第4話 集落長は知らない
扉の板が、内側へ弾けた。
木片が飛び散る。
冷たい夜気が、小屋の中へ流れ込んだ。
リーディアの黒い火が、闇に走る。
炎は開いた扉の先を斜めに薙いだ。
誰かが低くうめく声がしたが、倒れる音は聞こえない。
外の男たちは退いたらしい。
「伏せて!」
リーディアの声に、俺は床へ転がった。
縛られた両手が邪魔で、受け身も何もない。
肩を強く打ち、息が詰まる。
直後、窓の細い隙間から何かが飛び込んできた。
小さな金属筒。
昨日の斥候が使ったものに似ている。
「またか!」
俺は反射的に左腕を突き出した。
黒灰色の粒が集まり、大盾が現れる。
縛られた手首のままでは構えにくい。
それでも、盾は俺の腕に張りつくように形を作った。
金属筒が床で跳ねる。
光。
耳を潰すような音。
「ぐっ...!」
盾の裏にいても、衝撃は完全には防げなかった。
視界が白く弾け、胃の奥がひっくり返る。
だが、昨日よりはましだった。
盾で遮った分、リーディアの方へ飛んだ光も弱まったのだろう。
彼女は膝をつきながらも、すぐに右手を扉へ向けた。
「黒燐火」
短く告げた瞬間、黒い炎が扉の外へ放たれる。
今度は人を狙ったのではない。
地面を走った火が、扉の前に黒い線を引いた。
近づくな。
そう言っているような炎だった。
外で足音が乱れる。
俺の胸の奥に、いくつもの痛みが走った。
敵意標識。
一つ。
二つ。
三つ。
いや、もっといる。
「数が多いです。正面に三人、左に二人。たぶん、裏にも」
「わかるの?」
「敵意だけは」
「便利ね」
「便利な状況ではないです」
「それはそう」
リーディアは扉から視線を切らず、俺に手を伸ばした。
「動ける?」
「縛られているので、あまり」
「でしょうね」
彼女は短剣を抜き、俺の手首の革紐を切った。
血が戻る感覚に、指先がじんじんする。
「逃げたら撃つ件は?」
「後で撃つ。今は盾になって」
「了解」
冗談か本気かわからなかったが、どちらでもいい。
俺は立ち上がり、扉の正面に盾を構えた。
左腕が痛む。肩も痛い。目もまだちかちかする。
それでも、盾があるだけで少し呼吸ができた。
「外の男、集落長の命令だと言っていました」
「嘘よ」
「小屋の場所を知らないから?」
「それもある。でも、集落長セラムは命令を出すとき、必ず封印紐を使う。口伝だけで私を動かそうとする相手は、よそ者か、よほどの馬鹿」
「外の人たちは?」
「馬鹿ではなさそうね」
リーディアの声は冷静だった。
その冷静さが、逆に状況の悪さを教えてくる。
外の男が再び声を張った。
「リーディア・ヴェルク。抵抗するな。その人間を渡せば、君は罪に問われない」
人間。
はっきり言った。
俺の背中に汗が流れる。
「どうして俺が人間だと」
「昨日の斥候が伝えた可能性がある」
「でも、あの斥候は俺の魔力核までは」
「見ていないはず。となると、別の情報源ね」
「最悪ですね」
「今さら?」
リーディアは短く笑った。
だが、その目は笑っていない。
「ソーイ。殺さずに止めたい?」
俺は一瞬だけ言葉に詰まった。
昨日なら、迷わずそう言ったと思う。
だが、今は違う。
殺さずに止めたいと言うなら、その分の責任を持てと彼女は言った。
綺麗な言葉だけでは、仲間を殺す。
「できるなら」
「できなければ?」
「あなたを死なせるくらいなら、止め方を選びません」
リーディアがこちらを見た。
ほんの一瞬だけ。
「少しは状況を覚えたようね」
「褒め言葉として受け取ります」
「半分はね」
昨日と同じ言い方だった。
それだけで、少しだけ落ち着いた。
外の足音が動く。
正面の三つの敵意が左右に分かれた。
裏の痛みが強くなる。
「裏です」
「わかった」
リーディアは作業台の上から小さな瓶を二つ掴んだ。
「盾を扉に向けたまま、三歩下がって」
「はい」
俺が下がると、彼女は瓶を床へ叩きつけた。
割れた瓶から、白い煙が噴き出す。
薬草の匂いが一気に広がった。
「これは?」
「鼻と目を鈍らせる煙。吸いすぎると眠くなる」
「俺たちは大丈夫なんですか」
「大丈夫じゃないから早く終わらせる」
「合理的ですね」
「黙って構えて」
煙が扉の外へ流れていく。
その瞬間、裏手の壁が鳴った。
斧か何かで打たれている。
木壁が軋み、土がぱらぱら落ちた。
俺は盾を持ったまま振り返った。
「裏、破られます」
「正面は?」
「正面も来ます」
「欲張りね」
「人気者ですね」
「嬉しくないわ」
次の瞬間、正面から男が飛び込んできた。
顔を布で覆い、短剣を逆手に持っている。
鎧は人類軍のものに似ているが、白い腕布はない。
昨日の斥候とは違う。
男の目が俺を捉えた。
「人間を返してもらう」
「俺は荷物じゃない!」
叫びながら盾を出す。
短剣が盾に滑り、火花が散った。
男の動きは速い。
だが、近づいた瞬間、ほんのわずかに動きが鈍る。
鈍化圧。
昨日より、少しだけ感覚が掴めた。
俺は盾を押し込む。
男は横へ逃げようとしたが、煙で視界が悪いのか反応が遅れた。
「リーディアさん!」
「伏せて」
俺は男ごと押し込むように低くなった。
頭上を黒い火が通る。
火は男の足元を焼き、靴底と床を焦がした。
男が体勢を崩す。
俺は盾の縁を肩に叩きつけた。
「裂勢打ち!」
男が床に転がる。
殺してはいない。
だが、すぐには立ち上がれないはずだ。
「一人!」
「数えなくていい。次!」
リーディアの声と同時に、裏の壁が破れた。
木片と土の塊が飛び散り、外から二人が入ってくる。
一人は槍。
もう一人は細い杖。
杖を持った男の手元に、赤い光が生まれた。
魔法か。
「右の杖!」
俺は叫んだ。
リーディアは反応が速かった。
黒燐火を撃つのではなく、作業台を蹴り倒した。
赤い光が放たれ、作業台に当たる。
木が爆ぜ、瓶が割れ、薬草の束が舞った。
「私の小屋で派手にやってくれるわね」
リーディアの声が低くなる。
怒っている。
かなり。
彼女の右手だけでなく、首筋にまで銀紋が浮かび上がった。
薄い線が鎖骨のあたりまで走り、暗い小屋の中で冷たく光る。
次に放たれた黒燐火は、さっきより太かった。
炎は槍の男の足元を抉り、床板を割る。
男は踏み込みを失い、槍先が空を切った。
俺はその隙に盾で受ける。
槍の穂先が盾を叩く。
重い。
獣や短剣とは違う。
真正面から押し込まれる力に、足が滑った。
「くそっ」
膝が折れそうになる。
堅守刻印が衝撃を軽くしているはずなのに、腕の奥まで痺れる。
相手は訓練された兵士だ。
俺みたいな素人とは違う。
でも、止める。
倒すのではなく、止める。
「防線号令!」
叫んだ瞬間、自分の声が胸の内側で反響した。
不思議な感覚だった。
声がただ空気を震わせるのではなく、見えない線になってリーディアへ伸びる。
彼女の周囲に、薄い黒灰色の膜のようなものが一瞬だけ浮かんだ。
リーディアが目を見開く。
「今の」
「防御が上がる、はずです!」
「はずで使うの?」
「初めてなので!」
「本当にあなたは」
文句の続きを言う前に、赤い光が彼女へ飛んだ。
リーディアは避けきれない。
だが、光は彼女に届く直前、薄い膜にぶつかって勢いを失った。
完全には防げず、肩をかすめたが、直撃ではない。
効いた。
初めて、防線号令が誰かを守った。
安堵する暇はなかった。
槍の男が俺の盾を弾き、懐に入ってくる。
短剣が抜かれる。
まずい。
胸の奥が激しく痛んだ。
敵意標識が、刃の向きを教える。
腹。
俺は体を捻る。
短剣がスーツの脇腹を裂いた。
熱い痛みが走る。
「っ!」
深くはない。
だが、血の感触がある。
俺は恐怖で足が止まりかけた。
その瞬間、リーディアが叫んだ。
「前を見て!」
そうだ。
止まるな。
俺は盾を身体ごとぶつけた。
裂勢打ちではない。
ただの体当たりに近い。
それでも、男は煙と床の崩れに足を取られていた。
盾に押され、壁へ叩きつけられる。
リーディアの黒い火が男の足元を縛るように走った。
炎は燃え広がらず、黒い縄のように床を這う。
男が動けなくなる。
「二人目!」
「数えなくていいって言ったでしょう!」
「癖です!」
残る杖の男が、後ずさった。
その視線はリーディアではなく、俺に向いていた。
「本当に魔力核がない...なのに、術を使う」
「俺にも説明できないんですよ」
「虚環の器か」
聞き慣れない言葉だった。
虚環。
神様の説明にも、リーディアの話にも出ていない。
だが、その響きに、なぜか背中が冷えた。
杖の男は懐から黒い石を取り出した。
リーディアの顔色が変わる。
「下がって!」
遅かった。
黒い石が砕ける。
小屋の中の空気が、ぐにゃりと歪んだ。
耳鳴り。
吐き気。
胸の奥の敵意標識が、一瞬で塗り潰される。
敵意ではない。
もっと濁ったもの。
怒り、恐怖、憎しみ、焦り。
誰の感情なのかわからないものが、泥のように流れ込んでくる。
「な、んだこれ...」
膝が落ちる。
視界の端に、白い部屋が見えた気がした。
胡散臭い神様ではない。
もっと暗い何かが、丸い穴の向こうからこちらを覗いている。
笑い声。
低く、遠い、底のない笑い。
「ソーイ!」
リーディアの声で、意識が戻った。
杖の男が、俺に向かって手を伸ばしている。
「来い。お前は境界の外から落とされた」
男の声が、男自身のものではなくなっていた。
「王骸は、お前の空白を好む」
意味がわからない。
わからないが、危険だということだけはわかった。
俺は盾を出そうとした。
出ない。
胸の奥が濁った泥で詰まっているようで、黒灰色の粒が集まらない。
リーディアが俺の前へ出た。
銀紋が、右手から首筋、頬の近くまで浮かんでいる。
「私の監視対象に、勝手に触らないで」
言い方はひどい。
だが、その背中を見た瞬間、呼吸が戻った。
リーディアの黒燐火が放たれる。
今度の火は黒ではなく、中心に銀の筋を持っていた。
火は杖の男の足元を撃ち抜き、黒い石の欠片を焼いた。
空気の歪みが弾ける。
泥のような感覚が薄れ、俺は床に手をついた。
杖の男は苦鳴を上げ、後ろへ倒れる。
だが、倒れる寸前に笑った。
「止まらない。灰境線はもう、餌を覚えた」
その言葉を最後に、男は気を失った。
小屋の中に、静けさが戻る。
いや、静かではない。
俺の荒い息。
リーディアの短い呼吸。
床でうめく襲撃者たち。
割れた瓶から広がる薬草の匂い。
焦げた木の臭い。
それらが、ぐちゃぐちゃに混ざっていた。




