第3話 魔族の小屋で夜を越す
「神様」
リーディアの声が、急に平坦になった。
疑われるとは思っていた。
頭がおかしいと思われる覚悟もしていた。
だが、彼女の反応はそのどちらとも少し違った。
驚きではない。
嫌悪でもない。
むしろ、面倒なものを聞いてしまった、という顔だった。
「あなた、神官なの?」
「違います」
「じゃあ、神殿の間者?」
「それも違います」
「神の名を使って身分を隠す者は、たいていそのどちらかよ」
「俺のいた場所では、神様を名乗る相手はだいたい怪しい人です」
「それは同意するわ」
同意されるとは思わなかった。
リーディアは右手の銀紋を消さないまま、作業台に置いた細い棒を下ろした。
光を失った石が、ただの灰色に戻る。
「神様とやらの話は、今は聞かない」
「いいんですか」
「聞いても判断材料にならない。あなたが嘘をついているのか、騙されているのか、本当におかしなものに巻き込まれたのか、今の私には区別できないもの」
「冷静ですね」
「冷静でいないと死ぬ場所なの」
その言葉に、俺は返事を失った。
リーディアは小屋の隅にある木箱を開け、革紐の束を取り出した。
投げて寄こされる。
「両手を前に」
「縛るんですね」
「条件を出したのはあなたよ」
「そうでした」
俺は素直に両手を差し出した。
リーディアは一瞬だけ迷ったように見えた。
だが、すぐに手首へ革紐を巻く。
きつすぎない。
血が止まるほどではないが、簡単には抜けない強さだった。
「逃げようとしたら?」
「撃つ」
「ですよね」
「大声を出したら?」
「撃つ」
「わかりました」
「勝手に武器を出したら?」
「それも撃つ」
「理解が早くて助かります」
「冗談を言う余裕があるの?」
「余裕がないので、口だけ動いています」
リーディアは少しだけ眉を寄せた。
呆れているのだろう。
ただ、その表情はさっきよりもわずかに柔らかい。
俺の命が助かったわけではない。
保留になっただけだ。
それでも、保留は大きい。
会社でもそうだった。
即決で駄目になった案件はどうしようもないが、保留になった案件には、まだ次の資料を出す余地がある。
今の俺に必要なのは、次の資料ではなく、次の朝までの命だったが。
「そこに座って。炉の近くには寄らないで」
「はい」
俺は床に置かれた丸太に腰を下ろした。
手首を縛られているせいで、座るだけでもぎこちない。
スーツの膝には泥がつき、革靴も傷だらけになっている。
ほんの数時間前まで、これは平日の帰宅途中だった。
今は、魔族の女性に拘束され、異世界の小屋で尋問待ちをしている。
人生は急に変わるにも程がある。
外でまた鐘が鳴った。
今度は一度だけ。
リーディアが窓の横へ移動する。
窓と言っても、板をずらして外を覗くための細い隙間に近い。
「さっきと違うんですか」
「三つは越境。ひとつは確認。斥候が見つかったか、痕跡が出たか」
「さっき逃げた人ですか」
「可能性は高い」
彼女の声には、責める響きがあった。
当然だ。
俺が殺すなと言ったせいで、斥候は逃げた。
あの男が仲間を呼べば、この小屋も危なくなる。
「すみません」
「その言葉、今夜だけで何回目?」
「数えていません」
「便利な言葉ね」
「そうですね」
「責められているのよ」
「はい」
俺は縛られた手を見る。
さっきの斥候の顔が浮かんだ。
月明かりの下で剣を抜いた、若い男だった。
あれを殺していれば、リーディアは安全だったかもしれない。
この小屋の位置も知られなかったかもしれない。
でも、殺せなかった。
俺は戦場の理屈を知らない。
正義も覚悟も足りない。
ただ、目の前で人が死ぬところを、まだ受け入れられなかった。
「聞いてもいいですか」
「内容による」
「あなたは、迷わないんですか」
リーディアの視線がこちらを向いた。
「人を殺すことを」
言ってから、危うい質問だと思った。
ここは魔族領だ。
彼女にとっては、人類軍の斥候は敵だ。
俺が聞いているのは、彼女の生き方を責める言葉にもなる。
だが、リーディアはすぐには怒らなかった。
窓から離れ、炉の前に立つ。
火は入っていない。煙が外に出れば見つかるからだろう。
「迷うわ」
短い答えだった。
「迷って、撃つ」
「それは」
「迷っている間に相手が撃てば、こっちが死ぬから」
俺は何も言えなかった。
「私が黒燐火を使うのは、人が嫌いだからじゃない。魔族だからでもない。相手が剣を抜いて、こちらを殺すつもりで来るからよ」
「黒燐火」
「さっきの黒い火。私の術」
「あれは、すごかったです」
「褒めているつもり?」
「はい。怖かったですが」
「正直すぎる」
リーディアは小さく息を吐いた。
「あなたはさっき、殺さないでと言った」
「はい」
「その言葉自体を責めるつもりはないわ。誰も殺さずに済むなら、それに越したことはない」
意外だった。
彼女は戦う人間だ。
少なくとも俺よりずっと戦場に近い。
その彼女が、そんなふうに言うとは思わなかった。
「でも、その言葉を言うなら、殺さずに止める力も一緒に持ちなさい」
「力」
「盾で受けるだけじゃ足りない。相手を逃がさず、こちらも死なせず、次に来る敵まで考える。できないなら、綺麗な言葉は仲間を殺す」
胸が痛んだ。
反論できなかった。
俺は正しいことを言ったつもりで、リーディアの危険を増やした。
それは事実だ。
「覚えておきます」
「覚えるだけでは足りない」
「練習します」
「誰が教えるの」
「...リーディアさんが、もしよければ」
彼女の目が細くなった。
まずい。
図々しすぎた。
「今のは取り消します。命を助けてもらった上に、教えてくれは厚かましいですね」
「自覚はあるのね」
「あります」
「なら少し黙って」
「はい」
俺は黙った。
数秒後、腹が鳴った。
自分でも驚くくらい、はっきりした音だった。
リーディアがこちらを見る。
「...」
「すみません」
「今のも謝るの?」
「反射で」
「便利な言葉」
「本当にそうですね」
リーディアは呆れたように棚を開けた。
乾いた黒いパンのようなものと、小さな革袋を取り出す。
俺の前に置いた。
「食べなさい」
「いいんですか」
「毒を盛るなら、もっと手早い方法がある」
「説得力がありますね」
「水はそこ。手が使いにくいなら、自分で工夫して」
「はい」
俺は縛られた手で黒いパンを持ち、かじった。
硬い。
そして、酸っぱい。
さらに、少し苦い。
「どう?」
「命の味がします」
「不味いなら不味いと言っていいわよ」
「不味いです」
「そう」
リーディアはなぜか少しだけ満足そうだった。
「保存食だから。おいしいものを出す理由はないもの」
「ごもっともです」
俺は水を飲んだ。
ぬるいが、喉にはありがたい。
食べ物が入ると、体が自分を思い出したように疲れを訴え始める。
肩が痛い。腕が重い。背中が落下の衝撃で鈍く痛む。
だが、眠るわけにはいかない。
目の前にいるリーディアは、助けてくれた相手であり、俺を撃てる相手でもある。
「寝てもいいわよ」
「心を読まないでください」
「顔に出ている」
「よく言われます」
「それは本当?」
「これは本当です」
リーディアは丸めた布を投げてきた。
「枕代わり。寝台は使わせない」
「床で十分です」
「逃げようとしたら撃つ」
「それも十分聞きました」
「覚えが悪そうだから」
「否定できません」
俺は床に腰を下ろしたまま、壁にもたれた。
手首は縛られている。
鞄は取り上げられた。
外では人類軍の斥候が動いている。
安心できる要素は一つもない。
なのに、まぶたが重かった。
人間は不思議だ。
極限状態でも、限界が来れば眠くなる。
視界の端で、リーディアが扉の横に座った。
膝に短い杖を置き、窓の方を見ている。
眠る気はなさそうだった。
「リーディアさん」
「何」
「なぜ、俺を殺さなかったんですか」
ずっと気になっていた。
魔力核がない。
人間だと認めた。
人類軍の斥候も近くにいる。
彼女から見れば、俺は危険の塊だ。
リーディアはしばらく答えなかった。
「さっきの獣」
「はい」
「あれは、あなたを食べようとしていた」
「そうですね」
「あなたは剣を持っていた。でも、斬れなかった」
「...はい」
「人類軍の斥候を相手にしたときも、殺すなと言った」
「それで迷惑をかけました」
「迷惑ね」
否定されなかった。
「でも、少なくとも今のあなたは、誰かを殺すためにここへ来たようには見えない」
その言葉に、胸の奥が少しだけ熱くなった。
信じてもらえたわけではない。
疑いが消えたわけでもない。
ただ、即座に敵と決めつけられなかった。
今の俺には、それだけで十分だった。
「ありがとうございます」
「感謝するのは早いわ。明日、集落の長に引き渡す」
「長」
「このあたりの責任者。私一人で判断するには、あなたは面倒すぎる」
「でしょうね」
「それも、よくわかっているのね」
「自分でも面倒だと思います」
リーディアはかすかに笑った。
本当に一瞬だった。
すぐに表情は戻る。
「寝なさい。夜明け前に動く」
「はい」
俺は目を閉じた。
眠れるはずがないと思った。
だが、闇に沈むのは早かった。
夢を見た。
白い部屋。
胡散臭い神様。
光る横断歩道。
その奥で、誰かが鐘を鳴らしている。
一度。
二度。
三度。
鐘の音に混じって、低い声が聞こえた。
人間が正しいわけじゃない。
魔族が悪いわけでもない。
では、何が悪いのか。
夢の中の俺は問い返そうとした。
だが、口が動かなかった。
代わりに、黒い火が視界を横切った。
火の向こうで、誰かが笑っている。
神様ではない。
もっと低く、もっと遠く、底のない穴の奥から響くような笑い声。
目を開けろ。
そう言われた気がした。
目を開けた瞬間、俺は息を止めた。
小屋の中は暗い。
炉に火はない。
窓の隙間から、青い月明かりだけが差し込んでいる。
リーディアは扉の横に座ったまま、目を閉じていた。
眠っているのかと思った。
違う。
彼女の右手には、銀紋が浮かんでいる。
警戒している。
胸の奥が、ちくりと痛んだ。
敵意標識。
痛い。
さっきまでとは違う。
細い針ではない。冷たい指で心臓を掴まれるような感覚。
敵意が近い。
小屋の外だ。
「リーディアさん」
声を出すと、彼女の目が開いた。
「何」
「外に、います」
リーディアは一瞬で立ち上がった。
「数は」
「わかりません。でも、近い。かなり」
彼女が窓の隙間に寄る。
俺も立とうとして、縛られた手のせいでよろけた。
「動かないで」
「でも」
「あなたが動くと音が増える」
正論だった。
俺は壁にもたれ直す。
外から、草を踏む音がした。
一つではない。
二つ、三つ。
小屋を囲むように、ゆっくり動いている。
リーディアの表情が険しくなる。
「人類軍ですか」
「たぶん。でも、変」
「変?」
「足音を隠していない。斥候ならこんな歩き方はしない」
その言葉の意味を考える前に、扉の向こうから声がした。
「リーディア・ヴェルク」
男の声だった。
低く、よく通る。
「小屋の中にいる身元不明者を渡せ」
俺の背中に冷たい汗が流れた。
リーディアは答えない。
男の声は続いた。
「そいつは人類軍の間者だ。こちらで処理する」
「こちら?」
リーディアが小さくつぶやいた。
その声には、疑念があった。
外の男は、さらに言った。
「集落長の命令だ。扉を開けろ」
リーディアの目が、細くなった。
俺には集落長が誰かもわからない。
その命令が本物なのかも判断できない。
だが、リーディアの反応だけはわかった。
彼女は信じていない。
「リーディアさん」
俺は小声で言った。
「俺を渡せば、あなたは安全なんじゃないですか」
「黙って」
「でも」
「集落長は、私の小屋の場所を知らない」
心臓が、嫌な音を立てた。
外の声が止まる。
沈黙。
そして次の瞬間、扉の板が内側へ弾けた。
第4話は明日6/1の19:00も投稿します。
よろしくお願いいたします




