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第5話 灰森の集落

「ソーイ、立てる?」


 リーディアの声に、俺は返事をしようとした。


 だが、喉がうまく動かなかった。


 床に片膝をついたまま、荒く息を吐く。

 胸の奥に残った泥のような感覚が、まだ消えない。


 敵意標識ではない。


 怒りや恐怖や憎しみが、他人のものとも自分のものともつかない形で流れ込んできた。

 そんな気持ち悪さが、骨の内側に残っている。


「...立てます」


 そう言って立とうとした瞬間、足に力が入らなかった。


 リーディアが俺の腕を掴む。


「立ててない」


「今から立つ予定でした」


「予定は未定ね」


「社会人時代によく聞いた言葉です」


「しゃかいじん?」


「俺のいた場所の、労働する大人です」


「今は捕虜に近いわよ」


「待遇の悪い出張ですね」


「口は動くのね」


 リーディアは呆れたように言いながらも、俺を壁際に座らせた。


 小屋の中は、ひどい有様だった。


 扉は半分壊れている。

 裏手の壁には人が通れるほどの穴。

 作業台は倒れ、瓶は割れ、薬草は床に散らばっている。

 焦げた床板から、まだ細く煙が上がっていた。


 床には三人の襲撃者が転がっている。


 短剣の男。

 槍の男。

 杖の男。


 全員、生きている。

 少なくとも、俺の目にはそう見えた。


「殺してないんですね」


「尋問するためよ」


「それでも、ありがとうございます」


「あなたのためじゃない」


「はい」


 リーディアは短く息を吐き、俺の脇腹を見た。


「怪我」


「少し切れただけです」


「少し?」


 彼女は膝をつき、破れたスーツの上着をめくった。


 白いワイシャツに血が滲んでいる。

 見ると、急に痛みが強くなった。


「見なければ痛くなかったのに」


「現実逃避しても血は止まらない」


「それはそうですね」


 リーディアは棚から布と小瓶を取り出した。

 瓶の栓を抜くと、苦い草の匂いが広がる。


「しみるわよ」


「どれくらい」


「叫ばない程度」


「基準が曖昧ですね」


 薬液が傷に触れた。


「っ、ぐ...!」


 叫ばない程度ではあった。


 ただし、声にならない程度ではない。


 脇腹に火箸を押し当てられたような痛みが走り、俺は思わず床を叩いた。


「叫ばなかったでしょ」


「叫べなかっただけです」


「同じよ」


「違います」


 リーディアは手際よく布を巻き、結び目を固く締めた。


 痛い。

 だが、血は止まりそうだった。


「歩ける?」


「歩く必要がありそうですね」


「ここはもう使えない。すぐ移動する」


「この人たちは?」


「縛って連れていく。集落長に見せる」


「集落長は小屋の場所を知らないんですよね」


「ええ。だからこそ、誰が命令を偽ったのか確認する必要がある」


 リーディアの目が、床に倒れた杖の男へ向いた。


「それに、あの言葉」


「虚環の器、ですか」


「知ってるの?」


「いいえ。ただ、嫌な響きでした」


「私も初めて聞いた」


 初めて。


 それが少し意外だった。


 リーディアは魔族領の住人で、戦場にも近い。

 彼女が知らない言葉なら、少なくとも日常的なものではないのだろう。


「王骸、とも言っていました」


「王の骸。古い呪い話に出てきそうね」


「実在すると思いますか」


「今のところは、面倒な襲撃者のたわごと扱い」


「冷静ですね」


「真に受けて怖がるのは、朝になってからでもできる」


 彼女はそう言うと、襲撃者たちを手際よく拘束し始めた。


 俺も手伝おうとしたが、立ち上がった瞬間にふらついた。


「座って」


「でも」


「あなたが倒れると荷物が増える」


「荷物扱いに戻った」


「まだ人間扱いされたい?」


「できれば」


「なら座って」


「はい」


 俺は大人しく座った。


 悔しいが、体が言うことを聞かない。


 敵意標識。

 堅守刻印。

 鈍化圧。

 防線号令。

 裂勢打ち。


 神様から与えられた技能は便利だった。

 便利だったが、俺自身の体力まで増やしてくれるわけではないらしい。


 少なくとも、今の俺はただの三十二歳の会社員に近かった。


 いや、昨日より少しだけ怪我をしている分、もっと悪い。


 小屋を出る頃には、空が白み始めていた。


 二つの月は薄くなり、森の輪郭が見えるようになっている。

 夜の間は化け物のように見えた木々も、明るくなると湿った普通の森に戻っていた。


 ただし、安心感はない。


 リーディアは襲撃者三人を一本の縄で繋ぎ、歩かせた。

 全員、腕を後ろで縛られ、口にも布を噛まされている。


 杖の男だけは意識が薄い。

 目を開けているのに、どこを見ているのかわからなかった。


「このまま連れていけるんですか」


「連れていくしかない」


「俺は何を」


「後ろを見て。敵意を感じたら言え」


「はい」


 役割がある。


 それだけで、少しだけ足が前に出た。


 俺はリーディアの少し後ろを歩いた。

 襲撃者たちのさらに後ろではない。

 彼らの横だ。


 盾を出せる位置。

 リーディアがそう指示した。


 森の道は、道と呼ぶには細かった。


 人が何度も通ってできた踏み跡。

 低い枝。湿った土。

 ところどころに、石で作られた小さな目印が置かれている。


「この道、集落へ続いているんですか」


「近くまでは。最後は回り道する」


「なぜ」


「まっすぐ行く道を知っている人間は少ない方がいい」


「俺に教えていいんですか」


「教えていない。連れているだけ」


「目隠しはしないんですね」


「したら転ぶでしょう」


「否定できません」


 リーディアは前を向いたまま、続けた。


「それに、あなたが集落を売る気なら、もう私の小屋でいくらでもやれた」


「信用されたと思っていいですか」


「思わないで」


「早かったですね」


「監視の段階が一つ変わっただけ」


「森から小屋、小屋から集落ですか」


「そう」


 なるほど。


 俺はまだ客人ではない。

 まして仲間でもない。


 監視対象の置き場が変わるだけだ。


 それでも、森で置き去りにされるよりはずっといい。


 歩きながら、俺は周囲を見る。


 木の幹に、ところどころ白い傷がついていた。

 爪痕ではない。刃物で刻んだ印のように見える。


「これは?」


「境の印。ここから先はグレイノの狩場」


「グレイノ」


「集落の名前。灰森の集落とも呼ばれる」


「灰森」


「昔、この森が一度焼けたの。戦争でね。今は木が戻ったけど、土を掘ると灰が出る」


 リーディアの声は淡々としていた。


 だが、その淡々さが重い。


 この世界では、地名にまで戦争の跡が残っている。


「人類軍が焼いたんですか」


「そう教わった」


「実際は?」


「燃やしたのは人類軍。火を広げたのは魔族側の反撃魔法。どちらが悪いかで、もう百年揉めている」


「百年」


「人間と魔族は、そういう話が多いの」


 見た目はほとんど変わらない。


 だが、魔力核があるかないか。

 どこで生まれたか。

 どの印を持っているか。


 それだけで、百年も争える。


 いや、俺のいた世界でも似たようなものかもしれない。

 形が違うだけで、人間は境界線を引くのが得意だ。


「何か言いたそうね」


「俺のいた場所も、そんなに偉そうに言えないと思っていました」


「争いがあったの?」


「ありました。俺は遠くからニュースで見ていただけですが」


「にゅうす」


「離れた場所の出来事を知る仕組みです」


「便利ね」


「便利ですが、見ているだけだと、自分は関係ないと思えてしまいます」


 リーディアはしばらく黙った。


「今は?」


「思えませんね」


「でしょうね」


 その言葉に、俺は苦笑した。


 今の俺は、まさに関係の中心へ落ちている。


 森が少し開けた。


 朝の光が差し込み、霧の中に木造の柵が見えた。


 高い城壁ではない。

 丸太を並べた防柵と、枝を組んだ目隠し。

 その内側に、低い屋根の家々が並んでいる。


 煙はほとんど上がっていない。

 朝なのに、火を使う量を抑えているのだろう。


 戦場近くの集落。


 その言葉が、急に現実になった。


 柵の上には見張り台がある。


 そこに立っていた若い男が、こちらを見つけた。

 外見は人間とほとんど変わらない。短い茶髪に、眠そうな目。


 だが、彼の首元には、リーディアと似た銀紋が薄く浮かんでいた。


「リーディア!」


 男が声を上げる。


 直後、弓が構えられた。


 俺に向けて。


「待って!」


 リーディアが片手を上げる。


「撃つな。集落長に会わせる」


「その男は?」


「身元不明。監視対象」


「後ろの連中は?」


「偽命令で私の小屋を襲った。捕虜」


 見張り台の男の顔が強張る。


 集落の内側がざわめいた。


 数人が柵の前に集まってくる。

 男女も年齢もばらばらだ。


 外見だけなら、俺のいた世界の村人だと言われても信じたかもしれない。


 角もない。

 翼もない。

 牙もない。


 ただ、服の上から覗く手首や首元に、薄い紋様を持つ者が何人かいる。

 そして全員の目が、俺を警戒していた。


「魔力核は?」


 見張りの男が聞いた。


 リーディアは一拍置いた。


「ない」


 空気が凍った。


 弓の弦が、ぎり、と鳴る。


 俺は両手を上げた。


「敵意はありません」


「黙って」


 リーディアに小さく言われた。


「すみません」


「謝るのも後」


「はい」


 柵の向こうから、年配の女性が出てきた。


 髪は白に近い灰色。

 背筋は伸び、目つきは鋭い。

 腰には剣ではなく、短い杖を下げている。


 この人が集落長だろうか。


 彼女が近づくと、周囲の者たちが自然に道を開けた。


「リーディア」


「セラム長」


 やはり、そうらしい。


 集落長セラムは、まずリーディアを見た。


 壊れた小屋から逃げてきたせいで、彼女の服は焦げ、肩には赤い傷がある。

 それを見ても、セラムは騒がなかった。


 次に捕虜たちを見る。


 最後に、俺を見た。


 長い沈黙だった。


 見られているだけなのに、尋問されている気になる。


「その者が、昨夜の鐘の元か」


「不明です。森で獣に襲われていたところを保護しました」


「保護」


 セラムの声は低い。


「魔力核がない者を、か」


「はい」


「人間だと知っていて?」


「小屋に着いてから確認しました」


「それで殺さなかった」


「殺す理由より、聞く理由が勝ちました」


 セラムの目が少し細くなる。


「聞いた結果は」


「自称、別世界から来た迷い人。名はソーイ。本名はモリカワ・ソウイチ。召具に似た盾と剣を持ちますが、魔力核はありません。人類軍ではないと言っています」


「証拠は」


「ありません」


 集落の者たちがざわつく。


 当然だ。

 証拠のない人間を連れてきました、と言っているのだから。


 セラムは俺を見たまま言った。


「ソーイ」


「はい」


「お前は人間か」


「はい」


 ざわめきが大きくなる。


 リーディアが横目で俺を見た。

 余計なことを言うな、という目だ。


 俺は慎重に言葉を選んだ。


「ただし、この世界の人類軍には属していません。俺は、昨夜この世界に落とされました」


「落とされた」


「自分でも信じがたい話ですが、そうとしか説明できません」


「誰に」


 神様、と言いかけて止まる。


 昨日のリーディアの反応を思い出した。


 この世界で神の名を出すことは、軽い冗談では済まない。


「神を名乗る男に」


 結局、言い換えても大差なかった。


 集落の空気が、さらに固くなる。


 セラムの表情は変わらない。


「神殿の者か」


「違います」


「神殿の者は、そう言う」


「でしょうね」


「認めるのか」


「俺が逆の立場なら、信じないと思います」


 また、ざわめき。


 だが、セラムだけは静かだった。


「では、何を差し出す」


 その問いは、リーディアの小屋で俺が考えたことと同じだった。


 信用してくれ、では足りない。

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