第7話 働かざる客人
「昨日と今朝のこと、全部は信じていない。でも、あなたがあの黒い石を砕いた男と仲間ではないことは、少しだけ信じる」
「少しだけ、ですか」
「少しだけよ」
「十分です」
俺がそう答えると、リーディアは不思議そうに眉を寄せた。
「十分なの?」
「昨日の夜から考えると、だいぶ進歩しています。最初は森で撃たれてもおかしくなかったので」
「撃たれてもおかしくない自覚があるなら、もっと怪しくない行動をしなさい」
「努力します」
「努力目標じゃ困るのだけど」
「善処します」
「それ、信用できない言葉ね」
「俺のいた場所でもそうでした」
リーディアは軽く息を吐いた。
呆れたのか、少しだけ笑ったのか。
その違いは、まだよくわからない。
「夕方まで外に出ないこと。水が必要なら、見張りに声をかける。勝手に歩かない。武器を出さない。子どもに話しかけない」
「はい」
「何かあれば呼ぶ。何もなくても呼ぶかもしれない」
「監視ですね」
「そうよ」
リーディアは当然のように言った。
そして、扉を閉めた。
木の板が軋み、外側で掛け金が下りる音がする。
閉じ込められた。
そう思ったが、不思議と怒りは湧かなかった。
屋根がある。
床は硬いが、獣はいない。
すぐそばに弓を持った見張りがいるのは不安だが、逆に言えば外からの襲撃にも気づきやすい。
昨日の森より、はるかにましだった。
俺は木箱に腰を下ろした。
空き倉の中は薄暗い。
小さな窓から入る光が、床の埃を白く浮かび上がらせている。
積まれた箱は空だ。
壁際には古い縄、欠けた桶、干からびた草束。
隅には、ネズミのものらしい小さな穴もある。
異世界に来て二日目の住居としては、悪くない。
たぶん。
「...働かざる者、か」
口に出してから、自分で苦笑した。
今の俺は、まさにそれだ。
助けられ、治療され、食料をもらい、監視の手間までかけさせている。
客人ではない。
捕虜でもない。
厄介な荷物。
そう考えると、胸の奥が落ち着かなかった。
会社員時代の癖だろうか。
給料をもらっているなら働く。
席を借りているなら役割を探す。
会議に呼ばれたなら、何かしら持ち帰る。
別に立派な勤労精神ではない。
何もしないでいる方が、居心地が悪いだけだ。
俺は倉の中を見回した。
古い縄は絡まり、桶は横倒し。
床には乾いた草と埃。
木箱は通路を塞ぐように雑に積まれている。
少し片づけるくらいなら、外に出なくてもできる。
問題は、勝手に動くと怪しまれることだ。
俺は扉の方を向いた。
「すみません」
外から返事はない。
「あの、見張りの方。聞こえますか」
しばらくして、扉の向こうから若い男の声がした。
「何だ」
「倉の中を片づけてもいいですか」
「は?」
素直な疑問の声だった。
「外には出ません。箱を積み直して、床の草を寄せるだけです。駄目ならやめます」
「...何のために」
「暇なので」
「怪しい」
「自覚はあります」
扉の向こうで、男が困ったように唸った。
「待て。リーディアを呼ぶ」
「すみません。そこまでしなくても」
「俺が判断できるわけないだろ、人間」
人間。
その呼び方に、胸が少しだけ重くなる。
だが、怒る資格はない。
ここではそれが俺の一番大きな特徴なのだから。
しばらくして、外で足音がした。
「何をしているの」
リーディアの声だ。
扉が開く。
外の光が差し込み、彼女が顔を出した。
その後ろに、見張り台にいた若い男もいる。
茶髪で眠そうな目。
昨日、門の上から俺に弓を向けていた男だ。
「倉の中を片づけてもいいか聞きました」
「なぜ」
「何もしないでいるのが落ち着かないので」
「逃げる準備?」
「この倉を片づけて逃げ道が増えるなら、やめます」
リーディアは中を見回した。
木箱。縄。桶。草束。
特に逃げ道らしいものはない。
むしろ、片づければ見通しがよくなって、監視しやすくなるくらいだ。
「道具は使わない。外に出ない。箱を壊さない。壁に触らない。窓に近づかない」
「はい」
「それなら、好きにして」
「ありがとうございます」
「本当に変な人ね」
「よく言われます」
リーディアが俺をじっと見る。
「それは嘘でしょ」
「すみません。最近言われ始めました」
「最近というか、昨日からね」
彼女はため息をつき、見張りの男に向いた。
「ノル。中で大きな音がしたら呼んで。武器が出たら撃つ前に私を呼んで」
「撃たなくていいのか」
「撃ちたいの?」
「いや、そういうわけじゃ」
ノルと呼ばれた若い男は、気まずそうに視線を逸らした。
年は二十歳前後に見える。
弓を持っているが、兵士というより猟師に近い雰囲気だ。
リーディアは俺に向き直る。
「無理に動くと傷が開く」
「気をつけます」
「その返事は信用できない」
「ゆっくり動きます」
「それなら少しはまし」
扉は開けたままになった。
外にはノルが立ち、リーディアはすぐに去っていく。
俺は見張られながら、倉の片づけを始めた。
片づけと言っても、大したことはできない。
箱を持ち上げようとすれば脇腹が痛む。
重いものを無理に動かすと、リーディアの言う通り傷が開きそうだった。
だから、まずは軽い草束を壁際に寄せる。
古い縄をほどき、使えるものと切れているものに分ける。
欠けた桶は隅へ。
空箱は、扉から中が見えるように低く積み直す。
単純作業だった。
だが、単純作業には救いがある。
手を動かしている間は、考えすぎずに済む。
神様。
転移。
魔族領。
人類軍。
虚環。
王骸。
頭の中で渦を巻いていた言葉が、少しだけ遠のいた。
「おい」
外からノルの声がした。
「はい」
「本当に片づけてるのか」
「見た通りです」
「何か探してるんじゃないのか」
「探しているとしたら、帰り道ですね」
「あるのか」
「ありません」
「なんだそれ」
ノルは扉の横に立ったまま、こちらを警戒している。
弓は手元にあるが、矢は番えていない。
距離は取っている。
俺から見れば、彼も十分怖い。
彼から見れば、俺の方がもっと怖いのだろう。
「ノルさん」
「さん?」
「呼び捨ての方がいいですか」
「好きにしろ。妙な感じがするけど」
「じゃあ、ノルさんで」
「なんでだよ」
「年下でも、初対面なので」
ノルは不審そうに眉を寄せた。
「人間のくせに、変に礼儀正しいな」
「人間にも色々います」
言ってから、少しだけ言葉を足した。
「魔族にも色々いるように」
ノルの表情が固くなった。
しまった。
余計なことを言ったか。
だが、彼は怒鳴らなかった。
「魔族って言い方、やっぱり外の人間だな」
「こちらでは違うんですか」
「俺たちは自分たちを魔族なんてあまり呼ばない。氏族名か、集落名か、普通に民って言う」
「そうなんですね」
「人間側がまとめて魔族って呼ぶ。こっちも向こうを人間って呼ぶけど」
ノルは少し気まずそうに言った。
自分でも、俺を人間と呼んでいたからだろう。
「じゃあ、俺はどう呼べばいいですか」
「知らない。俺に聞くな」
「グレイノの人たち、でいいですか」
「長い」
「では、グレイノの民」
「もっと変だ」
「難しいですね」
「普通に名前で呼べばいいだろ」
「全員の名前を知りません」
「なら黙ってろ」
「はい」
会話はそこで途切れた。
だが、完全に閉じた感じではなかった。
少なくとも、石を投げられるよりはましだ。
俺は縄をまとめながら、ふと気づいた。
この世界では、人間と魔族の外見差はほとんどない。
だからこそ、名前や呼び方や所属が重い。
魔族と呼ぶか、氏族名で呼ぶか。
人間と呼ぶか、相手の名前で呼ぶか。
たったそれだけで、境界線が引かれる。
俺は昨日から、その境界線の上を何度も踏み抜いているのだろう。
昼前、リーディアが戻ってきた。
手には木の器を二つ持っている。
中身は、薄い粥のようなものだった。
灰色がかった穀物に、細かい豆のようなものが混じっている。
「食事」
「ありがとうございます」
「ノルの分も」
「俺の?」
ノルが驚いた顔をした。
「あなた、朝から何も食べてないでしょう」
「見張り中だし」
「食べながら見張れる」
「いや、でも」
「倒れたら見張りにならない」
リーディアの言い方には、有無を言わせないものがあった。
ノルは渋々器を受け取る。
俺も木箱を机代わりにして器を置いた。
「手、洗えますか」
リーディアが一瞬止まった。
「何?」
「食べる前に手を洗いたくて」
「水は貴重よ」
「そうでした。すみません」
「少しならいい。怪我もあるし」
彼女は小さな革袋から、水を俺の手にかけた。
指先についた埃と草の粉が落ちる。
「ありがとうございます」
「あなた、礼と謝罪が多い」
「他に出せるものが少ないので」
「仕事を一つしたでしょう」
リーディアは倉の中を見回した。
草束はまとめられ、縄は分けられ、箱は積み直されている。
元が元なので劇的ではないが、少なくとも人が座る場所は増えた。
「悪くない」
「それは、褒め言葉ですか」
「半分はね」
「半分が増えてきましたね」
「まだ全部には遠い」
「頑張ります」
リーディアは俺の脇腹を見る。
「傷は」
「少し痛みますが、たぶん大丈夫です」
「見せて」
「ここで?」
「見張りと私しかいない」
見張りのノルが粥を食べながら、気まずそうに視線を逸らした。
俺は上着を少しめくり、布の状態を見せる。
血は増えていない。
「開いてはいないわね」
「よかったです」
「無理はしないで」
「はい」
「午後も片づけるつもり?」
「許可があるなら」
「働きたいの?」
「働かないと、居づらいんです」
リーディアは俺を見る。
灰青の目に、少しだけ疑問が浮かんでいた。
「客人なら、休むものよ」
「俺は客人ではないので」
「捕虜でもない」
「なら、保留中の荷物ですかね」
「荷物は粥を食べない」
「では、保留中の人間で」
「その言い方、少し嫌ね」
「俺も言ってから嫌になりました」
リーディアは小さく息を吐いた。
「夕方、セラム長があなたに聞く。何ができるか、何を知っているか、何を知らないか」
「はい」
「そのとき、働けることがあるなら言いなさい。集落は余裕がない。役に立つなら、生かしておく理由が一つ増える」
「わかりました」
生かしておく理由。
重い言葉だ。
だが、今の俺にはそれが必要だった。
信用ではない。
好意でもない。
利用価値。
寂しいが、現実的だ。
この世界で三日生きるためには、まずそこから始めるしかない。
「この集落で足りないものは何ですか」
俺が聞くと、リーディアは少し考えた。
「全部」
「全部」
「人手。薬草。保存食。矢じり。布。塩。安全な道。信用できる情報。静かな夜」
「多いですね」
「戦場近くの集落なんて、そんなものよ」
「俺にできそうなのは、人手くらいですかね」
「人手としては、まだ弱い」
「正直ですね」
「嘘を聞きたい?」
「いいえ」
リーディアは粥を食べ終えると、空の器を重ねた。
「ただ、あなたの敵意を感じる力。あれは使える」
「敵意標識ですか」
「てきい、ひょうしき」
彼女は聞き慣れない音を繰り返した。
「そういう名前なの?」
「俺の頭には、そう浮かびます」
「変な名前」
「俺がつけたわけではないので」
「それで、どのくらいわかるの」
「まだ曖昧です。方向と、近い遠いくらい。数は痛みの数でなんとなく」
「痛み?」
「胸の奥がちくりとします。強い敵意だと、掴まれるみたいになります」
リーディアの表情が真剣になる。
「常に?」
「いいえ。敵意を向けられたときだけです。たぶん、罠や事故には反応しません」
「相手が殺す気ではなく、捕まえるだけなら」
「昨日の襲撃者には反応しました。斥候にも。でも、今の集落の人たちの視線には、ほとんど反応しません」
「敵意と警戒は違うのね」
「たぶん」
「たぶんが多い」
「昨日から使い始めたので」
「それもそうね」
リーディアは少し考え込んだ。
「夕方、セラム長にもそれを話して」
「はい」
「嘘はつかない。盛らない。できることとできないことを分ける」
「わかりました」
「その話し方だけは、少し信用できる」
「ありがとうございます」
「少しだけ」
「はい」
リーディアは扉へ向かう。
その途中で、床にまとめた縄の束を見た。
「これ、使える縄と捨てる縄を分けたの?」
「はい。たぶん、こっちが使える方です。切れかけているのは奥に」
「結び直しまで?」
「暇だったので」
「本当に働かないと落ち着かないのね」
「性分です」
「なら、午後は矢羽根を整える仕事を持ってくる」
「矢羽根」
「細かい作業。外に出なくていい。刃物は使わせない」
「助かります」
「助かるのはこちらよ。できるなら、だけど」
リーディアが出ていく。
ノルは器を持ったまま、俺を見ていた。
「お前、本当に変だな」
「それは、褒め言葉ですか」
「半分もない」
「厳しいですね」
「人間だし」
「まあ、それは変えられません」
俺がそう言うと、ノルは少しだけ困った顔をした。
「...ソーイ、だっけ」
「はい」
「リーディアに迷惑かけるなよ」
「もうかけています」
「増やすなって意味だ」
「努力します」
「その言い方は信用できないって、さっき言われてただろ」
「では、増やさないようにします」
「そうしろ」
ノルは扉の横に戻った。
俺は粥を食べた。
味は薄い。
少し酸味があり、豆は硬い。
でも、昨日の黒パンよりずっと食べやすかった。
腹に温かいものが入ると、少しだけ体が戻ってくる。
俺は空の器を木箱の上に置き、倉の中を見回した。
まだできることはある。
古い縄をさらに短くまとめる。
箱の割れた角を布で覆る。
床の草を乾いたものと湿ったものに分ける。
どれも小さな仕事だ。
世界を救うには程遠い。
人魔共存など、まだ口にすることすらできない。
けれど、俺がこの集落で最初に得るべきものは、大きな理想ではないのだろう。
信用ですら、まだ早い。
まずは、邪魔ではないこと。
次に、少しだけ役に立つこと。
第8話は明日6/5の19:00に投稿します。
よろしくお願いいたします




