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第11話 人類軍の置き土産

 午前中は矢羽根の仕事の続きをした。


 リーディアが昨日切り揃えた羽根が、まだ半分ほど残っている。


 麻糸で巻く作業は、俺一人でもできる。


 ノルが扉の外で見張り、俺は木箱を机代わりに座って手を動かした。


 単純作業は、考えながらでもできる。


 昨日の訓練を、頭の中で繰り返した。


 構え。重心。盾の角度。足先を見る。合図に反応する。


 体で覚えたことを、言葉に変換する。


 言葉にできないうちは、まだ曖昧な段階だと思っていた。


 一本。


 二本。


 三本。


 羽根を巻きながら、昨日の感触を確かめる。


 盾が腕の延長になってきている気がした。


 気がする、というだけで、実際に戦えば全然足りないのはわかっている。


 ただ、一昨日の夜に初めて盾を出したときの、重くて扱いに困った感触とは違う。


 それだけは確かだった。


 昼前に、オルドが来た。


 灰色の長衣に、腰まで伸びた白い顎髭。


 杖は持っていない。


 背は高くないが、入ってきた瞬間に部屋の空気が少し変わった気がした。


「邪魔するよ」


 オルドは断ってから入ってくる老人だった。


 木箱を一つ引き寄せ、腰を下ろす。


 俺も作業を止めた。


「続けていいよ。手を止めさせるつもりはないから」


「いえ、話があるなら向き合います」


「律儀だね。まあ、若い人が年寄りに礼儀正しいのは悪いことじゃない」


 オルドは矢羽根の束を見た。


「仕事をしているね」


「させてもらっています」


「向こうの世界でも、こういう細かい作業が得意だったかい」


「書類仕事が多かったので、細かい作業は慣れています」


「書類仕事か。紙に文字を書く仕事かね」


「それに近いです」


「文字は読み書きできるね。こちらの言葉を覚えるのも早い。転移のときに言語だけは整えてもらったかな」


 俺は少し驚いた。


「転移のことをご存じなんですか」


「セラムから聞いた。神を名乗る何者かに連れてこられたと。珍しい話ではないよ、こういうことは」


「珍しくないんですか」


「珍しくはある。ただ、皆無ではない」


 オルドは腰の革袋から、小さな本を取り出した。


 本というより、薄い手帳に近い。


 表紙は革張りで、端が擦れている。


「百年ほど前の記録だよ。別の世界から来た者の話が、いくつか残っている」


「そんな記録があるんですか」


「魔族側の古い文書庫に。人類側にも似たような記録があると聞くが、見たことはない」


 オルドは手帳を開いた。


「共通しているのは、転移者はたいてい魔力核を持たない。でも、何らかの力を持ってくる。その力は、この世界の魔法体系とは異質なものだ」


「俺の召具とスキルですね」


「そう。リーディアが言っていた。盾を出し、相手を鈍らせ、敵意を感じ、仲間を強化する。どれもこの世界の術式では再現できない動き方をする」


「問題がありますか」


「問題というより、興味深い」


 オルドは手帳を閉じた。


「ソーイ、一つ聞いていいかね」


「はい」


「あの夜、術杖の男が言った言葉。虚環の器という言葉を、転移の神様とやらも使ったかい」


 俺は少し考えた。


「使いませんでした。ただ、魔族領に落としたこと。人間と魔族が争うかを見ろと言ったこと。それだけです」


「虚環という言葉は」


「使いませんでした」


「でも、その神様はお前をわざわざここへ送った」


「はい」


「魔力核のない、力の入れ物が空の状態の人間を」


 オルドの目が細くなった。


「虚環の器、という言葉の意味を、私なりに解釈するとね」


「聞かせてください」


「虚環とは、この世界に開いた穴だと古い文献には書かれている。争いが生む死と憎しみが積み重なり、世界に空白が生まれる。その空白が穴になる」


「穴から、王骸が来る」


「王骸がそれを利用する。ただし、穴は向こうから一方的に開けるのではなく、こちら側に受け皿がないと機能しない」


 受け皿。


 その言葉が、胸の奥に刺さった。


「俺が受け皿になる、ということですか」


「可能性として、ね。魔力核という内側の蓋を持たない人間は、外からの力を受けやすい。通常は、それだけでは器にならない。ただ、あの黒い石を砕いたときに何かが起きたとすれば」


「起きたと思います」


 俺は昨夜の感覚を話した。


 白い部屋の幻。暗い穴。低い笑い声。泥のような感覚が内側から流れ込んだこと。


 オルドは黙って聞いた。


「リーディアも一部は感じたと言っていました。笑い声と、穴のようなものを」


「彼女も感じたか」


「はい」


「それは、おそらく石の効果が広域に出たのだろう。ただ、お前に流れ込んだものは、彼女より強かったはずだ」


「そうかもしれません」


「今も何か残っているか」


 俺は胸の奥を確認した。


 敵意標識の感触。見張りたちの弱い警戒。


 それ以外は特に何もない。


「今は何もないと思います」


「なら、石の効果は一時的なものだったかもしれない。あるいは、何かを確認しただけで、本格的な干渉はまだ先か」


「先があるということですか」


「可能性の話だよ」


 オルドは穏やかに言った。


 脅しでも警告でもなく、ただ可能性として話す。


 その話し方が、かえって俺には重く聞こえた。


「オルドさん」


「何かね」


「虚環の王骸というのは、今も動いていますか」


「動いていると思っている。ただし、完全に目覚めてはいない」


「なぜ完全ではないんですか」


「まだ足りないのだろう。死と憎しみの積み重なりが」


 俺は羽根の束を膝の上に置いた。


「つまり、戦争が続けば続くほど、目覚めに近づく」


「そういうことになる」


「戦争を止めれば、目覚めが遅くなる」


「遅くなるか、あるいは止まるか。ただし、すでに積み上がったものは消えない。止めたところで、残ったものがある」


「それでも、続けるよりはましですね」


「そうだね」


 オルドは少し間を置いた。


「その考え方は、人魔共存と繋がっている」


「はい」


「それが転移の神様の意図か、お前自身の考えかは知らないけどね」


「両方だと思います。最初は神様に言われました。でも今は、自分でもそう思っています」


「それでいい」


 オルドは立ち上がった。


「一つだけ気をつけることがある」


「何ですか」


「虚環の器として狙われている可能性があるなら、またあの石を使われたとき、今度はもっと強くくる可能性がある」


「どうすれば防げますか」


「今のところ、わからない。ただ、一つだけ言えることがある」


 オルドは俺をまっすぐ見た。


「あのとき、お前が意識を保てたのは、リーディアが声をかけたからだ」


「はい」


「一人でいるときに来たら、止まらないかもしれない」


「一人にならないように、ということですか」


「なるべくね。それと、もし流れ込んでくる感覚があったら、すぐに誰かに言う。声を出す。黙っていると、引きずり込まれる」


「わかりました」


 オルドは扉の方へ歩いた。


 出がけに、一度振り返る。


「矢羽根の巻き方、きれいだね」


「几帳面なんです」


「いい性質だよ。こういう場所では、几帳面な人間はありがたい」


 オルドが出ていった。


 静かになった倉の中で、俺は手元の羽根を見た。


 麻糸で丁寧に巻かれた羽根が、三十本ほど並んでいる。


 小さな仕事だ。


 でも、この矢が誰かを守るかもしれない。


 俺の体が盾になるのと、同じことだ。


 昼過ぎにリーディアが来た。


 表情が、いつもより少し硬い。


「何かありましたか」


「斥候の痕跡調査の結果が出た」


 リーディアは木箱に腰を下ろした。


「一昨日逃げた斥候の通ったと思われる経路を、セラム長が人を出して調べた」


「わかったことがありましたか」


「痕跡が二種類あった」


「二種類」


「一つは普通の人類軍斥候の足跡と装備の痕跡。もう一つは、全く別の何かが通った跡」


「別の何か」


「魔力の焦げ跡よ。地面に線を引いたような形で残っていた。人類軍の術式でも、魔族の術式でも、オルドが見て首を振った」


「つまり、第三の誰かが同じ経路を使った」


「使ったのではなく、準備をした可能性がある」


 俺は少し考えた。


「斥候が来る前に、経路を整えておいた?」


「かもしれない。あるいは、斥候を誘導した」


「斥候を、このあたりへ引き込んだということですか」


「わかならい。でも、一昨日の夜の出来事が、偶然ではない可能性が高まった」


 偶然ではない。


 つまり、誰かが意図してあの夜の状況を作り出した。


「目的は何だと思いますか」


「俺への接触か、集落への揺さぶりか、あるいはその両方」


 俺への接触。


 虚環の器という言葉が、また頭をよぎった。


「オルドさんから、虚環の器の話を聞きました」


「私も聞いた。一昨日の夜の後に」


「どう思いますか」


 リーディアは少し間を置いた。


「正直に言う」


「はい」


「信じたくない」


「はい」


「でも、否定できる材料もない」


「それも、はいです」


 リーディアは俺を見た。


「あなたが器として狙われているなら、集落に置いておくことが危険になる」


「追い出すということですか」


「セラム長はそう簡単には動かない。ただ、私は考えている」


 俺は羽根の束を脇に置いた。


「俺が出ていく方が、集落のためになりますか」


「今はまだわからない。出ていっても、どこへ行くのか。一人では死ぬとわかっている」


「そうですね」


「だから、今は留まる。ただし、また黒い石が来たとき、集落の中だと被害が広がるかもしれない」


「俺が受ける範囲を小さくする方法はありますか」


「オルドが考えている。ただし、急には出ない」


 二人の間に、短い沈黙があった。


「リーディアさん」


「何」


「一昨日の夜、小屋であなたが俺に声をかけてくれたとき、意識が戻りました」


「オルドから聞いた。それが効いたらしい」


「なぜ声をかけたんですか」


 リーディアは少し考えた。


「倒れる前のあなたの顔が、引きずられていく顔だったから」


「引きずられていく」


「穴に落ちる前の顔と、寝ている顔は違う。あのときのあなたは、後者ではなかった」


「見たことがあるんですか。穴に落ちる前の顔を」


「一度だけ」


 それ以上は言わなかった。


 俺も聞かなかった。


 聞いてはいけない気がした。


 「一度だけ」


 それ以上は言わなかった。


 俺も聞かなかった。


 聞いてはいけない気がした。


「ありがとうございます」


「また引きずられそうになったら、すぐに言う」


「はい」


「言えない状況なら、声を出す。何でもいい。声が出れば、引きずり込まれにくくなるとオルドが言っていた」


「わかりました」


「一人でいるときは特に気をつけて」


「オルドさんにも言われました」


「二人に言われたなら、覚えられるでしょう」


「努力します」


「努力目標にしないで」


「します、に変えます」


「そうして」


 リーディアは立ち上がりかけて、矢羽根の束に目を向けた。


 三十本ほど、きれいに並んでいる。


「午前中の仕事ね」


「はい。切っていただいた分を全部巻きました」


「早い」


「几帳面なので」


「オルドも同じことを言っていたわ」


「そうですか」


「褒め言葉よ。半分じゃなく」


 珍しい言い方だった。


 俺は少し驚いて、リーディアを見た。


 彼女はすでに扉の方を向いていた。


「午後も仕事が来る。続けて」


「はい」


 リーディアが出ていく。


 扉が閉まった。


 俺は矢羽根の束を見た。


 半分じゃなく。


 その言葉が、しばらく胸の中に残った。


 午後の半ば、集落の外れから声が上がった。


 見張りが何かを叫んでいる。


 言葉が聞き取れない。


 俺は扉に近づいた。


「ノルさん」


 今日の午後の見張りはノルではなく、眉の太い三十代の男だった。


「何だ」


「外で何かありましたか」


「関係ない」


「俺の敵意標識を使えるなら、今確認します」


 男は少し迷った。


 直後、扉の外から足音が近づいてきた。


 リーディアだった。


「来て」


「外に出ていいんですか」


「セラムの許可が出た。急いで」


 俺は立ち上がり、後に続いた。


 集落の北側の柵の近くに、数人が集まっていた。


 セラムが中心にいる。


 その手前に、一人の男が膝をついていた。


 魔族の男。三十代ほどに見える。


 服は泥で汚れ、片腕に血が滲んでいた。


 俺はリーディアの後ろに立ったまま、状況を確認した。


「拾ってきたのか」


 セラムが見張りの一人に聞いた。


「境界森の手前で倒れていました。一人です」


「氏族印は」


「ヴァラン氏族のものです」


 セラムの目が細くなった。


 周囲の者たちがざわめく。


 ヴァランという名前が何を意味するのかは、俺にはわからない。


 だが、反応の重さからして、軽い名前ではないらしい。


「リーディアさん」


 俺は小声で聞いた。


「ヴァラン氏族とは」


「灰境線の東側を守っていた氏族。半年前から消息が途絶えている」


「消息が」


「集落ごと消えた。人類軍に壊滅させられたとも、移動したとも言われているけど、確認が取れていない」


 消えた氏族の男が、ここへ来た。


 俺は膝をついた男を見た。


 意識はある。


 ただ、目の焦点が合っていない。


 極度の疲弊か、怪我の影響か。


 胸の奥に感触がある。


 敵意標識。


 だが、男からの痛みではない。


 方向が違う。


 俺は首を巡らせた。


 北。


 柵の外。


 森の方向。


「リーディアさん」


「何」


「北から、敵意が来ています」


 一瞬で、その場の空気が変わった。


 セラムが素早く指示を出す。


「見張りを二枚増やせ。北側の柵に人を出す。この者は医療棟へ。急いで」


 集落が動き出す。


 膝をついていた男が、二人に抱えられて運ばれていく。


 リーディアの右手に銀紋が浮かんだ。


「数は」


「わかりません。ただ、一つではない。強い敵意が、三つか四つ」


「遠さは」


「森の中。歩いて、一分から二分の距離だと思います。昨夜の見張りの感覚と比べて」


「移動しているか」


「今は止まっています。様子を見ているかもしれません」


 セラムがこちらへ来た。


「感知できるか」


「はい。今は止まっています。動き始めたらわかります」


「続けて知らせろ。動いたら声を出す。方向と距離を」


「はい」


 俺は目を閉じた。


 胸の奥の感触に集中する。


 北の森に、三つか四つの鋭い痛み。


 昨夜のノルの六割とは違う。


 もっと硬い。


 殺意とまでは言えないが、それに近い緊張感を持った敵意。


 動かない。


 じっとしている。


 待っている。


 何を。


「動いていません。ただ、集落を見ている感じがします」


「見ている」


「方向が、北の柵に向いています。中に来るつもりではなく、外から確認している」


「斥候か」


「わかりません。ただ、人類軍の斥候とは感触が違います」


「どう違う」


「人類軍の斥候は、昨日、もっと広く動いていました。今のは、一点を見ている感じです」


 セラムは少し考えた。


「ヴァラン氏族の男を追ってきた可能性がある」


「護衛ですか」


「あるいは、監視」


 リーディアが短く息を吐いた。


「消えたはずの氏族の男が、なぜ今ここへ来るのか」


「それを確認する必要がある。ただし、今は入れない」


 セラムは見張りに向いた。


「北の柵に人を張れ。ただし、攻撃はするな。向こうが動かなければ、こちらも動かない」


「はい」


 見張りたちが柵へ向かう。


 俺は目を閉じたまま、北の敵意を追った。


 三つ。


 いや、四つ。


 もう一つ、弱いものがある。


「四つです。一つは、他より弱い。怪我をしているか、疲弊しているか」


「今運び込んだ男と同じ状態か」


「可能性があります」


 セラムが俺を見た。


「お前、よく知らせてくれた」


「たまたま確認しただけです」


「たまたまでも、知らせた」


 セラムはそれだけ言い、見張り台の方へ歩いた。


 リーディアが俺の隣に立った。


「続けて感知できるか」


「体力が続く限りは」


「疲れたら言う」


「はい」


 俺は目を閉じたまま、北の四つの痛みを追った。


 動かない。


 ただ、見ている。


 しばらくして、一つが動いた。


「一つが、西へ動いています」


 リーディアが素早くセラムの方へ声をかける。


 見張りが対応する。


 俺はその場で立ったまま、目を閉じて感知を続けた。


 風が吹いてきた。


 草の匂い。


 森の湿気。


 それから、ほんのわずかに、焦げたような匂いが混じった。


 あの夜の黒い石に似た、嫌な匂い。


「リーディアさん」


「何」


「焦げた匂いがします。石が使われたかもしれません」


 リーディアの銀紋が、手首から首筋まで一気に広がった。


「場所は」


「西。さっき動いた一つの方向」


「下がって」


 リーディアが前へ出る。


 俺は二歩下がり、盾を出した。


 北の三つの痛みが動いた。


 同時に。


「北も動きます!」


 セラムの声が飛ぶ。


「北の柵を守れ!西に術者がいる!」


 集落が一気に動き出した。


 俺は盾を構えたまま、リーディアの後ろで立った。


 敵意標識が、四方向からじわじわと近づいてくる。


 北と西だけではない。


 東にも、弱い痛みが生まれていた。


「東にも来ています。弱い一つ。回り込もうとしているかもしれません」


「声を出し続けて」


「はい」


 俺は声を出し続けた。


 方向。距離。強さ。動きの変化。


 感じたことを、すべて言葉にして出した。


 戦闘はリーディアとセラムと見張りたちがやっている。


 俺は感じて、言葉にするだけだ。


 それだけだ。


 それだけだが、周囲の動きが少し早くなっている気がした。


 知らせることが、役に立っている。


 盾を構えながら、俺はそのことを確認した。


 倒すことができなくても。


 大きな力がなくても。


 できることを確実にやれば、少しだけ場が変わる。


 リーディアが言っていた言葉が、今になって体の中に落ちてきた気がした。

次話は明日の19:00に投稿します。


1日1話投稿の予定になります。


よろしくお願いいたします。

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