第45話 老僧の診断
二十日目の朝、砦の空気は妙に静かだった。
外からの大きな圧はない。
北の人類軍の感触も、今は落ち着いている。
教団の焦げた気配も薄い。
だからこそ、逆に不自然だった。
動きが止まっているのではなく、何かが潜っている。
そんな感覚が、胸の奥に残っていた。
俺は見張り台で北を見ながら、不快感の輪郭を確かめていた。
方向のない、薄い圧。
王骸に近い、あの嫌な感触。
遺跡から戻って以降、それは完全には消えていない。
「今日の感触は」
レイが横で聞いた。
「大きな動きはありません。ただ、遺跡の時に感じた不快感が、薄く残っています」
「遺跡の外でも?」
「はい。弱いですが。前より少しだけ、輪郭がはっきりしてきた気がします」
「良くない変化か」
「良いとは言えません。ただ、わかることが増えたとも言えます」
レイは少し考えるように黙った。
「オルドに見てもらった方がいい」
「そのつもりです」
「今日は感知を交代してもいい。お前を使い潰す方が困る」
「ありがとうございます。でも、午前の交代までは続けます」
「無理はするな」
「はい」
その返事に、レイは少しだけ苦笑した。
「最近のお前の『はい』は、前より信用できるようになってきた」
「進歩ですね」
「少しだけな」
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午前の見張りを終えると、オルドが中庭の端で待っていた。
「来たね」
「話があると聞きました」
「君にもだし、こちらにもある。場所を変えよう」
連れて行かれたのは、砦の中でもあまり人が来ない古い物置部屋だった。
机が一つ、椅子が三つ。
窓は小さい。
外の音が少し遠い。
そこに、ソフィアがいた。
「おはようございます」
「おはよう。ソフィアさんも呼ばれていたんですね」
「ええ。私の方も、昨日から少し感覚が変わっていて」
オルドが椅子に座り、俺たちに向かい合う。
「今日は、二人の状態を比べてみる」
「比べる、ですか」
「ソーイは王骸に近い不快感を感じている。ソフィアは石に近い違和感を感じている。似ているようで違う感覚だ。この違いが、これから大事になるかもしれない」
オルドはそう言って、いつもの計測杖を取り出した。
「まず、ソーイから」
俺は左腕を差し出した。
計測杖の石が光る。
ひやりとした感触が腕をなぞる。
「通り道は、前より少し広がっている」
「やはり、ですか」
「遺跡で封印核に近づいた影響だろうね。急激ではない。だが、確かに変化している」
「危険な範囲ですか」
「今すぐにどうこうなるほどではない。ただし、放置していい変化でもない」
次に、胸の前でも杖を止めた。
「不快感が出ているとき、ここが少しだけ共鳴している。石の時の反応に似ているが、もっと広い。個別の術式ではなく、空間全体に染み込んだものに反応している感じだ」
「王骸の一部そのもの、ですか」
「あるいは、王骸を封じていた回路に残った残滓かもしれない。ただ、どちらにせよ、君が拾っているのは単なる気分の悪さではない」
オルドはソフィアに向き直った。
「次は君だ」
ソフィアも腕を差し出す。
杖が光る。
「こちらは通り道が細い。だが、感度は高い。石への反応に特化しているようだ」
「特化、ですか」
「ソーイは広く拾う。敵意も、石も、空間の違和感も。君は狭い代わりに、石の影響に鋭い。役割が違う」
ソフィアは少し考えてから言った。
「それは、良いことですか」
「良い悪いではなく、向き不向きだね。今のところ、君は石の有無を早く察知できる。ソーイは状況全体を掴める。二人で組めば、補い合える」
オルドは杖を置いた。
「ここからが本題だ」
俺とソフィアは姿勢を正した。
「遺跡の封印核は、一度の修復で進行を止めた。だが、止めただけだ。王骸そのものは、まだ地下にある」
「はい」
「その状態で、ソーイの感知が広がっている。これは良くも悪くも、核との接続が強くなったことを意味する」
「接続が強くなると、どうなりますか」
俺が聞くと、オルドは少しだけ間を置いた。
「良い面では、王骸に関わる異変を、他の誰より早く察知できるかもしれない」
「悪い面は」
「王骸の側からも、君が見えやすくなる」
部屋が少し静かになった。
聞いていた答えだ。
でも、改めて言葉にされると重い。
「やっぱり、そうなんですね」
「可能性の話ではある。ただ、可能性は高い」
「見えやすくなる、というのは、具体的に何が起きるんですか」
「直接、意識に触れてくるかもしれない。夢の中で声を聞く。感情が不自然に揺れる。石がなくても不快感が強くなる。そういった変化が起こりうる」
ソフィアが少し身を乗り出した。
「それ、私には起きませんか」
「今のところ、君の経路は細い。石に反応するが、王骸との接続までは強くない。だからソーイほど危険ではない。ただし、今後も同じとは限らない」
俺はゆっくり息を吐いた。
「対処法はありますか」
「ある。前にも言った通り、通り道を絞ること。それと、もう一つ」
「もう一つ」
「自分一人で受け止めないことだ」
オルドは真っ直ぐに俺を見た。
「王骸の感触は、君一人の中で整理しようとすると、引きずられる危険がある。感じたことは、必ず外に出してほしい」
「言葉にする、ということですか」
「そう。リーディアでも、私でも、カルバでもいい。信頼できる相手に、感じたままを出す。それだけで違う」
俺は頷いた。
「わかりました」
「それから、ソフィア」
「はい」
「君には別の役割がある。ソーイが王骸の広い違和感を拾うなら、君は石や教団の局所的な動きを拾う。これからは、二人で感覚を照合する習慣をつけた方がいい」
「毎日、ですか」
「可能なら。少なくとも、大きな動きがあった日は必ず」
ソフィアは真面目な顔で頷いた。
「やります」
「ありがたい」
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そこへ、扉が軽く叩かれた。
リーディアだった。
「入っても?」
「どうぞ」
リーディアが入ってきた。
視線はまず俺に向き、それからソフィア、最後にオルドへ向いた。
「診断は終わった?」
「今、大事なところだよ」
「じゃあ聞く」
リーディアは壁際に立ったまま、こちらを見た。
オルドが簡潔に説明する。
「ソーイの通り道は、遺跡で少し広がった。王骸の影響を拾いやすくなっている可能性がある」
「それは聞いた」
「問題はその先だ。今後、王骸の側からソーイに触れてくる可能性がある」
リーディアの表情が少しだけ変わった。
「どの程度?」
「今すぐ意識を奪うような段階ではない。ただし、無視していい段階でもない。夢や感情の揺れに注意が必要だ」
リーディアは俺を見た。
「何か感じているなら、すぐに言って」
「はい」
「はい、じゃなくて」
「言います」
「それならいい」
短い言葉だった。
でも、いつもより少し強かった。
オルドが微かに笑う。
「ほら、こういうことだよ。君はちゃんと聞いてもらえる場所がある」
「ありがたいです」
「礼はいらないわ」
リーディアがすぐに返す。
「でも、言うの」
「積み上げてるので」
「また増やしてる」
そのやり取りに、ソフィアが少しだけ笑った。
初めて見る笑顔だった。
「二人、そういう話し方なんですね」
リーディアが少しだけそちらを見た。
「どういう意味」
「いえ、なんというか……息が合っているというか」
リーディアはすぐに否定しなかった。
少しだけ沈黙があった。
「慣れただけよ」
「そういうことにしておきます」
ソフィアはやわらかく返した。
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診断が終わって、部屋を出た後、リーディアが俺の横を歩いた。
しばらく無言だった。
砦の石廊下を二人で歩く音だけが響く。
「怒ってますか」
俺が聞くと、リーディアは少しだけ眉を寄せた。
「何に」
「王骸の感触が強くなっていることを、俺が軽く見ていたかもしれないことに」
「怒ってはいない」
「では、何ですか」
「苛立っている」
正直な答えだった。
「俺に対してですか」
「半分はそう」
「残り半分は」
「自分に対して」
俺は少し黙った。
「どうしてですか」
「あなたが危険かもしれないとわかっていたのに、遺跡に行くことを止めなかった」
「止める理由がなかったと、昨日言っていました」
「止める理由はなかった。でも、止めたかった気持ちは少しあった」
その言葉は重かった。
俺は歩きながら、少しだけ息を整えた。
「リーディアさん」
「何」
「止めてくれてもよかったです」
「止めたら、あなたは納得しなかった」
「たぶん、しなかったです」
「でしょうね」
「でも、止めてくれたこと自体は、うれしかったと思います」
リーディアはすぐには答えなかった。
「そういうことを、簡単に言う」
「簡単ではないです。本気で言っています」
「知ってる」
その短い返事に、少しだけ救われた。
「王骸の感触が強くなるなら、今後はもっと慎重に動く」
「はい」
「約束できる?」
「できます」
「できる、じゃなくて」
「します」
「そう」
リーディアは少し歩く速度を落とした。
「あなたは、共存の方向を見ている。私もそれを否定しない。でも、王骸に飲まれたら終わりだ。共存も何もなくなる」
「わかっています」
「本当に?」
「半分くらいは」
「正直ね」
「残りの半分は、これから実感していくと思っています」
リーディアは少しだけ苦笑した。
「それならいい。実感する前に、死なないで」
「はい」
「はい、じゃなくて」
「死にません」
「……そう言い切るのも危うい」
「できるだけ死なないようにします」
「それが一番まし」
それで、ようやく彼女の空気が少しだけ緩んだ。
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午後、アルヴァンが俺を呼びに来た。
「少し歩けるか」
「大丈夫です」
砦の北側の見張り道を二人で歩く。
遠くに灰境線が見えた。
「オルドの診断を聞いた」
アルヴァンが言った。
「王骸が、君を認識し始めているかもしれないと」
「可能性の話ですが」
「可能性でも十分重い」
「そうですね」
「君は、それでも動くのか」
俺は少し考えた。
「動く理由が、危険より大きい間は動きます」
「危険が大きくなったら」
「そのときは、止まる判断も必要かもしれません。ただ、今はまだそこまでではないと思っています」
「自分で判断できるか」
「一人では難しいと思います。だから、リーディアさんやオルドさんに確認しながら進みます」
アルヴァンは少し安心したような感触を見せた。
「それならいい」
「アルヴァンさんはどうですか」
「何が」
「俺が危険な場所に近づいていると知って、どう思いましたか」
アルヴァンは少し間を置いた。
「正直に言えば、止めたいと思った」
「止めたい」
「君がいなくなれば、こちらの手が減るから、という意味ではない。それもあるが、それだけじゃない」
「では」
「君は、もうただの便利な感知役ではない。ここまで一緒に動いた以上、失うことを前提には考えにくい」
その言葉は、まっすぐだった。
飾らない言い方だったからこそ、重かった。
「ありがとうございます」
「礼を言われると、少し困るな」
「どうしてですか」
「言ったことが、少し個人的すぎた気がする」
俺は少し笑ってしまった。
「個人的ですね」
「笑うところか」
「少しだけ。うれしかったので」
アルヴァンはため息をついたが、怒ってはいなかった。
「君はそういうところがある」
「どんなところですか」
「真っ直ぐに受け取って、真っ直ぐに返す」
「嘘が下手なので」
「それはもう何度も聞いた」
「便利な言葉なので」
「その便利さが、たまに危うい」
少しの沈黙。
風が吹く。
灰境線の上を流れてくる冷たい風だった。
「君に頼みたいことがある」
「何ですか」
「今後、人類側の者と話すとき、俺だけでなくミラナの感触も見てほしい」
「ミラナさんの、ですか」
「俺は、自分のことで手一杯になるときがある。ミラナはそれを止めてくれるが、彼女自身が無理をしているかどうかは、俺には見えにくい」
それは、少し意外な頼みだった。
「ミラナさんのことを、かなり信頼しているんですね」
「信頼している。だからこそ、気づきにくいことがある」
「わかりました。見ます。ただし、見えたことはそのまま言いますよ」
「それでいい」
「遠慮なく」
「その方がありがたい」
アルヴァンは少し笑った。
「君がいてくれて助かる場面が、少しずつ増えてきた」
「それはうれしいです」
「ただし、増えたからこそ失いたくない。そこは忘れないでくれ」
「はい」
今度の「はい」は、少しだけ重かった。
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夜、部屋に戻ると、リーディアが窓際にいた。
月明かりが、横顔を照らしている。
「遅かったわね」
「アルヴァンさんと話していました」
「何を」
「王骸のことと、今後の感知のことです」
リーディアは振り返った。
「彼は何と言っていた」
「俺が危険な場所に近づいていることを、止めたいと思ったと」
リーディアは少し目を細めた。
「そう」
「それから、ミラナさんの感触も見てほしいと頼まれました。自分が気づきにくいことがあるから、と」
「素直に言うのね」
「アルヴァンさんも、そういうところがあります」
「あなたに似ている」
「はい」
「それが少し厄介だと思うことがある」
「どのあたりが」
「自分で抱えすぎるところ。正しい方向に進もうとするほど、周囲の負担まで引き受けようとする」
リーディアは少し間を置いた。
「あなたも、そうなりかけている」
俺は少し考えた。
「否定はできないです」
「否定しないのね」
「最近、自覚が出てきたので」
「なら、自覚した上で修正しなさい」
「どうやって」
「抱える前に言う。わからないならわからないと言う。危ないなら危ないと言う。あなたは、それが前よりできるようになっている」
「グレイノの頃よりは、できている気がします」
「そうね。最初は何も言わずに抱え込んでいた」
「そうでした」
「今は、少なくとも相談する」
リーディアは少しだけ笑った。
「それは、ちゃんと進歩よ」
「ありがとうございます」
「礼はいらない」
「積み上げておきます」
「本当に増えすぎてる」
その言葉に、少しだけ笑いが混じっていた。
俺はそれを聞いて、少し安心した。
「おやすみ、ソーイ」
「おやすみなさい、リーディアさん」
目を閉じる。
王骸の感触。
オルドの診断。
アルヴァンの頼み。
リーディアの苛立ちと、心配。
今日も、多くのものを受け取った。
それを一人で抱えないこと。
それが、今日学んだことだった。
二十日目が終わる。
次は、もっと深いところに入る。
だからこそ、今夜は眠っておく必要があった。
静かな夜だった。
次話は明後日の19:00に投稿します。
2日に1話投稿の予定になります。
よろしくお願いいたします。




