の原野駿之介が「90分間、端から端まで走り切ってやりますよ!」とスパイクで芝を強く蹴りつけ、隣に立つ南山計助が「頼むぞ。お前が走る分のスペースは、俺が戦術で空けておく」と冷静に頷き返した。 トップ下の沖瀬司も、端正な顔立ちからいつもの柔和な笑みを消し、静かに戦場を見据えている。
そして、円陣の片隅。 響木蒼生は、一人だけ少しうつむき加減で、ただ黙って門倉の言葉に耳を傾けていた。 スタンドの喧騒に怯えているかのような、どこか心細げな佇まい。ピッチを離れれば、誰よりも大人しく控えめなこの青年が、これから始まる死闘の命運を握っているとは、初めて見る者には到底信じられないだろう。
「行くぞッ! ステラマーレ!!」 門倉の咆哮とともに円陣が解け、選手たちがそれぞれのポジションへと散っていく。
その瞬間だった。 ゆっくりと顔を上げた響木の双眸から、微かな「戸惑い」や「遠慮」といった人間らしい感情が、完全に抜け落ちた。
(……一瞬の隙。それだけでいい) 歩みを進めるごとに、その背中から立ち上る気配が劇的に変貌していく。 周囲の音が消え、視界が極限までクリアになる。札幌の選手たちの立ち位置、芝の濡れ具合、風の向き。ストライカーに必要な情報だけが、恐るべき処理速度で彼の脳内にインプットされていく。
ただの大人しい青年から、冷酷無比な「点取り屋」への完全なスイッチ。
札幌の超攻撃的布陣が発する熱気と、函館の堅守速攻が放つ冷気が、ピッチの中央で激しく衝突しようとしていた。 頂点を懸けた90分の死闘を告げるホイッスルが、今、鳴り響こうとしている。




