第9話 リーディアの距離
「それを言ったのね」
リーディアの手が、一瞬だけ止まった。
小刀を持ったまま、羽根を見ている。
「まずかったですか」
「いいえ」
「でも、止まりましたね」
「手が滑っただけ」
滑っていなかった。
だが、俺は黙った。
リーディアが知られたくないことを、無理に掘り返す必要はない。
作業が再開する。
彼女の切った羽根を、俺が麻糸で巻く。
一本。
二本。
三本。
単純な繰り返しが、不思議と落ち着かせる。
「なぜ言ったの」
リーディアが先に口を開いた。
「セラム長が対策を持っているかもしれないので」
「持っていない」
「知っていましたか」
「あの石は私も初めて見た。集落にそれを対処できる者はいない」
「だから、言わなくてよかったと」
「そうは言っていない」
リーディアは羽根を切り揃えながら、続けた。
「弱点を正直に言うのは、判断として悪くない。ただ、言われた側の立場で考えれば、守れない穴があると知らされることになる」
「不安にさせましたか」
「集落長は不安を顔に出さない」
「では、問題なかったということですか」
「問題があるかどうかは、後でわかる」
答えになっているようで、なっていない。
だが、それ以上は聞かなかった。
リーディアの言い方には、問い返すよりも受け取る方が正解の場合がある。
まだ二日しか知らないが、そのくらいはわかってきた。
午後の作業を終えると、ノルが交代の見張りを連れてきた。
三十代くらいの男で、眉が太く、口数が少ない。
ノルと短く言葉を交わし、俺を一瞥して、扉の横に立つ。
「ソーイ」
ノルが出がけに振り返った。
「夕方から見張り台に上げてもらえるらしいな」
「セラム長に許可をもらいました」
「俺も行く」
「よろしくお願いします」
ノルは少し気まずそうに視線を逸らした。
「リーディアの言いつけで、だからな」
「それでも、助かります」
「お前は素直すぎる」
「そうですか」
「人間なのに」
また、その言い方だ。
だが、昨日より少しだけ棘が薄い。
ノルは出ていった。
夕方、リーディアとノルとともに見張り台へ上がった。
見張り台は集落の柵の内側に設けられた木造の台だ。
高さは地面から四メートルほど。
上に立つと、集落の外の森がよく見える。
二つの月がまだ低い位置にある。
夕暮れと月明かりが混じって、森の輪郭が青みがかって見えた。
「ここで何をするんですか」
「見る。感じる。変化があれば言う」
リーディアが淡々と答えた。
「俺の感知は方向と距離と強さだけです。何が来るかはわかりません」
「それで十分。方向と距離がわかれば、こちらの動きを早く出せる」
「なるほど」
「今夜は感覚を確認する。実戦で使う前に、どこまでわかってどこからわからないかを整理する」
「訓練ですか」
「確認。訓練と呼ぶには、まだ何もわかっていない」
ノルが見張り台の反対側に立ち、肉眼で森を見ている。
リーディアは俺の隣に立った。
近い。
いや、近すぎるわけではない。
ただ、今まで彼女との間には常に一定の距離があった。
盾を出せる距離、撃てる距離。
それより少しだけ近かった。
「今、何か感じるか」
「ほとんど何も。集落の中から、弱い警戒が遠くにいくつか」
「それは見張りの者たちよ。殺意ではなく、日常の緊張感」
「そういう感じもするんですね」
「区別できる?」
「昨夜の黒い石の前と、今とでは全然違います。今は針で突かれる感じです。昨夜は指で掴まれる感じでした」
「強さの差か」
「たぶん。種類も少し違うかもしれません」
リーディアは少し考えた。
「殺意と、捕まえる気持ちと、ただ嫌いという気持ちは、区別できる?」
「試したことがないので、わかりません」
「今夜、試す」
「どうやって」
「ノル」
リーディアが呼ぶと、ノルが振り返った。
「ソーイに強い敵意を向けて」
「は?」
「実験よ。気持ちだけでいい」
「き、気持ちだけって言われても」
「あなた、昨日から半分くらい嫌いでしょ」
「半分どころか全部くらいだったが」
「今は?」
「今は...六割くらい」
「その六割分だけ向けて」
ノルは何とも言えない顔をした。
気持ちを数字で言わされるのは、誰でも困るだろう。
「わかった。やってみる」
ノルがこちらを向いた。
俺は何も言わなかった。
すると、胸の奥に小さな針が刺さる感覚が走った。
「今、来ました」
「強さは」
「弱いです。さっきの見張りたちと同じくらい」
「ノル、もっと強く」
「俺にそういう演技は無理だ」
「演技しなくていい。本気で嫌だと思え」
「それは、なんか、頑張れば」
ノルはしばらく何かを思い浮かべているようだった。
少しして、痛みが少し増した。
「増えました」
「さっきの倍くらい?」
「それより少し上です」
「ノル、やめていい」
「助かった。なんか疲れる」
ノルはすぐに肩の力を抜いた。
俺の胸の感覚も薄れる。
「敵意の大小は測れるようね」
「はい」
「昨夜の斥候と、昨夜の術杖持ちとでは、感覚に差があった?」
俺は思い返した。
「斥候は、昨夜ノルさんの六割と同じくらい。術杖の男は、最初は似た感じでしたが、黒い石を砕いたあとに一気に変わりました」
「変わり方は」
「種類が変わった気がします。方向を持った痛みではなく、全体が覆われる感じ。外から来るというより、内側から濁る感じ」
「内側から」
リーディアが目を細めた。
「石を砕いたとき、あなたに見えたものは?」
「白い部屋と、暗い穴。向こうから何かが覗いている感じがしました」
「具体的に見えた?」
「輪郭だけです。形はわかりませんでした」
「笑い声は?」
俺は少し驚いた。
「聞こえた気がしました。なぜ知っているんですか」
「私も聞こえた」
リーディアは前を向いたまま、続けた。
「低い。遠い。笑い声というより、反響。深い穴の底で何かが揺れているような音」
「同じです」
「あなただけが聞いたわけではない」
それは少しだけ、救いだった。
気が触れたわけではないと知れるだけで、足元が少し戻ってくる。
「オルドさんは?」
「聞いていない。あの場所にはいなかった」
「あとで聞いてみます」
「私が聞く。あなたが動ける場所は、まだ限られている」
「はい」
それ以上は言わなかった。
言わなくていいと思った。
リーディアは動ける範囲を勝手に引き受けている。
押しつけられたのではなく、自分で判断して動いている。
それが今の俺たちの関係だった。
見張り台に立って一時間ほど経った頃、ノルが欠伸をした。
「何もないな」
「平和なのはいいことです」
「まあな。でも眠くなる」
「交代しますか」
「お前が交代してどうする。目を閉じてもわかるのか」
「試したことはないですが、たぶんわかります」
「じゃあ試せ」
「冗談ですか」
「半分くらい」
リーディアが横から言った。
「目を閉じても感じるかは確認しておいた方がいい」
「本当に試すんですか」
「感知に視覚が必要かどうかを知っておく必要がある。夜間の暗い場所でも機能するなら、見張りの補助として使える。目を閉じても変わらないなら、さらに使いやすい」
実用的な理由だった。
俺は目を閉じた。
見張り台の上。
夕暮れの風。
草と木と、どこかで煮炊きをしている匂い。
目を閉じると、視覚以外の情報が少し鮮明になる。
胸の奥に、点のような痛みが散っている。
集落の中の見張りたち。
弱い警戒の痛みが、方向とともに感じられる。
「変わりません」
「目を開けていても閉じていても同じか」
「はい。むしろ、閉じた方が少し鮮明かもしれません」
「視覚に集中していない分、感知に回せるということか」
「そういうことだと思います」
ノルが感心したように息を吐いた。
「便利だな、それ」
「俺の他の能力が地味なので、これが頼みの綱です」
「盾は地味じゃないだろ」
「派手さがないです」
「でも昨夜、子どもの前に出たのはお前だ」
ノルが、言いたそうで言いにくそうに続けた。
「集落の連中も、全員がお前を嫌ってるわけじゃない。ただ、怖いんだ。人間が中にいるのが」
「わかります」
「わかるのか」
「俺がリーディアさんの立場でも、怖いと思います。集落の責任者が、身元不明の人間を保護すると言ったら」
「セラム長を怖いとは言えないからな」
「そうですね」
「だから、お前が代わりに怖い」
「それも、わかります」
ノルはしばらく黙った。
「でも、まあ、昨夜の一件がなければ、もう追い出されてたかもな」
「そうですか」
「お前が盾を出した方向に、子どもが三人いたのを集落中が見ていた。セラム長も含めて」
俺は何も言わなかった。
言えなかった。
昨夜の俺は、意図して子どもを守ろうとしたわけではない。
ただ、敵意の方向に体が向いた。
それが子どもたちのいる方向だっただけだ。
結果として守れたのはよかった。
でも、意図ではなかった。
その違いを正直に言うべきかどうか、少し迷った。
「ノルさん」
「何だ」
「昨夜、俺が子どもの方向に向いたのは、そこに敵意を感じたからです。子どもを守ろうと意識したわけではありません」
「...そうか」
「意図があったように見えたなら、それは間違いです。ただ、感知した方向に動いただけです」
ノルは少しの間、黙った。
「なんで正直に言う」
「後で違うとわかる方が、もっと不信任になると思ったので」
「賢いのか馬鹿なのかわからないな」
「俺もそう思います」
リーディアが小さく笑った。
本当に一瞬だった。
俺もノルも、それ以上は触れなかった。
見張り台から下りる頃には、空が暗くなっていた。
二つの月が高
次話は明日の19:00に投稿します。
1日1話投稿の予定になります。
よろしくお願いいたします。




