第24話 リーディアの過去
四日目の夜、砦に静けさが戻った。
北の動きが、夕方から急に止まった。
教団の焦げた感触も薄くなっている。
理由はわからない。
ただ、止まった事実だけがある。
見張り台から下りると、カルバが言った。
「今夜は休め。何かあれば起こす」
「感知は続けなくていいですか」
「限度がある。消耗したまま使えなくなる方が困る」
「わかりました」
部屋に戻ると、リーディアがいた。
窓の前に立ち、外を見ていた。
振り返らない。
「北が止まりましたね」
「そうね」
「理由が気になります」
「止まる理由があるか、あるいは別の場所へ動いたか」
「別の場所に動いたなら、どこですか」
「東か西の砦への牽制かもしれない。この砦だけを攻める気なら、止まらない」
「大きな戦略の動きということですか」
「わからない。ただ、教団が絡んでいるなら、単純な軍の動きではない」
リーディアは窓から離れ、寝台に座った。
今夜は疲れている顔をしていた。
普段は感情が見えにくい。
でも、今日は少し表に出ている。
「リーディアさん、疲れましたか」
「少しね」
「俺の模擬戦で、余計なことを使わせましたか」
「模擬戦の消耗ではない」
「では、何が」
リーディアは少し間を置いた。
「今日、ダルグと話した」
「模擬戦の後ですか」
「その後。個別に話しかけられた」
「何を話したんですか」
「昔の話をされた」
俺は椅子に座った。
聞くべきか、聞かないべきか。
リーディアが話しかけてきたということは、話す気があるのだろうと思った。
「昔というのは」
「ダルグは、私の父を知っていた」
俺は何も言わなかった。
「父は、この砦に来たことがある。戦争が激しかった頃に、ここで戦った」
「そうですか」
「ダルグは、当時の父を知っている数少ない生き残りだ」
リーディアは膝の上で手を組んだ。
「父の話を聞いたのは、久しぶりだった」
「辛かったですか」
「辛い、というより。懐かしかった。懐かしくて、少し崩れそうになった」
崩れそうになった。
リーディアがそういう言葉を使うのは、初めてだった。
「お父さんは、どんな人でしたか」
俺が聞くと、リーディアは少しだけ驚いた顔をした。
「聞くの?」
「聞いてほしくなければ、流してください」
「流してもいいし、話してもいい」
「どちらでも」
リーディアはしばらく黙った。
窓の外を見る。
月が薄く出ている。
「前に立つ人だった」
静かに言った。
「前に立つ」
「盾役ではなかった。でも、難しい場面では必ず前に出た。難しい理由がない、と言いながら」
トマの父親と同じ言葉だった。
「トマのお父さんも、同じことを言っていたと聞きました」
「そうね。あの人も父から影響を受けていた。二人は友人だった」
「リーディアさんのお父さんと、トマのお父さんが」
「子どもの頃からの。だから、トマのことを放っておけない」
俺は頷いた。
リーディアがトマを見る目の理由が、少しわかった気がした。
「父が死んだのは、五年前よ」
リーディアは淡々と言った。
「人類軍の奇襲だった。夜に集落が襲われた。父は子どもたちを逃がしながら、最後まで前に立っていた」
「前に立ちながら」
「そう。子どもを一人逃がすたびに、一歩下がる予定だった。でも、最後の一人が逃げたとき、もう逃げられる距離ではなかった」
「最後まで前に立った」
「難しい理由はなかったと、後で逃げた子どもたちが言った。前に子どもがいたから、前に立った。それだけだと」
俺は何も言えなかった。
言える言葉がなかった。
「私は、そのとき別の場所にいた。魔法の修行で、遠くに出ていた。連絡を聞いて戻ったときには、全部終わっていた」
「間に合わなかった」
「間に合わなかった。父の最期を見ていない」
リーディアの手が、少し固くなった。
「ダルグが、父の最期の様子を話してくれた。あの人は、その場にいた。父が最後に何を言ったかも、聞いた」
「何を言っていましたか」
「ここは俺が止める。早く逃げろ。それだけだったそうよ」
静かな言葉だった。
難しい理由がない、と言いながら前に立った人間の、最後の言葉だった。
「リーディアさん」
「何」
「泣いてもいいですよ」
リーディアが俺を見た。
少し驚いた目をしていた。
「泣けない」
「なぜですか」
「泣き方を忘れた気がする。五年間、ずっと前を向いていたから」
「前を向くために、泣く時間を後回しにしていたんですか」
「後回しにしているうちに、どうすればいいかわからなくなった」
俺は少し考えた。
「無理に泣かなくていいです」
「慰めているの?」
「そうではなくて、泣くことが目的ではないと思ったので」
「目的は何だと思う」
「わかりません。ただ、今日話してくれたことは、今まで誰かに話しましたか」
「ほとんど話していない」
「ならそれだけで、今日は十分かもしれません」
リーディアは少し間を置いた。
「なぜそう思う」
「俺のいた世界で、誰かに話すことで少し楽になる場合があると聞きました。俺自身は、あまり人に話す方ではなかったですが」
「あなたは話さない方なのか」
「昔は。今はここで話しすぎています」
「それはいいことよ」
「そうですか」
「話せない人間が、戦場で孤立する。あなたはグレイノで話せるようになった」
「リーディアさんと話したからです」
「私と話したから?」
「最初の夜から、リーディアさんは俺に話しかけていました。縛りながら、でも話しかけていた」
「監視のための確認よ」
「最初はそうでした。でも途中から、確認以上のことを話してくれていた気がします」
リーディアは少し黙った。
「気のせいではないかもしれない」
「俺もそう思います」
「あなたが話しやすい人間だから」
「そうですか」
「正直すぎて、嘘をついても無駄だと思わせる。そういう人間には、話しやすい」
「それは褒め言葉ですか」
「半分はね」
半分が戻ってきた。
俺は少し安心した。
「ダルグに、もう一つ言われた」
「何ですか」
「あなたの盾の動きが、父に少し似ていると」
俺は驚いた。
「似ていますか」
「動き方ではなく、考え方が。前に立つ理由が、難しくないところが似ていると」
「俺は、後ろに誰かがいたから前に立っているだけです」
「父も同じだった。難しい理由がない、前に子どもがいたから。それだけ」
「リーディアさんのお父さんの方が、はるかに強いと思います」
「あなたも、毎回後退しながら立ち続けている」
「倒れていますが」
「倒れても起き上がっている」
「それくらいしかできないので」
リーディアは俺を見た。
普段より少し柔らかい目だった。
「さっき、崩れそうになったと言った」
「はい」
「崩れなかったのは、戻る場所があったからかもしれない」
「戻る場所?」
「ここに戻れば、話せる人間がいる。そう思ったら、崩れる前に戻れた」
俺はその言葉を、胸の中に置いた。
「俺がいることで、戻れましたか」
「そうかもしれない。確信はないけれど」
「確信がなくても、そう言ってくれてありがとうございます」
「礼を言わないで。照れる」
リーディアが言った。
照れる、という言葉を、この人が使った。
俺は少し驚いたが、顔には出さなかった。
出さようとして、たぶん少し出た。
「顔に出てる」
「すみません」
「謝らない」
リーディアは窓の外を見た。
「父が最期に言った言葉、ここは俺が止める、を聞いたとき、最初は怒りがあった」
「どんな怒りですか」
「なぜ一人で止めようとしたのか。なぜ逃げなかったのか。私が間に合えば、一緒に止められたはずなのに」
「それは」
「理不尽な怒りだとわかっている。父の選択は正しかった。子どもたちは全員逃げた。父の前に立った意味があった」
「でも、怒りが残る」
「残る。ずっと残っている。五年間」
「その怒りは、人類軍への怒りになりましたか」
「なった。なったけれど、それだけではない」
「他に何が」
「自分への怒りも混じっている。間に合わなかった自分への」
俺は何も言わなかった。
言える言葉がなかったのではなく、今は聞く時間だと思った。
「ダルグが言った。あなたが今日の模擬戦でやったことは、父がやっていたことに近いと」
「それは褒めすぎです」
「ダルグは褒めすぎる人間ではない。見たことを言う人だ」
「俺はただ、倒れながら立ち続けただけです」
「父も、倒れながら立ち続けていたと、ダルグが言った。最後まで」
静かな時間があった。
風が窓を揺らした。
「リーディアさん」
「何」
「俺が前に立てる間は、前に立ちます」
「知ってる」
「リーディアさんが崩れそうになったとき、声をかけ続けます」
「それも知ってる」
「知っていても、言いたかった」
リーディアは俺を見た。
長い沈黙があった。
月明かりが窓から差し込んで、リーディアの横顔を照らしていた。
「あなたは正直すぎる」
「よく言われます」
「最近言われ始めたのでしょう」
「いいえ、今回は昔から言われていました」
「そうなの」
「俺のいた世界でも、嘘が下手だと言われていました」
「では、生まれつき正直なのね」
「生まれつきかどうかはわかりませんが、嘘をついても疲れるだけなので」
「疲れるから正直なのか」
「それが半分。もう半分は、正直にした方が後で楽だとわかっているからです」
「会社員時代の教訓?」
「会社員時代の積み重ねです」
リーディアは少しだけ笑った。
今夜の笑いは、今まで見た中で少し違う笑いだった。
力が抜けている。
崩れそうになった後、少しだけ柔らかくなった笑いだった。
「寝なさい。明日も早い」
「リーディアさんは」
「少ししたら寝る」
「窓を閉めますか」
「月が見えなくなるから、このままでいい」
「わかりました」
俺は寝台に横になった。
脇腹はほぼ痛まない。
腕の痺れもない。
体は動く状態だった。
胸の奥に、砦の者たちの緊張感が散らばっている。
北は静かだ。
危険はない。
窓から月明かりが入っている。
リーディアが窓の前に立っている気配がする。
「リーディアさん」
「何」
「お父さんは、いい人だったんですね」
少しの間があった。
「そうね」
「あなたに、前に立つことを教えた人ですね」
「教えた覚えはないと言いそうだけど」
「でも、リーディアさんは前に立っています」
「私は魔法で撃つ側よ。前に立つのはあなた」
「同じです。前に立つ方法が違うだけで」
またしばらく黙った。
「そうかもしれない」
リーディアの声は、少し遠かった。
月を見ながら言っているようだった。
「おやすみ、リーディアさん」
「おやすみ」
今夜の返事は、少しだけ長かった。
一音一音が、丁寧に置かれていた。
俺は目を閉じた。
北は静かだ。
今夜は、それだけで十分だった。
砦での四日目が終わった。
明日、何が来るかはわからない。
ただ、今夜話せたことがある。
それが、明日の盾になる気がした。
次話は明後日の19:00に投稿します。
2日に1話投稿の予定になります。
よろしくお願いいたします。




