第26話 初めての戦場
六日目の夜明け前、胸の奥が急に騒いだ。
夢の中だったが、目が覚めた。
北。
大きい。
昨日より、はるかに大きい。
俺は飛び起きた。
「リーディアさん」
隣の寝台を見た。
リーディアはすでに起きていた。
上着を着ながら、俺を見た。
「感じているか」
「はい。北が来ています。大きい」
「わかった。見張りに知らせる」
リーディアが部屋を出た。
俺も上着を着て、外に出た。
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廊下が騒がしくなっていた。
夜明け前なのに、兵士たちが動いている。
声が飛び交っている。
カルバがすでに中庭にいた。
「北から報告が来た。人類軍の主力が灰境線を越えた。先行部隊が前進している」
「感知でも確認できます。大きい塊が、動いています」
「速度は」
俺は目を閉じた。
北の感触を追う。
昨日の止まった塊とは違う。
動いている。
方向は南。
こちらへ向かっている。
「速い。歩いているのではなく、走っている速度です」
「突撃か」
「塊全体が動いています。突出した感触もその中にあります」
「勇者が一緒に来ているということか」
「昨日感じた感触と同じ質です」
カルバが指示を出した。
「全員起こせ。戦闘準備。弓組は北の柵に。前衛は正門前に集まれ。リーディア、魔法組を率いて後衛に入れ」
「わかった」
砦が動き出した。
俺はどうすればいいか一瞬考えた。
「ソーイ」
カルバが俺を見た。
「感知を続けてくれ。動きの変化を声に出し続けろ。誰かが常に聞ける場所にいろ」
「どこにいれば」
「前衛の後ろ。リーディアの近く」
「わかりました」
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夜明けの光が、ほんの少し空を染め始める頃、北の柵の向こうに人影が現れた。
暗い森の中に、無数の影が動いている。
人類軍だ。
外見は、魔族の兵士たちとほとんど変わらない。
ただ、腕に白い布が巻かれている。
それだけが、味方と敵を分ける印だ。
俺は前衛の後ろに立っていた。
盾を出している。
脇腹はほぼ治っている。
体は動く。
胸の奥が激しく鳴っていた。
敵意の塊が、こちらへ向かってくる。
今まで感じた中で、最大の圧だった。
「北から、百以上の感触があります。全員が攻撃の気持ちを持っています」
「わかった」
カルバが短く答えた。
砦の弓組が、北の柵の上で矢を番えた。
前衛の者たちが剣を抜いた。
リーディアの銀紋が、右手から首筋まで広がっていた。
準備ができている。
俺は盾を構えた。
重心を落とす。
膝を曲げる。
足を広げる。
構えだけは、何十回も練習した形だ。
それでも、今は体が震えていた。
恐怖だ。
初めての本物の戦場。
グレイノの夜襲とは、規模が違う。
「ソーイ」
リーディアが後ろから声をかけた。
「はい」
「声を出し続けて。変化を教えて」
「わかりました」
声を出す。
通り道を絞る。
石が来ても、声を出し続ける。
オルドに言われたことを思い出した。
「北の塊が分かれています。右から大きい固まりが来ます。左は小さい固まりです」
「右が主力か」
「感触が大きい方です」
「弓組、右に集中しろ」
カルバの指示が飛んだ。
矢が放たれた。
森の向こうで声が上がった。
それでも、影は止まらない。
柵に向かって走っている。
柵が揺れた。
一度。二度。三度。
「来ます!」
俺は叫んだ。
柵の一部が内側へ倒れた。
人類軍の兵士が飛び込んでくる。
前衛と激突した。
金属音。
叫び声。
足音。
俺の胸の奥が、激しく痛んだ。
無数の敵意が、押し寄せてくる。
一つ一つを区別できない。
塊として押してくる。
「右の柵が破れています。左はまだ持っています」
声を出し続ける。
リーディアの黒燐火が走った。
飛び込んできた兵士の足元を焼く。
前衛の者たちが押している。
俺は前衛の後ろで、感知を続けた。
変化を拾う。
どこに圧が集まっているか。
どこが薄くなっているか。
「左が強くなっています。左の柵を増強してください」
「左に二人回せ!」
カルバの指示。
俺は感知を続けながら、前衛が押されていないか確認した。
前衛は踏み止まっている。
ただ、少しずつ後退している。
「前衛が下がっています」
「踏み止まれ!」
カルバが叫んだ。
前衛が踏ん張る。
そのとき、胸の奥に、強烈な痛みが走った。
一つ。
突出している。
昨日感じた感触と同じ。
「勇者が来ます!右の後方から、前に出ています!」
カルバが右を向いた。
右の柵から、人影が一つ飛び込んできた。
速い。
今まで見た誰より速い動きだった。
光属性を帯びた長剣が、前衛の一人を弾き飛ばした。
ダルグが前に出た。
「私が相手をする!」
ダルグと勇者が激突した。
金属音が、他の音を消した。
俺は勇者の感触を追った。
強い。
攻撃の気持ちが、明確だ。
でも、昨日感じた迷いが、今もわずかに残っている。
「ダルグさん、勇者の右半分に意識が集まっています。左が薄い」
俺は声を出した。
届くかどうかわからない。
でも、声を出した。
ダルグが左へ動いた。
勇者が反応する。
一瞬、動きが止まった。
その隙間に、リーディアの黒燐火が飛んだ。
勇者は盾を持っていなかったが、剣で弾いた。
炎が散った。
「くっ」
勇者が一歩後退した。
ダルグが追う。
勇者は後退しながら、こちらを見た。
俺と目が合った気がした。
暗い中で、一瞬だけ。
勇者の感触が変わった。
確認している。
俺を、確認している。
人間が、魔族の砦の中に立っている。
その事実を確認している感触だった。
「左から別の感触が来ます!」
俺は視線を切って叫んだ。
左から兵士が二人、前衛の隙間に入ってきた。
前衛が対応する。
勇者が、また後退した。
一度引くつもりらしい。
「勇者が引いています。右の感触が遠くなっています」
「右の弓組、追い矢を放て!」
矢が飛んだ。
勇者は素早く動いて、矢をかわしながら柵の外へ出た。
速い。
あの速さは、俺の盾では正面から受けられない。
俺は冷静に認識した。
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戦闘が一時的に緩んだのは、夜明けの光が完全に差してからだった。
人類軍が少し引いた。
完全な撤退ではない。
柵の外で待機している。
砦の中に、静けさが戻ってきた。
怪我人が運ばれていく。
複数いる。
俺は立ったまま、胸の奥を確認した。
北の感触が遠くなっている。
待機している。
「ソーイ」
カルバが来た。
「感知の状況を教えろ」
「北は待機しています。勇者の感触は、塊の中に戻っています。攻撃の準備の感触は今は薄いですが、完全に引いてはいません」
「第二波が来ると思うか」
「今の感触では、すぐには来ないと思います。ただし、判断を変えれば来ます」
「わかった」
カルバは中庭の状況を確認しに行った。
リーディアが来た。
「怪我は」
「ありません」
「本当に?」
「はい。後ろにいたので」
「感知は続けられるか」
「続けられます。ただ、消耗しています」
「正直ね」
「消耗していることを隠しても、感知の精度が落ちた後でバレるので」
「わかった。交代で他の者に見張りをさせる。あなたは少し休め」
「今休んでも大丈夫ですか」
「今の感触では、すぐには来ないと言ったでしょう」
「はい」
「なら休める時間がある」
「でも」
「あなたが消耗しきったら、第二波で使えない。今休む方が全体として役に立つ」
俺は頷いた。
「わかりました」
内側の壁際に座った。
背中を壁に預ける。
体が重い。
盾を出し続けたわけではない。
ほとんど感知だけだった。
でも、こんなに消耗している。
精神的な疲労だ。
無数の敵意の中に立ち続けることが、こんなに重いとは思わなかった。
リーディアが隣に立った。
「どうだった」
「初めての戦場でした」
「感想は」
「怖かったです」
「それだけ?」
「それが一番大きかったです。他は、動いている間は感じませんでした。止まってから来ています」
「今は何を感じている」
「全部が一度に来ています。怖さ、疲れ、それから怪我人が出たことへの罪悪感のようなもの」
「あなたが怪我人を出したわけではない」
「わかっています。でも、感じます」
「感じるのは普通よ」
「リーディアさんも感じますか」
「感じる。慣れれば薄くなるが、消えることはない」
「慣れたくない気もします」
「慣れることで、次に動けるようになる。慣れなければ、次に立てない」
「どちらが正しいんですか」
「両方正しい。慣れることと、感じ続けることを、両方持つのが難しい」
俺は壁に頭を預けた。
「勇者と目が合った気がしました」
「そうね。私も見ていた」
「どう見えましたか」
「若かった。思ったより」
「強かったです。圧倒的に」
「そうね。ダルグが拮抗できたのは、あなたの情報があったからよ」
「俺の情報が役に立ちましたか」
「右半分に意識が集まっているという言葉、ダルグに届いた。あれで左へ動けた」
「届いていたんですね」
「届いていた。あなたの声は、混乱した場所でも聞こえる」
「声を出し続けることが、訓練になっていたからかもしれません」
「そうね」
しばらく沈黙があった。
「勇者が俺を見た感触、変わりました」
「どう変わった」
「確認している感触でした。人間が魔族の砦にいる、という事実を確認している感触」
「それは当然でしょう」
「ただ、驚きよりも、疑問に近い感触でした」
「なぜ人間がここにいるのか、という疑問か」
「そう感じました」
リーディアは少し考えた。
「あなたが言っていた迷い、本物かもしれない」
「そう思います」
「迷いを持った勇者が、人間が魔族の砦にいる事実を見た」
「何かが変わるかもしれません」
「変わるかどうかはわからない。ただ、見た事実は消えない」
「種を蒔いた、という感じがします」
「その種が育つかどうかは、これからよ」
北の感触が、また少し動いた。
「リーディアさん、北が動き始めています」
俺は立ち上がった。
「第二波が来るか」
「まだわかりません。ただ、感触が変化しています」
「カルバに伝える」
リーディアが動いた。
俺は感知を続けながら、立ち上がった。
休んだ時間は短かった。
でも、少しだけ戻ってきた。
北の感触が、また近づいてくる。
怖い。
でも、声を出せる。
盾を出せる。
前に立てる。
それで、今は十分だった。
砦の六日目が、まだ続いていた。
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第二波は、昼前に来た。
今度は人数が少なかった。
百人規模ではなく、二十人ほどの精鋭に近い感触だった。
「少数ですが、密度が高いです。精鋭を使ってくる可能性があります」
「わかった」
カルバが前衛を絞った。
「精鋭には精鋭を当てる。ダルグ、ヘルト、前に出ろ」
ヘルトが前に出た。
初めてヘルトが戦う姿を見た。
大柄な体が、信じられない速さで動く。
剣の一振りが重い。
受けた者が吹き飛ぶ。
ヘルトは強かった。
「ヘルトさんの左後方から、一人が回り込もうとしています」
俺は叫んだ。
ヘルトが半歩横に動いた。
回り込もうとした兵士が、空いた場所に踏み込んだ。
ヘルトの剣が、その兵士の剣を弾いた。
前衛の一人が取り押さえた。
「使えるな」
ヘルトが戦いながら言った。
俺に向けて言ったのか、誰かに言ったのかはわからない。
でも、聞こえた。
第二波は、三十分ほどで引いた。
精鋭を使ったが、砦の前衛が崩れなかった。
勇者は来なかった。
塊の中で待機しているらしい。
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昼過ぎ、戦闘が一段落した。
砦の者たちが食事を取っていた。
俺も食堂に入った。
今日は、視線が昨日と違った。
警戒の視線が、半分くらい減っている。
「よかったぞ」
レイが横に来た。
「今日の感知、全部聞いていた。砦の者のほとんどが聞いていた」
「役に立てましたか」
「ダルグが助かった場面を見ていた。あなたの声がなければ、どうなっていたかわからない」
「間に合ってよかったです」
「それだけか」
「それだけです。他に何を言えばいいかわかりません」
「普通は、もっと自慢したがる」
「自慢するほどのことをしていないので」
ヘルトが隣に座った。
俺は少し驚いた。
「今日の感知、使えた」
「ありがとうございます」
「礼はいらない。事実を言っている」
「わかりました」
「一つだけ聞く」
「はい」
「あなたは人間だ。人類軍が来ている。それでも、こちらの感知を続けるか」
「続けます」
「理由は」
「今の俺の居場所は、ここだからです」
「感情的な理由か」
「半分は感情です。もう半分は、俺がここで見たいものがあるからです」
「見たいもの」
「人間と魔族が、本当に争うしかないのかを見たい」
ヘルトは少しの間、俺を見た。
「今日の戦いを見て、どう思った」
「争うしかない場面が、確かにありました。でも、全部がそうではないと思いました」
「全部がそうではない、とは」
「勇者と目が合ったとき、感触に迷いがありました。争う理由を、自分で確信しきれていない感触でした」
「勇者が迷っているということが、何かを変えると思うか」
「今はまだわかりません。ただ、迷いがあるなら、何かが届く可能性がある」
「あなたは楽観的だな」
「楽観的なのかもしれません。ただ、可能性がゼロだとは思っていないので」
ヘルトは食事を食べ始めた。
それ以上は何も言わなかった。
でも、席を立つことはなかった。
同じテーブルで、食事を続けた。
それだけで、何かが変わった気がした。
俺は粥を食べながら、北の感触を確認した。
遠い。
静かだ。
今夜は来ないかもしれない。
砦での六日目が、少しずつ夕暮れに向かっていた。
初めての本物の戦場が終わった。
怪我はなかった。
怖かった。
でも、声を出し続けた。
盾を出せた。
前に立てた。
それが今日の全部だった。
それで、今日は十分だと思った。
次話は明後日の19:00に投稿します。
2日に1話投稿の予定になります。
よろしくお願いいたします。




