第10話 盾は守るためだけではない
見張り台から下りると、リーディアが言った。
「明日の朝、少し教える」
「戦い方ですか」
「基礎だけ。あなたが今のままでは、盾役としても不完全よ」
「それはわかっています」
「わかっているなら、余計な口を挟まずにやること」
「はい」
ノルが欠伸をしながら歩いていった。
俺は空き倉に戻り、積み直した木箱の前に腰を下ろした。
天井の隙間から、青い月明かりが細く入っている。
体が重い。
怪我のせいもある。
二日間で詰め込まれた情報のせいもある。
転移。神様。スキル。魔族領。集落。尋問。夜襲。見張り台。
一つずつ思い返すと、どれも別の人生の出来事のように感じた。
三十二年間の記憶が、昨日までで終わっている気がした。
今日から先は、別の何かになっている。
俺は目を閉じた。
胸の奥に、点のような痛みがいくつか浮かんでいる。
集落の見張りたちだ。
弱い警戒の感触が、遠くに散らばっている。
危険ではない。
それだけで十分だった。
目を閉じたまま、俺はゆっくり息を吐いた。
翌朝、リーディアは約束通り来た。
日が上り切る前の、まだ空気が冷たい時間だった。
集落の外れに、人があまり来ない空き地がある。
木を何本か切り倒した跡で、切り株が点々と残っている。
リーディアはその中央に立ち、俺に向いた。
「昨日の傷は」
「動ける程度です」
「激しく動けば開く」
「わかっています」
「わかっていても動くでしょう」
「その可能性はあります」
「正直ね」
リーディアは腕を組んだ。
「基礎から確認する。まず構え」
俺は盾を出した。
黒灰色の粒が集まり、左腕に大盾が現れる。
右手には片手剣。
リーディアはそれを見て、すぐに言った。
「剣を引っ込めて」
「はい」
「今日は剣を使わない。盾だけ」
「剣は使わないんですか」
「使えないでしょう」
「使えません」
「なら今は捨てておく。中途半端に持っていると、判断が遅れる」
俺は片手剣を消した。
すると、不思議と右手が軽くなった。
剣の重みが消えただけではない。
剣で何かをしなければという意識も消えた。
「構えを見せて」
俺は盾を前に出した。
正面を向き、盾を胸の前に構える。
リーディアは俺の周りをゆっくり歩いた。
「足の幅が狭い」
「はい」
「もう少し広げる。肩幅より少し広いくらい」
俺は足を開いた。
「重心が上にある。もう少し膝を曲げる」
「これくらいですか」
「もう少し。相撲の構えを知っているか」
「知っています」
「それに近い感覚」
俺は膝を曲げ、腰を落とした。
「そこ。その位置で固定できるか」
「しばらくならできます」
「しばらくでは足りない」
わかっていた。
「盾の角度」
リーディアは俺の盾を指さした。
「今は正面に向けすぎている。斜めにする」
「どのくらい」
「相手の攻撃が滑るように」
俺は盾を少し傾けた。
「そこ。その角度なら、衝撃が横に逃げやすい。正面で受けると、力が全部腕に来る」
「なるほど」
「理屈がわかっても、体が動かなければ意味がない」
「それもわかっています」
「うるさい」
「すみません」
リーディアは少し離れた切り株の上に、小石を一つ置いた。
「あの石を守る。私が取ろうとする。あなたは取られないように盾で止める」
「リーディアさんの攻撃魔法を盾で受けるんですか」
「使わない。素手で取る」
「それでも」
「私の格闘技術は平均的よ。あなたの盾がちゃんと機能すれば、止められる」
「平均的、という自己評価ですか」
「魔法以外は平均的なの。悔しいけれど」
その言い方が少し意外だった。
リーディアが自分の弱点を、悔しいと言った。
俺はそれを聞き流して、切り株の前に立った。
「始めて」
リーディアが動いた。
思ったより速い。
左から回り込もうとする。
俺は盾を左に向けた。
リーディアは右に切り返す。
俺の反応が遅れた。
手が切り株に触れる直前、俺は体ごと盾を右へ押し出した。
ぶつかった。
リーディアの手首が盾に当たる。
「っ」
「す、すみません」
「謝らない。それでいい」
彼女は手首を確認した。
赤くなっているが、怪我ではないらしい。
「今の動きで何が悪かったかわかる?」
「最初から盾を中央に置いていなかったので、左右の動きに対応が遅れました」
「それだけ?」
「重心が戻っていました。腰が上がっていました」
「動いたとき、重心が動いた。その分、反応が遅れた」
「どうすれば」
「動かない。動かずに相手を引き寄せる。盾役は追うのではなく、守る場所を決めてそこを離れない」
俺は切り株の前に戻った。
「もう一度」
リーディアが動く。
今度は俺は動かなかった。
重心を落としたまま、盾の角度だけ変える。
リーディアが右に来たとき、俺は体を動かさず盾だけ右へ傾けた。
彼女の手が盾に当たり、滑る。
「今の方がよかったですか」
「随分ましね」
「褒め言葉として受け取ります」
「半分はね」
また半分だった。
だが、悪くない半分だった。
十度ほど繰り返したあと、リーディアが一度止まった。
俺の脇腹を見る。
「傷は」
「少し痛みますが、開いた感触はありません」
「無理をするな」
「していません」
「嘘ね」
「少しだけしています」
「正直なのか、開き直っているのかわからない」
「両方だと思います」
リーディアは呆れたように息を吐いた。
切り株に腰を下ろし、水の入った革袋を俺に投げてよこす。
「休憩」
「ありがとうございます」
俺も近くの切り株に座った。
水を飲む。
朝の空気と水が、体の中で混ざる感じがした。
森から鳥の声が聞こえる。
二つの月はもう薄くなり、空が白くなり始めていた。
「リーディアさん」
「何」
「盾役の動き方を知っているんですか」
リーディアは少し間を置いた。
「父が使っていた」
「お父さんが」
「盾役ではないけれど、前衛で戦う人だった。子どもの頃に見ていた」
俺は何も言わなかった。
父。
過去形。
リーディアの家族が戦争で亡くなったことは、断片的に知っていた。
だから、今は黙っていた。
「教えてもらったわけではないわ。見ていただけ」
「それでも、覚えているんですね」
「忘れたくない記憶もある」
リーディアは水袋を受け取り、一口飲んだ。
「俺の父は普通の会社員でした」
俺は話すつもりもなかったのに、口が動いた。
「戦いとは無縁の人でした。俺が盾を持つなんて、想像もしていなかったと思います」
「会社員、というのは」
「魔法も剣も使わない仕事です。書類を作ったり、人と話したり、計算したり」
「それで生きていけるの?」
「生きていけます。俺のいた世界は、誰も剣を持たなくていい場所でした」
「誰も戦わなくていい世界」
「争いがないわけではありませんでした。ただ、日常で剣を持つ人はいなかった」
リーディアはしばらく黙った。
「羨ましい?と聞くべきかしら」
「俺にはわかりません。ここしか知らない人に、向こうを羨ましいと言うのは、違う気がして」
「でも、あなたは戻りたいと言っていた」
「戻りたいです。でも、向こうの方が正しいと思っているわけではありません」
「どういう意味?」
「俺のいた世界にも、争いはありました。形が違うだけで。ここよりはるかに遠い場所で、剣の代わりになるものを使って、人が人を傷つけていた」
「それをニュースで見ていた」
「はい」
「見ていただけ」
「はい」
リーディアの声に、責める響きはなかった。
ただ、確認しているだけだった。
「ここでは、見ているだけではいられない」
「それも、はいです」
「わかっているなら、続けましょう」
リーディアは立ち上がった。
俺も腰を上げる。
脇腹が鈍く痛む。
我慢できる痛みだった。
「今度は少し違うことをする」
「何をしますか」
「倒す練習ではなく、時間を稼ぐ練習」
「時間を稼ぐ」
「私が魔法を撃つまでの間、相手を一か所に釘付けにする。それがあなたの役割の一つ」
「なるほど」
「あなたが相手を倒せなくていい。私が倒す。あなたは逃がさないだけでいい」
役割の分担。
盾役とはそういうものだと、改めて聞かされた。
「ただし」
リーディアは付け加えた。
「私が撃てない状況もある。魔力が切れるとき。距離が取れないとき。不意打ちを受けたとき。そのときは、あなたが時間を作る。私が立て直すまでの時間を」
「長くは作れません」
「わかってる。でも、少しで十分なことがある」
「少しを確実に、ということですか」
「そう。大きな力がないなら、確実にできることを積む。それがあなたのやり方になる」
俺は盾を構えた。
リーディアが今度は別の切り株の上に石を二つ置いた。
「二つ守る。私が両方取ろうとする。どちらかでも取られたら失敗」
「難易度が上がりましたね」
「昨日よりも今日、今日よりも明日ができることが増えないと、一緒に戦えない」
そう言ってリーディアは動き出した。
俺は二つの切り株の間に立った。
右に来れば右の切り株へ体を向ける。
左に来れば左へ。
どちらにも動かず、盾の角度だけ変えることを意識する。
リーディアの動きが、さっきより速くなった。
右を狙うふりをして左へ行く。
俺は騙された。
石が一つ取られた。
「失敗ですね」
「そうね。なぜ取られた?」
「騙されました」
「どこで騙された?」
「足の向きを見ていなかった」
「目線と足の向きは違うことがある。目線に引っ張られると、足の動きに遅れる」
「次は足を見ます」
「やってみて」
今度はリーディアの足を見た。
右に体を向けながら、足先が左を向いた。
俺は左の切り株側に重心を傾けた。
リーディアが左へ来る。
盾が間に入る。
手が盾に当たり、滑った。
石は取られなかった。
「今のはよかった」
リーディアが言った。
「足を見ました」
「わかった。目線と足の向きが違うときに気づけた」
「でも、次はまた騙されると思います」
「騙されながら覚えるしかない」
「それはそうですね」
リーディアは少し息を整えた。
俺も同じくらい消耗していた。
盾役は動かない、と言われた。
動かないのに、なぜこんなに疲れるのか。
「重心を保つのは、動くより疲れるのね」
「言おうとしていたことを言われました」
「顔に出ていた」
「よく言われます」
「最近言われ始めたのでしょう」
「そうでした」
リーディアは水袋を拾い、もう一口飲んだ。
朝の光が、森の向こうから差し込んでくる。
集落の中で、人が動き始める音がした。
炊事の音。子どもの声。誰かが何かを運ぶ足音。
日常が動き出している。
「もう一つ教える」
リーディアが立ち上がった。
「裂勢打ちについて」
「盾で体勢を崩す技能ですね」
「使い方が雑」
「自覚があります」
「あれは、倒すために使うのではない」
「どう使うんですか」
「相手の次の行動を遅らせる。体勢を崩せば、次の攻撃までに間が生まれる。その間に、私が撃つか、あなたが位置を修正するか、仲間が動くか」
「俺が崩して、リーディアさんが撃つ」
「そう。順番が大事よ。崩してから撃つ。崩さずに撃っても、相手が動いてかわす。崩せば、かわしにくくなる」
「連携ですね」
「あなたが盾だけで考えると、私が無駄に動く。私の魔力は有限だから、外れた一発は命取りになる」
俺は盾を構えた。
「練習しますか」
「する。ただし、実際に黒燐火は使わない。私が撃てると判断したら、声で知らせる。あなたはその前に相手の体勢を崩す」
「タイミングが合わないと」
「崩れていない相手を私が狙う羽目になる。それは無駄」
「わかりました」
リーディアは少し離れた位置に立った。
「私が合図を出す前に崩す。私の合図と同時に崩す。この二つを分けて覚える」
「どう違うんですか」
「前者は、あなたが先に動く。後者は、私の判断に合わせる」
「どちらの方が連携しやすいですか」
「状況による。今は、後者から練習する」
リーディアが的代わりに切り株の前に立った。
「私が今、と言ったら盾で体勢を崩して。声を聞いてから動く。先走らない」
「はい」
俺は切り株から三歩ほど離れた位置に立ち、盾を構えた。
リーディアは横に立ち、俺から見える位置を維持する。
沈黙。
風が草を揺らす音。
遠くで鳥が鳴く。
「今」
俺は盾を切り株に叩きつけた。
裂勢打ち。
切り株が横に揺れる。
固定されているので倒れないが、確かに動いた。
「動いたわ。ただし、遅い」
「リーディアさんの声から動くまでに、間がありました」
「そう。頭で聞いてから体が動くまでに時間がかかっている。聞いた瞬間に体が動くようにする」
「反射ですね」
「反射になるまで繰り返す」
何度も繰り返した。
今、と聞く。
盾を出す。
今、と聞く。
盾を出す。
最初は必ず頭で確認してから動いていた。
十回を超えたあたりから、頭より先に体が動く瞬間が出てきた。
「今」
盾が切り株を叩く。
リーディアが少しだけ頷いた。
「今のは早かった」
「だんだん慣れてきました」
「慣れではなく、身体に刻む」
「違いがわかりません」
「慣れは意識がある。刻むは意識がいらなくなる」
「では、まだ慣れの段階ですね」
「そう。でも、慣れなければ刻めない。続ける」
また繰り返した。
脇腹の痛みが、少しずつ主張を強めてきた。
俺は黙って続けた。
言えばリーディアが止めるとわかっていた。
止められる前にもう少しやりたかった。
「止まって」
二十回ほど繰り返したあたりで、リーディアが言った。
「傷が開いている」
「え」
「わき腹の布が滲んでいる」
俺は自分の脇腹を見た。
白い布に、薄く赤いものが滲んでいた。
「あ」
「あ、ではない」
「あまり痛くなかったので、気づきませんでした」
「動いているときは痛みを感じにくい。だから余計に気をつけないといけない」
リーディアは俺の傍に来て、布を確認した。
「大きくは開いていない。でも、続けたら悪化する」
「今日はここまでですか」
「今日はここまで」
「もう少しやれます」
「できることを増やしたいのか、早く終わらせたいのか、どちら」
「増やしたいです」
「なら休む。傷が悪化したら、明日もできない。明後日もできない。三日分失う」
そう言われると、止まる理由が明確になった。
俺は盾を消した。
リーディアはもう一度布の状態を確認し、問題ないと判断したらしく手を離した。
「今日やったことを覚えているか」
「構えの足の幅。重心の位置。盾の角度。動かずに守ること。目線ではなく足先を見ること。合図を聞いてから動く練習」
「それだけで十分よ。欲張らない」
「はい」
「明日、同じことが体に残っているかどうかを確認する。残っていなければ最初からやり直す」
「残っていたら」
「次を教える」
リーディアは水袋を拾い、集落の方へ歩き始めた。
俺はその後を追いながら、自分の左腕を見た。
盾は消えているが、腕の感触が残っている。
衝撃を受けた感触。体勢を崩した感触。合図に反応した感触。
身体に刻まれているかどうかは、まだわからない。
でも、昨日より少しだけ、盾が自分のものになってきた気がした。
集落に戻ると、炊事の煙が一本、空へ上がっていた。
規則として、一度に立てられる煙は一本まで。
煙の多い集落は、遠くから見つかりやすい。
そういう気遣いが、日常の中に溶け込んでいる。
俺はそれを自然だと感じ始めている自分に、少し驚いた。
空き倉の前で、ノルが欠伸をしながら待っていた。
「遅かったな」
「傷が開きかけました」
「無理するな」
「無理したつもりはなかったんです」
「そういうのが一番まずい」
ノルは俺の脇腹を見て、続けた。
「リーディアに布を替えてもらえ。あの人、強引だけど手当ては丁寧だ」
「知っていますか」
「集落の怪我人は大抵あの人が診る。医者が足りないから」
「魔法使いが医者も兼ねているんですか」
「魔法が使えりゃ何でもできると思ってるだろ、お前」
「そうではないんですか」
「魔力にも向き不向きがある。リーディアの黒燐火は攻撃向きだ。回復向きじゃない。でも、薬の調合は丁寧にできる。だから医者の代わりをする」
「なるほど」
「本当に向き不向きがあるのは、生き物の方だけどな」
ノルは照れたように目を逸らした。
「なんか、お前に話しすぎた」
「ありがとうございます」
「礼を言われることでもない」
「でも、助かります。知らないことが多いので」
「知りたいことがあれば聞けばいい。ただし、答えるかどうかはこっちが決める」
「それで十分です」
ノルは少し困った顔をした。
「本当に変な人間だな」
「それは、ここ数日でよく言われます」
「これからも言われると思うぞ」
「でしょうね」
俺は空き倉の前に立った。
集落の朝が動いている。
昨日より、少しだけ音の種類がわかってきた。
炊事の音。荷物を運ぶ音。見張りの交代を告げる短い鐘。
全部が、ここに人が暮らしているという音だった。
戦場近くで、それでも暮らしている。
当たり前のように聞こえるその音が、俺には当たり前ではなかった。
「ノルさん」
「何だ」
「トマは今朝、飯を食べましたか」
ノルが少し止まった。
「なんでそれを聞く」
「セラム長から、食事を残していると聞いたので」
「今朝は食べた。全部かどうかは知らない」
「そうですか」
「話しかけるなよ」
「セラム長にも言われました」
「向こうから来たときは無視もするなとも言われたか」
「はい」
「難しいことを言う人だ、セラム長も」
ノルは欠伸をしながら、見張り台の方へ歩いていった。
俺は空き倉の中に入り、木箱の前に座った。
昨日と同じ場所。同じ箱。同じ天井。
ただ、昨日より少しだけ違う。
盾の構え方を知っている。
目線ではなく足を見ることを知っている。
合図に体を反応させる練習をした。
小さい。
どれも、大きな力には程遠い。
リーディアの黒燐火一発で倒せる相手を、俺は十回受けてもたぶん倒せない。
でも、十回受け続ければ、彼女が一発撃てる。
それが俺の役割だと、今日の朝に少しだけわかった。
俺は目を閉じた。
胸の奥に、点のような痛みが散っている。
見張りの、弱い警戒の感触。
それだけだ。
今は、それだけで十分だった。
次話は明日の19:00に投稿します。
1日1話投稿の予定になります。
よろしくお願いいたします。




