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第1話 三十二歳、異世界に落ちる

 仕事帰りの夜道で、森川創一は自分の人生について考えていた。


 大げさな話ではない。

 退職だとか、結婚だとか、夢だとか、そういう劇的なものでもない。


 明日の会議で誰が資料の修正を押しつけられるか。

 冷蔵庫に残っている卵の賞味期限はいつだったか。

 帰ったら風呂にするか、先に洗濯機を回すか。


 三十二歳の男の頭にある悩みなんて、だいたいその程度だ。


 だから、目の前の横断歩道が白く光ったときも、最初は疲れ目だと思った。


「...は?」


 足元から、白い線が広がった。


 横断歩道の塗料ではない。

 円。記号。文字のようで文字ではないもの。

 それがアスファルトの上に浮かび、俺の靴の下で回り始めていた。


 逃げようとした。


 だが、足が動かない。

 いや、動かないというより、地面そのものに掴まれているようだった。


 次の瞬間、視界が裏返った。


 音が消えた。

 体が落ちる感覚だけが残った。


 気を失う直前、誰かの声が聞こえた気がした。


「ごめんねえ。ちょっと予定より雑な拾い方になったけど」


 軽い声だった。


 人生を放り投げるには、あまりにも軽すぎる声だった。




 目を開けると、白い部屋にいた。


 壁も床も天井も、継ぎ目のない白。

 病院ではない。会社でもない。自宅でもない。


 そして目の前には、胡散臭い男が立っていた。


 年齢はわからない。

 若くも見えるし、年寄りにも見える。

 白い服を着て、白い髪をして、白い場所に立っているせいで、輪郭だけがぼやけていた。


「おはよう、森川創一くん。いや、こんばんはかな。日本時間では」


「...誰ですか」


「神様、で通じると思う」


 俺は黙った。


 三十二年生きてきて学んだことがある。

 初対面で自分を神様と名乗る相手は、だいたい関わらない方がいい。


 だが、今は関わらずに済む状況ではなかった。


「俺は、死んだんですか」


「死んではいない。正確には、転移した」


「転移」


「うん。別の世界へ」


 男は悪びれもせずに言った。


 俺は深呼吸した。

 怒鳴るべき場面かもしれない。

 だが、怒鳴ったところで相手が困るようには見えなかった。


 それに、現実味がなさすぎると、人間は案外冷静になるらしい。


「戻れますか」


「今は無理」


「いつかは」


「そこは君次第」


「最悪ですね」


「よく言われる」


 神様を名乗る男は、少しも傷ついた顔をしなかった。


 こちらの反応に慣れている。

 そう思った瞬間、胃の奥が冷えた。


 俺のような人間が、他にもいたのかもしれない。


「説明してください」


「話が早くて助かる。君を送る世界はエルディナール。人間と魔族が長く争っている世界だ」


「魔族」


「見た目は人間とほとんど変わらないよ。違うのは体内魔力の質だね。人間は外から魔力を扱う。魔族は内側に魔力核を持つ。まあ例外はあるけど」


「俺は人間ですよね」


「うん。見た目も中身も人間。向こうでは、魔力核がないから調べられたら人間だとわかる」


「なぜそんな場所に俺を」


「必要だから」


 その言い方が、ひどく嫌だった。


 必要。

 便利な言葉だ。

 誰かを動かす理由にも、誰かを犠牲にする言い訳にもなる。


「俺は軍人でも格闘家でもありません。ただの会社員です」


「知ってる。だから、力を渡す」


 男が指を鳴らした。


 俺の目の前に、薄い板のようなものが浮かび上がった。

 ゲームの画面に似ている。だが、表示されている文字は日本語だった。


 名前 森川創一

 年齢 32

 種族 人間

 付与技能 堅守刻印 鈍化圧 敵意標識 防線号令 裂勢打ち


「...ゲームみたいですね」


「君の脳が理解しやすい形に翻訳しているだけだよ」


「この技能があれば、俺は強いんですか」


「死ににくくなる」


「強いとは言わないんですね」


「単独最強みたいなのを期待していた?」


「できれば、帰宅を期待していました」


「それはごめん」


 軽い謝罪だった。


 俺は表示を睨んだ。


 堅守刻印。

 盾で受けた衝撃を軽減する。


 鈍化圧。

 近距離の敵の動きを少し鈍らせる。


 敵意標識。

 自分に向けられた敵意を感知する。


 防線号令。

 声が届く仲間の防御を短時間だけ高める。


 裂勢打ち。

 盾で相手の体勢を崩す。


 なるほど。

 派手さはない。


 火の玉を飛ばすわけでも、剣で山を割るわけでもない。

 要するに、前に立って耐えろという技能だ。


「俺に死ねと?」


「生きろと言っている」


「盾役に聞こえました」


「合ってる。君は誰かの前に立つのが向いている」


「根拠は」


「三十二年分の君を見た」


 俺は少しだけ言葉に詰まった。


 自分では、そんな立派な人間だった覚えはない。

 職場で後輩の失敗をかばったことはある。

 友人の愚痴を聞いたこともある。

 面倒な案件で先に頭を下げたこともある。


 だが、それは勇気ではない。

 大人として、その方が後で楽になると知っていただけだ。


「買いかぶりです」


「かもしれないね」


 男は笑った。


「でも、君が行く場所には、誰かの前に立てる大人が必要なんだ」


「俺に世界を救えと?」


「そこまでは言わない。最初は、生き延びて。できれば、見て。人間と魔族が本当に争うしかないのかを」


「断ったら」


「断れるなら、ここに呼んでいない」


 腹が立った。


 けれど、同時に理解した。


 これは交渉ではない。

 通達だ。


 俺の意思は、もう半分以上置き去りにされている。


「最低ですね」


「それもよく言われる」


「でしょうね」


 白い床に、再び光の円が広がった。


 時間切れらしい。


「一つだけ、覚えておいて」


 男の声が、初めて少しだけ低くなった。


「人間が正しいわけじゃない。魔族が悪いわけでもない。だけど、君が最初に落ちる場所では、君は敵側の人間だ」


「敵側?」


「魔族領だよ」


 言い返す前に、足元が抜けた。


 白い部屋が遠ざかる。


 今度こそ、俺は叫んだ。


「そういう大事なことは最初に言え!」


 返事はなかった。


 ただ、あの軽い声が、最後に一言だけ届いた。


「名前は少し変えた方がいいかもね」


 背中から落ちた。


「ぐっ...!」


 肺の中の空気が全部抜けた。


 土と草の匂い。

 湿った風。

 鳥に似た鳴き声。


 俺はしばらく動けなかった。


 白い部屋ではない。

 アスファルトでもない。

 見上げた空には、見慣れないほど大きな月が浮かんでいた。


 月は一つではなかった。


 薄い青と、赤みがかった小さな月。

 二つの月が、夜の森を照らしている。


「...本当に、異世界かよ」


 声に出してから、急に現実味が押し寄せた。


 スマホ。

 鞄。

 財布。


 慌てて体を探る。

 スーツはそのままだった。鞄も肩にかかっている。

 スマホもポケットにあった。


 画面は点いた。

 だが、当然のように圏外だった。


 バッテリー残量は六十三パーセント。

 今の俺にとっては、何の慰めにもならない数字だ。


 立ち上がろうとして、膝が笑った。


 体は無事らしい。

 だが、頭が追いつかない。


 明日の会議。

 冷蔵庫の卵。

 洗濯機。


 数分前まで現実だったものが、急に遠い夢みたいになっていた。


 そのとき、胸の奥がちくりと痛んだ。


 痛みではない。

 警告に近い。


 背筋が勝手に冷えた。

 誰かに見られている。


 敵意標識。


 そう理解した瞬間、茂みが揺れた。


 出てきたのは、犬に似た獣だった。

 ただし、俺の知っている犬より一回り大きい。

 肩までの高さが俺の腰ほどあり、額から短い角が一本生えている。


 唸り声。

 牙。

 よだれ。


 俺は後ずさった。


「待て。落ち着け。俺は食っても美味くない」


 通じるはずがない。


 獣が飛びかかってきた。


 俺は反射的に腕を上げた。


 その瞬間、左腕に重みが生まれた。


 金属音がした。


「っ!」


 見れば、左腕に大きな盾が装着されていた。

 黒灰色の大盾。

 どこから出たのか考える暇はない。


 獣の牙が盾にぶつかった。


 衝撃。


 普通なら腕ごと持っていかれていたと思う。

 だが、体は後ろに一歩押されただけで済んだ。


 堅守刻印。


 技能名が頭に浮かぶ。


 獣が着地し、再び姿勢を低くした。


 俺は盾を構えた。

 剣はない。いや、右手に重みがある。

 いつの間にか短めの片手剣を握っていた。


 だが、剣を握ったからといって、使えるわけではない。


 剣道の授業すらまともに覚えていない男が、突然モンスターを倒せるはずがない。


「くそ、現実的だな、俺の能力」


 獣が二度目の突進をしてきた。


 今度は見えた。

 いや、少し遅く見えた。


 鈍化圧。


 俺の近くに入った獣の動きが、ほんのわずかに鈍る。

 それでも速い。怖い。避けきれない。


 盾で受ける。


 足が滑る。

 肩が痛い。


 俺は必死に盾を前へ押し返した。


「どけ!」


 裂勢打ち。


 盾の縁が獣の顎をかすめた。

 大した傷ではない。

 だが、獣の体勢が崩れた。


 今だ。


 そう思ったのに、俺の足は動かなかった。


 剣を振る。

 相手を斬る。

 それができなかった。


 三十二年、人を殴ることすらほとんどなく生きてきた。

 いきなり命のやり取りに適応できるほど、俺はできた人間ではない。


 獣が再び起き上がる。


 まずい。


 そう思った瞬間、森の奥から声が飛んだ。


「伏せて!」


 女の声だった。


 俺は考えるより先に膝を折った。


 頭上を、黒い火が通り過ぎた。


 炎というには暗く、煙というには鋭い。

 黒い火は獣の胴を貫き、背後の木に当たる前に霧のように散った。


 獣が地面に倒れる。

 しばらく痙攣し、動かなくなった。


 俺は盾を構えたまま、息を止めていた。


「生きてる?」


 茂みの向こうから、一人の女性が現れた。


 年齢は二十代半ばくらいに見える。

 濃い黒髪を肩のあたりで結び、灰青色の目をしていた。


 外見だけなら、人間と変わらない。

 少なくとも、角も翼も牙もない。


 ただ、右手の甲から手首にかけて、薄い銀色の紋様が浮かんでいた。

 さっきの黒い火を放った名残なのだろう。


 女性は俺のスーツを見て、眉をひそめた。


「変な服。どこの氏族?」


 氏族。

 神様の言葉が頭をよぎる。


 ここは魔族領。

 俺は人間。

 調べられれば敵。


 喉が乾いた。


「答えられないの?」


 女性の声が少し冷える。


 助けてくれた。

 だが、信用されたわけではない。


 俺は本名を言いかけて、飲み込んだ。


 森川創一。

 この世界で、その名前がどう聞こえるのかもわからない。

 日本人の名前だと即座にばれるかどうかは知らないが、少なくとも自然ではない。


 名前は少し変えた方がいいかもね。


 あの軽い声が、今さら役に立った。


「...ソーイ」


 俺は言った。


「ソーイ、です」


 女性は目を細めた。


「私はリーディア。リーディア・ヴェルク」


 リーディアは倒れた獣と、俺の盾を順に見た。


「盾は扱えるのに、剣は振れないのね」


「見てましたか」


「最後だけね。素人にしては、よく死ななかった」


「褒め言葉として受け取っておきます」


「半分はね」


 彼女は近づきすぎない距離で立ち止まった。

 警戒している。


 当然だ。

 夜の森に、見慣れない服の男が一人。

 俺が逆の立場でも怪しむ。


「ソーイ。あなた、どこから来たの」


 答えに詰まった。


 日本から。

 別の世界から。

 神様に落とされた。


 どれも正直ではある。

 そして、どれも信じてもらえる気がしなかった。


「遠いところです」


「便利な答えね」


「俺もそう思います」


 リーディアの右手の紋様が、ほんの少し濃くなった。


 また撃てる、ということだろう。


 俺は盾を下ろした。

 敵意がないと示すためだったが、正直、腕が限界だった。


「助けてくれて、ありがとうございます」


 頭を下げる。


 彼女は少しだけ黙った。


「礼を言える余裕はあるのね」


「余裕はありません。お礼を言うくらいしかできないだけです。」


「荷物は?」


「これだけです」


 肩の鞄を示す。


「武器は?」


「この盾と剣が、いつの間にか」


「いつの間にか?」


 しまった。


 リーディアの目が、さらに鋭くなった。


 怪しい言葉を重ねるたびに、自分の首に縄をかけている気がする。


 俺は慌てて右手の剣を見た。


 さっきまで確かに握っていたはずの片手剣は、俺の手の中で黒灰色の粒になり、空気に溶けるように消えていった。


 続いて、左腕の盾も軽くなる。

 金属の重みが抜け、盾は同じように粒となって消えた。


「...今の、何」


「俺にもわかりません」


「自分の武器なのに?」


「今日初めて使いました」


「今日?」


 まただ。


 余計なことを言った。


 リーディアは右手を上げた。

 銀の紋様が手首から指先へ伸び、薄い光を帯びる。


 俺は両手を開いた。


「待ってください。敵意はありません」


「敵意がないから、嘘もないとは限らない」


「それは、そうですね」


「認めるのね」


「ここで言い返しても、余計に怪しいだけなので」


 リーディアの表情がわずかに変わった。


 呆れたのか、少しだけ興味を持ったのか。

 少なくとも、すぐに撃つ気配は薄れた。


 ただし、警戒は解けていない。


「あなた、魔力核の反応が薄い」


 その言葉に、心臓が嫌な音を立てた。


 魔力核。

 神様が言っていた、人間と魔族を分けるもの。


 調べられたら、人間だとわかる。


「そういう体質の人間も、いや、人もいるんじゃないですか」


 言ってから、自分で失敗だとわかった。


 人間。


 今の言い直しは、不自然すぎた。


 リーディアは聞き逃さなかった。


「人間?」


「言葉の綾です」


「このあたりでは、そういう言い方はしない」


「...そうですか」


「ええ。しない」


 森の空気が、一段冷えた気がした。


 俺は自分の呼吸を整える。

 ここで慌てれば、終わる。


 リーディアに勝てるとは思えない。

 そもそも、助けてくれた相手に剣を向ける気もない。


 だから、できることは一つだけだった。


「今、俺は自分の状況を正確に説明できません」


「ずいぶん都合のいい話ね」


「俺もそう思います」


「そればかり」


「本当にそう思っているので」


 リーディアは沈黙した。


 俺の顔を見る。

 鞄を見る。

 スーツを見る。

 獣の死体を見る。

 そして、俺の足元を見る。


 おそらく、足跡や魔力の痕跡を見ているのだろう。

 俺には何もわからない。


「ここで放っておけば、あなたは朝まで生きられない」


「でしょうね」


「でも、集落に連れていけば、私が責任を問われる」


「それも、でしょうね」


「自覚があるなら、少しは怪しくない顔をしなさい」


「すみません。生まれつきです」


 リーディアは呆れたように息を吐いた。


 それから、一歩だけ近づいてきた。


 俺は動かなかった。

 動かない方がいいと、三十二年分の社会人経験が告げていた。


 怒っている相手の前で、余計な身振りはしない。

 謝るなら短く。

 言い訳をするなら事実だけ。

 ただし、命がかかる場面で使うとは思っていなかった。


「その荷物、中を見せなさい」


「わかりました」


 俺は鞄を地面に置き、ゆっくり開けた。


 財布。

 スマホ。

 折り畳み傘。

 社員証。

 コンビニのレシート。

 資料の入ったクリアファイル。

 飲みかけのペットボトル。


 異世界の森に並べるには、あまりにも場違いなものばかりだった。


 リーディアは社員証を指さした。


「それは?」


「身分証です」


「どこの?」


「...遠いところの」


「またそれ」


「本当に遠いんです」


 リーディアは社員証を拾い、表面の文字を見た。


 当然、読めないらしい。

 顔写真と俺の顔を見比べて、眉間にしわを寄せる。


「絵が動かない身分札...? 精巧すぎる」


 スマホにも視線が向いた。


「それは」


「連絡用の道具です。今は使えません」


「魔道具?」


「違う、と思います」


「思う?」


「俺のいた場所では普通の道具でした」


 また沈黙。


 リーディアは、俺を嘘つきとして見るべきか、頭のおかしい遭難者として見るべきか、判断しかねているようだった。


 正直、俺が彼女でも困る。


「ソーイ」


「はい」


「あなた、本当にどこの氏族でもないのね」


 答えられなかった。


 沈黙は、肯定と同じだった。


 リーディアは社員証を鞄に戻すと、右手の銀紋を薄く光らせたまま、森の奥を指さした。


「ついてきなさい。夜明けまでなら、私の小屋に置いてあげる」


「助かります」


「勘違いしないで。助けたわけじゃない」


 リーディアは背を向けた。


「見張る場所を、森から小屋に変えるだけ」


 その言葉に、俺は思わず苦笑しかけた。


 だが、すぐに笑えなくなる。


 森の奥から、遠く低い鐘の音が聞こえた。


 一度。

 二度。

 三度。


 リーディアの顔色が変わった。


「今のは?」


「境戒鐘。人類軍の斥候が、灰境線を越えた合図」


 彼女は俺を見る。


 助けたばかりの身元不明の男。

 魔力核の反応が薄い、どこの氏族でもない男。

 そして、人類軍の侵入を知らせる鐘。


 状況は、最悪に近かった。


「ソーイ」


 リーディアの声が、さっきより低くなる。


「あなたが本当にただの迷い人なら、今夜は運が悪い」


「そうじゃなかったら?」


「もっと悪いわ」


 俺は二つの月の下で、消えたはずの盾の重みを左腕に思い出していた。


 異世界に来て、まだ一時間も経っていない。


 なのに俺はもう、この世界の戦争の真ん中に立っていた。

初投稿です。


二話目以降は週に2回程度の投稿を予定しています。


よろしくお願いいたします。

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