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第25話 勇者の旗

 五日目の朝、北が動いた。


 夜明け前から感触が変わっていた。

 塊が戻ってきている。

 昨日より大きい。


 俺は暗いうちに見張り台に上がり、感知を続けていた。


 夜明けの光が森の向こうから差してくる頃、レイが上がってきた。


「早いな」


「夜明け前から変化がありました」


「どのくらい大きい」


「二日前の北の塊より、一回り大きい感触です。密度が違います」


「密度?」


「二日前は、広い範囲に散らばっていた。今日は、一か所に集まっている。精鋭部隊のような圧です」


「精鋭か」


「個人の感触ではなく、あくまで集団の圧ですが。訓練された者たちが集まると、緊張感の質が違います」


「前線の兵士は全員そうだろう」


「程度が違います。今のは、この砦の者たちと似た質です。精鋭か、少数の強い者たちが来ていると思います」


 レイの顔が少し固くなった。


「カルバに言う」


「はい」


 レイが下りていった。


 俺は感知を続けた。


 北の塊は、止まっている。

 動いていない。

 ただ、確実にそこにある。


 それから、別の感触が混じってきた。


 教団の焦げた感触ではない。


 もっと違う。


 強くて、鋭くて、真っ直ぐな感触。


 個人の感触だ。


 塊の中に、一つだけ突出している。


 今まで感じたどの個人よりも、鋭い。


---


 カルバが見張り台に上がってきた。


「状況を教えろ」


「北に大きな塊があります。精鋭に近い質です。その中に、一つだけ突出した感触があります」


「突出した感触とは」


「個人の感触が、塊の中から分かれて感じられます。強い。今まで感じた中で一番鋭い感触です」


「人類軍に、そういう存在がいるとしたら」


 カルバは独り言のように言った。


「勇者だ」


 俺は少し止まった。


「勇者、ですか」


「人類側が、この戦争に勇者を立てている話は知っているか」


「グレイノで少し聞きました。名前は出なかったですが」


「アルヴァン・レイク。二十代前半の人間だ。人類側が選んだ戦力の要。ここ一年で前線の流れを何度か変えている」


「それほどの人物ですか」


「魔族側でも名が知られている。彼が動けば、前線が動く。それくらいの影響力がある」


 俺は北の感触を追った。


 突出した一つ。


 鋭い。

 ただし、殺意ではない。


 確認している感触だ。


「今のところ、攻撃の気持ちより、確認している感触があります」


「様子を見ているということか」


「可能性が高いです。ただし、変化があれば即座に動く準備はできていると思います」


「わかった。引き続き感知を続けてくれ」


 カルバが下りていった。


 レイが戻ってきた。


「勇者が来たか」


「カルバさんがそう言っていました」


「俺は会ったことがないが、前線での話は聞いている」


「どんな話ですか」


「強い。それだけは間違いない。あとは、勇者なのに妙に普通の人間らしいという話も聞く」


「妙に普通?」


「命令に疑問を持つことがある。上の指示に黙って従わない場面があるという話だ。勇者らしくないと言う者もいるし、だから信頼できると言う者もいる」


「二つの評価があるんですね」


「人間というのは、そういうものだろう」


「魔族でも同じですか」


「同じだよ。強い者が全員信頼されるわけではない。強くても、どう動くかで評価が変わる」


 俺は北の感触を確認した。


 突出した一つが、少しだけ動いた。


「北の突出した感触が動いています。左へ。偵察しているかもしれません」


「どのくらいの範囲を動いている」


「今のところ、塊から大きくは離れていません。半径、歩いて一分ほどの範囲です」


「単独で動いているのか」


「周囲に二つか三つ、近い感触があります。護衛か、一緒に動いている者がいます」


「少数で前に出ているということか」


「そう見えます」


 レイが梯子に手をかけた。


「カルバに伝える」


「はい」


 俺は感知を続けた。


 突出した感触が、じわじわと動いている。


 砦の方向へ、少しずつ近づいている。


 偵察だ。


 距離を測っている。


---


 昼前に、突出した感触が止まった。


 距離は、砦から歩いて十五分ほどの場所だと思う。


 感触の質が変わった。


 確認から、待機に変わった。


 その場で止まって、こちらを見ている。


「止まりました。この距離で待機しています」


 カルバが見張り台に上がってきた。


「待機の理由は何だと思う」


「何かを確認している気がします。攻撃の準備ではなく、判断待ちのような感触です」


「命令を待っているか、自分で判断しようとしているか」


「どちらかはわかりません。ただ、焦りがありません。落ち着いた待機です」


「落ち着いた勇者か」


 カルバは静かに言った。


「話が一致する。アルヴァンは冷静だという話を聞く」


「冷静な人が、単独に近い形で前に出ているのは、なぜですか」


「偵察だろう。自分の目で確認したい性格なのかもしれない」


「大きな軍を動かす前に、自分で見る」


「そういう人間もいる」


 カルバは地図を見た。


「感知の範囲で、他の人類軍の動きはあるか」


「北の塊は、突出した感触の後方で待機しています。動く気配は今のところありません」


「動いていないのに、勇者だけが前に出ている」


「そうです」


「独断か、あるいは偵察が計画の一部か」


「わかりません。ただ、塊の感触と突出した感触の間に、緊張感の差があります」


「差?」


「塊の緊張感は均質です。訓練された待機の緊張感。でも、突出した感触の緊張感は、少し違う性質があります」


「どう違う」


「迷っているような感触が、ほんのわずかに混じっています」


「迷い?」


「はっきりとはわかりません。ただ、単純な任務遂行の緊張感とは、少し違う気がします」


 カルバは少しの間、黙った。


「面白い観察だ。勇者が迷っているとすれば、何に対して迷っているのか」


「俺にはわかりません」


「わからなくていい。情報として受け取る」


---


 昼過ぎ、リーディアが見張り台に上がってきた。


「勇者が近くにいるって、砦中で話になっている」


「感知でわかりましたが、それをカルバさんが広めたんですね」


「士気に関わる情報だから、隠せない」


「砦の雰囲気は変わりましたか」


「緊張が高まっている。ただし、恐怖ではなく、構えの緊張感よ」


「ヘルトさんは」


「装備を確認していた。あの人は、こういうとき黙って準備する」


「動くと思いますか」


「勇者が動けば、ここも動く」


 俺は北の感触を確認した。


 突出した一つは、まだ待機している。


「リーディアさん、一つ聞いてもいいですか」


「何」


「勇者アルヴァンと戦ったことがありますか」


「ない。名前は知っているけれど、直接会ったことはない」


「もし会うことがあれば、どうしますか」


「敵として戦う。それ以外にない」


「そうですね」


「なぜ聞いた」


「感触から、その人が迷いを持っている気がしたので。迷いを持った敵がいるとしたら、何かが違うかもしれないと思って」


「迷いを持った敵でも、こちらを攻撃してくれば敵よ」


「はい」


「ただし」


 リーディアが続けた。


「迷いを持った敵が、迷いのままでいてくれれば、別の可能性がある。それはあなたが言いたいことか?」


「言いたかったことより、少し先まで言ってくれました」


「あなたの考え方は、だいたい読める」


「読まれていましたか」


「最近は読めるようになってきた」


「それは、いいことですか」


「あなたにとっては悪いことかもしれない。私にとっては便利よ」


「俺にとって悪いとはどういう意味ですか」


「読まれると、隠せない」


「隠すことは少ないので、問題ないです」


「少しはある」


「何を隠していると思いますか」


 リーディアは少しだけ笑った。


「言わない」


「なぜですか」


「言ったら、あなたが余計なことを考える」


「余計なことというのは」


「言わない」


 俺は少し困った。


「もう少し教えてもらえると助かります」


「助かるのはあなただけよ。私は困る」


「リーディアさんが困ることは、しません」


「知ってる」


「では、教えてもらえますか」


「教えない」


「はい」


 俺は北の感触に戻った。


 突出した一つが、また動き始めた。


「動きました。後方に戻っています」


「撤退か」


「塊の方向へ戻っています。偵察が終わったかもしれません」


「どういう判断をするかな」


 リーディアが静かに言った。


「攻めてくると思いますか」


「わからない。ただ、偵察した後に動かないなら、何かを待っている」


「何を待っているんですか」


「命令か、条件か、あるいは決断か」


 突出した感触が、塊に戻った。


 塊全体の緊張感が少し変化した。


「塊の感触が変わりました。少し緩んだ感触があります」


「緩んだ?」


「攻撃準備の緊張感が少し薄れました。今すぐは動かないかもしれません」


「今日は来ない、ということか」


「可能性が高いです」


 リーディアは北の森を見た。


「勇者が戻ってから、塊が緩んだ」


「はい」


「勇者が攻撃を止めたかもしれない」


「そういう解釈もできます」


「冷静な勇者が、偵察して、戻って、攻撃を止めた」


「今日は、ということですが」


「今日攻撃を止めたなら、理由がある」


「何だと思いますか」


 リーディアは少し考えた。


「まだ条件が整っていないと判断したか、あるいは何かを確認したかったか」


「確認したいことが何かあった」


「勇者が前に出て偵察して、戻って、攻撃を止めた。その勇者が迷いを持っていたとしたら」


「迷いが、攻撃を止めた理由になっているかもしれません」


「そうね」


 リーディアは俺を見た。


「あなたが感じた迷い。それが本物なら、面白い」


「面白い、というのは」


「敵が迷いを持っているなら、その迷いに働きかける可能性がある」


「働きかけるというのは、戦わずに話せるということですか」


「まだ遠い話よ。でも、方向としては」


「方向として、あるかもしれない」


「そう」


 北の感触が、少しずつ遠くなっていく。


 塊が後退しているらしい。


「北が引いています。距離が開いています」


「今日は来ない」


「そう思います」


 夕方の光が傾いてきた。


 砦の空気が、少しだけ緩んだ。


 緊張が完全に消えたわけではない。

 ただ、今日は戦いにならないという空気が広がった。


「カルバに報告する」


 リーディアが下りていった。


 俺は一人で北を見ていた。


 突出した感触は、塊の中に戻っている。


 あの感触の主が、勇者アルヴァンだとすれば。


 迷いを持った勇者が、今日攻撃を止めた。


 まだ会ったことはない。

 言葉を交わしたこともない。


 でも、感触だけから言えば、単純な敵ではない気がした。


 それが俺の思い込みかもしれない。


 でも、迷いを持った者は、迷いを持ったまま動いている。


 その迷いが何であるかを、いつか知れるかもしれない。


 夕暮れが砦を染めていた。


 二つの月が、東の空に出始めていた。


 五日目の夜が来ようとしていた。


---


 夕食の時間、食堂に入ると、ヘルトが俺を呼んだ。


「こっちに来い」


 俺は彼のテーブルに向かった。


 ヘルトの周囲に、三人の兵士が座っていた。


 全員が俺を見ている。


「座れ」


 俺は座った。


「今日の感知について聞かせろ」


「はい」


「勇者が前に出たとき、何を感じた」


「強い感触でした。突出していました。ただし、殺意ではありませんでした」


「殺意ではなかった」


「確認していました。それから、少しだけ迷いがありました」


「迷い」


「はっきりとは言えません。ただ、単純な任務の緊張感とは違う質がありました」


「勇者が迷っているとしたら、何に対して迷うと思う」


「わかりません。ただ、偵察して戻った後、塊が緩んだので、攻撃を止めたのは勇者の判断かもしれません」


 ヘルトは少し考えた。


「あなたは、勇者が攻撃を止めたことをどう見る」


「今日攻撃しない理由があった。その理由が何かはわかりません」


「正直に言えないことがあるか」


「今日の感知については、全部話しました。わからないことはわからないと言っています」


「わかった」


 ヘルトは三人の兵士を見た。


「このまま前線に出て、感知を使い続けるなら、情報として使える。ただし」


 ヘルトが俺を見た。


「間違った情報を一度でも出したら、それで終わりだ。わかるか」


「わかります」


「わかっているなら、わからないことをわかるように言うな」


「はい。わからないことはわからないと言います」


「今日は全部わからないと言っていたな」


「わかることだけ言いました」


「それでいい」


 ヘルトは食事を続けた。


 会話が終わったらしい。


 俺は自分のテーブルへ戻ろうとした。


「ソーイ」


 ヘルトが呼んだ。


「はい」


「今日の模擬戦、見ていた」


「そうですか」


「倒されなかった」


「なんとか」


「なんとか、ではない。立ち続けた」


「ありがとうございます」


「礼を言うな。確認しただけだ」


「わかりました」


「明日も続けろ」


「はい」


 俺はテーブルへ戻った。


 レイが隣に来た。


「ヘルトさんと話していたな」


「感知について聞かれました」


「最後に何か言っていたか」


「明日も続けろと言われました」


「それはヘルトさんの言い方で言えば、認められたということだ」


「そうなんですか」


「あの人が認めないときは、黙って立ち去る。明日も続けろというのは、使えると判断したということだ」


「判断材料が一つ増えましたね」


「あなたの言葉を借りれば、積み上がったな」


「そうですね」


 食堂が少しずつ賑やかになっていった。


 今日は戦いにならなかった。


 明日は来るかもしれない。


 でも、今夜は食事を食べられる。

 話せる。

 眠れる。


 それだけで十分だと、この世界に来てから思えるようになった。


 俺は粥を食べながら、北の感触を確認した。


 遠くにある。

 静かだ。


 今夜は穏やかだった。


 五日目が終わった。


次話は明後日の19:00に投稿します。


2日に1話投稿の予定になります。


よろしくお願いいたします。

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