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第八章第二話

午前8時15分。

島根県内の公的な執務室の一角で、響木蒼生は粛々とデスクの上の書類を整えていた。


周りに圧迫感を与えない落ち着いた身だしなみに身を包み、PC画面に向かって正確にデータやテキストを入力していく。取り扱う書類の内容においても、彼は極めて丁寧な手際で処理を進めていた。


「響木さん、こちらの案件の書類、確認が終わりましたので回しておきますね」

「ありがとうございます。こちらで預かり、迅速に処理を進めておきます」


穏やかな笑顔で応対する彼の佇まいからは、勝負の世界特有の鋭さは一切感じられない。彼がかつて欧州を熱狂させ、バロンドールまで上り詰めた伝説のストライカーであること、そして週末にはプロのJ3リーグで戦うアスリートであることを意識させる隙は、職場内には皆無だった。


しかし、午後5時15分。

終業を告げるチャイムが鳴ると、響木は静かに席を立つ。公務員としての責任を果たし終えたその瞬間から、彼の思考と肉体は「J3を戦うアスリート」へと鮮やかに切り替わる。


「お疲れ様でした」と一礼して職場を後にした響木は、そのまま練習グラウンドへと向かう。


ナイター照明が灯るピッチでは、本業が開業医である神田コーチが待っていた。神田コーチは響木が到着するや否や、バイタルデータやコンディショニング数値をチェックする。


「響木さん、今日の血圧と心拍数は安定していますね。ただ、日中のデスクワークによる足腰の強張りがわずかに見られます。J3の過酷な移動や連戦に備え、練習前に15分、股関節周囲と臀筋の可動域を広げるコンディショニングを入れましょう」


「助かります、神田先生。コンマ数秒のアジリティが僕の生命線ですから、日中の姿勢によるわずかなズレも残しておきたくありません」


開業医としての専門知識を持つ神田コーチのアドバイスのもと、響木は徹底した調整を行う。ヘディングを完全封印している彼にとって、地上の「エアポケット(真空地帯)」へ飛び込む初速とコンタクトをかわす身体制御は絶対条件だ。


ピッチに立つと、弁護士である法条監督から今季の基本システム「3-4-2-1」に基づいた緻密な戦術ミーティングが共有される。


「響木、我々の3-4-2-1において、君が1トップ(ST)として引くことで相手CBを引き出し、シャドーやウイングバックの藤井や早坂が生まれるスペースを使う。君が相手の死角へ潜り込むコンマ数秒のタイミングを、理論通りに突き詰めよう」


「承知しました。僕の位置取りで相手のラインを崩します」


生え抜きの農協CB大河原、信金マンのWB藤井、体育教師のCH石川、そしてプロ契約のGK桐生、CH黒木、WB早坂。

職場で誠実に働く者とプロのプライドを持つ者が融合したチームの中で、響木は誰よりもストイックに自らの役割とコンディションに向き合っていた。


夜9時過ぎ、自宅へ戻った後も彼のケアは終わらない。栄養計算された食事を摂り、左目の状態をケアし、極上の睡眠環境を整える。


業種も立場も越えた公務員としての誠実な日常と、J3というプロの激闘。

二足の草鞋を履く極限のスケジュールを、響木蒼生は圧倒的な自律心と周りのサポートによって、至高のパフォーマンスへと高めていくのだった。

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