第2話 見張られる客人
リーディアの背中を追いながら、俺は森の暗さを初めて怖いと思った。
さっきまでだって怖くなかったわけじゃない。
見たこともない獣に襲われ、盾が勝手に出て、知らない女に黒い火で助けられた。
十分すぎるほど怖い。
だが、鐘が鳴ってからの森は、別物だった。
葉擦れの音が、人の足音に聞こえる。
枝が折れる音が、弓を引く音に思える。
遠くで鳥が鳴いただけで、背中が勝手に強張った。
「足音を抑えて」
前を歩くリーディアが、振り返らずに言った。
「すみません」
「謝るより、足を置く場所を見て。枯れ枝を踏まない。泥には入らない。月明かりの下に出ない」
「注文が多いですね」
「生きたいなら覚えて」
「はい」
反論する余裕はなかった。
俺は革靴で、彼女は森を歩くための柔らかそうな靴だ。
足場の差もある。経験の差はもっとある。
それでも、置いていかれないよう必死についていく。
胸の奥に、またちくりとした感覚が走った。
敵意標識。
俺は立ち止まりかけた。
「右、です」
口から出た声は、自分でも驚くほど小さかった。
リーディアの足が止まる。
「何が」
「見られている気がします。右の奥から」
「気がする?」
「敵意、たぶん」
リーディアの右手に銀紋が浮いた。
彼女は木の陰に身を寄せ、俺にも手で低くなるよう指示する。
俺は慌てて膝を折った。
数秒後、右手の茂みがわずかに揺れた。
月明かりの中に、人影が一つ浮かんだ。
外見は人間と変わらない。
いや、人間なのだろう。
革の胸当て。短い外套。腰に剣。
腕には白い布が巻かれている。布には見慣れない紋章が描かれていた。
人類軍の斥候。
そう理解した瞬間、喉が詰まった。
同じ人間だ。
俺と同じ種族のはずの相手が、今はリーディアにとって敵で、俺にとっても安全な相手ではない。
斥候は周囲を探っている。
こちらにはまだ気づいていないらしい。
リーディアが小さく指を動かした。
待て。
そういう意味だとわかった。
斥候が一歩近づく。
俺の胸の痛みが強くなる。
敵意というより、殺気に近い。
こいつは何かを探している。
見つけたら、迷わず攻撃するつもりだ。
俺は息を殺した。
だが、足元の土が崩れた。
小さな音だった。
日本なら、誰も気にしないような音。
しかし斥候は反応した。
「誰だ」
剣が抜かれる。
リーディアの銀紋が強く光った。
まずい。
今ここで撃てば、相手は死ぬ。
逆に撃たなければ、俺たちが見つかる。
頭ではわかる。
ここは戦場の近くで、相手は武装した侵入者だ。
それでも、目の前の相手が人の形をしているだけで、体が重くなった。
「リーディア」
俺は思わず声を出した。
彼女の視線が一瞬だけこちらに向く。
斥候もこちらに気づいた。
「魔族か!」
斥候が踏み込む。
速い。
俺は反射的に左腕を上げた。
黒灰色の粒が集まり、大盾が現れる。
剣が盾に当たった。
金属音。
腕が痺れる。
リーディアの黒い火が放たれようとした。
「殺さないでください!」
自分でも馬鹿なことを言ったと思った。
だが、口から出てしまった。
リーディアの火がわずかに逸れた。
黒い火は斥候の足元を焼き、土を爆ぜさせる。
斥候が体勢を崩した。
俺は盾を押し出す。
「くっ!」
裂勢打ち。
盾の縁が斥候の肩に当たり、男は後ろへ倒れ込んだ。
剣が手から離れる。
殺してはいない。
ただし、完全に無力化したわけでもない。
男は地面を転がりながら、胸元に手を入れた。
「伏せなさい!」
リーディアの声。
俺は盾を前に出した。
斥候の手から、小さな筒のようなものが投げられる。
直後、白い閃光が弾けた。
「ぐっ!」
目が焼ける。
耳の奥で高い音が鳴った。
盾越しでも、衝撃が体に響く。
俺は膝をついた。
視界が白く潰れている。
リーディアが何かを叫んだ。
だが、耳鳴りで聞こえない。
数秒か、十数秒か。
ようやく視界が戻り始めたとき、斥候の姿は消えていた。
残っていたのは、踏み荒らされた草と、焦げた土の匂いだけだった。
「逃げられた」
リーディアの声は、冷たかった。
「すみません」
「謝れば済むと思ってる?」
「思ってません」
「なら、どうして止めたの」
彼女は俺を見ていた。
怒りだけではない。
理解できないものを見る目だった。
「相手は人類軍の斥候。見つかれば私たちの場所を知らせる。殺さなければ、誰かが死ぬかもしれない」
「わかっています」
「わかってない」
リーディアの声が低くなる。
「あなたは、まだ自分がどこにいるのかわかってない」
言い返せなかった。
まったくその通りだった。
俺は異世界に来た。
魔族領に落ちた。
人類軍が攻めてきている。
言葉では理解している。
けれど、人を殺す判断を当然のように受け入れられるほど、俺はこの世界の人間ではなかった。
「すみません」
もう一度、言った。
今度は言い訳を足さなかった。
リーディアは数秒だけ俺を見たあと、視線を森の奥に向けた。
「動くわ。今の閃光で、他の斥候が来る」
「はい」
「次に同じことをしたら、私はあなたを置いていく」
「わかりました」
「本当に?」
「わかっていない部分もあると思います。でも、置いていかれたら死ぬことはわかります」
リーディアは一瞬だけ、ため息とも笑いともつかない息を漏らした。
「正直なのか、開き直っているのか、わからない人ね」
「自分でもわかりません」
「でしょうね」
彼女は再び歩き出した。
俺は盾を消そうとして、やり方がわからずに少し困った。
さっきは勝手に消えた。
消えろ、と念じる。
大盾は黒灰色の粒になり、左腕から消えた。
できた。
少しだけ便利だと思ったが、すぐに腕の痛みで考えを改めた。
便利でも、痛いものは痛い。
リーディアの小屋は、森の中に埋もれるように建っていた。
小屋、と言っても粗末なものではない。
低い石垣に囲まれ、木と土壁で作られた頑丈そうな家だ。屋根には黒っぽい草が厚く葺かれている。
窓は小さい。
灯りも外に漏れない。
戦場近くの住まいというより、隠れ家に近かった。
「入って」
リーディアが扉を開ける。
俺は一瞬ためらった。
「何?」
「靴は」
「脱がない」
「ですよね」
日本の習慣を持ち込んでいる場合ではなかった。
中は狭いが、整っていた。
壁際に棚。
乾燥した薬草の束。
小さな炉。
寝台は一つ。
奥には作業台があり、瓶や金属片、革袋が並んでいる。
生活感はある。
だが、余分なものが少ない。
「そこに座って」
リーディアは椅子ではなく、床に置かれた丸太を指した。
「その前に、荷物を預かる」
「全部ですか」
「全部」
当然の要求だった。
俺は鞄を渡した。
スマホも財布も社員証も、全部入っている。
リーディアはそれを作業台に置き、革紐で口を縛った。
さらに、扉の近くに置かれていた細い棒を手に取る。
杖かと思ったが、先端に小さな石が埋め込まれている。
「何をするんですか」
「確認」
「痛いですか」
「嘘をつかなければ、たぶん」
「たぶん」
嫌な言葉だった。
リーディアは俺の前に立ち、棒の先端を俺の胸元に向けた。
石が薄く光る。
温かいような、冷たいような感覚が皮膚の下を撫でた。
気持ち悪い。
思わず身じろぎすると、リーディアが目を細める。
「動かないで」
「はい」
光は胸から腹、肩、腕へ移動していく。
やがて、左腕のあたりで石が小さく震えた。
「召具の痕跡はある。盾と剣はあなたに結びついている」
「召具、というのは?」
「魔力で呼び出す武具。普通は職人が作る。あなたのものは性質が違う」
「どう違うんですか」
「わからない」
「わからないことが多いですね」
「あなたのせいよ」
「すみません」
リーディアは次に、俺の胸の中心に棒を向けた。
石の光が、さっきより弱くなる。
彼女の表情も硬くなった。
「魔力核がない」
言葉は静かだった。
だが、部屋の温度が下がったように感じた。
「本当に、ない」
「それは、つまり」
「魔族ではない可能性が高い」
俺は唾を飲み込んだ。
ここで黙れば疑われる。
話せばもっと危ない。
判断が遅れる。
会社なら、少し考えさせてくださいと言えた。
メールなら、確認して折り返しますで済んだ。
だが、今は目の前に魔法を使う女性がいて、俺は敵側の人間で、外では人類軍が動いている。
「人間なら、あなたは私の敵」
リーディアが言った。
俺は顔を上げた。
「あなたから見れば、そうです」
「否定しないの」
「否定できる材料がありません」
「変な人ね」
「よく言われます」
「本当に?」
「いえ、今初めて言われました」
リーディアは眉をひそめた。
冗談を言う場面ではない。
自分でもそう思う。
ただ、黙っていると足元から崩れそうだった。
「俺は、人間です」
口に出した瞬間、胸が少し軽くなった。
同時に、命綱を自分で切った気もした。
リーディアの銀紋が、右手に浮かぶ。
黒い火の予兆。
「でも、人類軍ではありません」
「証拠は?」
「ありません」
「なら信じられない」
「そうだと思います」
「あなた、さっきから何も差し出していない。遠いところから来た。武器は勝手に出た。人類軍じゃない。証拠はない。信じる理由がない」
その通りだった。
俺は何も出せない。
出せるものがない。
異世界から来たなどと言っても、頭がおかしいと思われるか、別の嘘だと思われるだけだ。
なら、どうする。
考えろ。
三十二歳。会社員。戦闘能力はない。交渉材料もない。
あるのは、相手が俺をまだ撃っていないという事実だけだ。
「理由ではなく、条件なら出せます」
リーディアの目が細くなる。
「条件?」
「俺を信用しなくていいです。拘束しても構いません。荷物も預けます。外に出るときは、あなたの許可を取ります。あなたの集落の人には近づかない。必要なら、人類軍の前にも出ません」
「それで?」
「その代わり、朝まで生かしてください」
情けない取引だった。
世界を救うとか、人魔共存を見ろとか、神様は勝手なことを言っていた。
だが今の俺にできる交渉は、朝まで命を延ばすことだけだ。
「朝になったら?」
「あなたが判断してください。追い出すなら従います。引き渡すなら、その前に少しだけ話を聞いてほしい」
「私が殺すと言ったら?」
喉が乾いた。
「抵抗は、たぶんします」
「たぶん?」
「死にたくはないので」
「正直ね」
「嘘が下手なので」
「下手という自覚があるなら、最初から嘘をつかなければいいのに」
「本名を言うのが怖かったんです」
リーディアの表情が、ほんの少しだけ動いた。
「本名」
「森川創一。向こうでは、そう名乗っていました」
「モリカワ、ソウイチ」
彼女は聞き慣れない音を、慎重に繰り返した。
不思議な感覚だった。
異世界の小屋で、自分の名前を他人の口から聞く。
それだけで、少しだけ自分がまだ自分でいられる気がした。
「長いわね」
「こちらでは、ソーイでいいです」
「勝手に短くしたの」
「神様に、名前は少し変えた方がいいと言われたので」




