第22話 砦の疑い
二日目の朝、見張り台に上がる前に食堂へ寄った。
砦の食堂は、グレイノの炊事場より広い。
長い木のテーブルが並び、早朝から兵士たちが食事をしている。
俺が入った瞬間、空気が変わった。
話し声が止まる。
視線が集まる。
敵意ではない。
ただ、全員が俺を見ている。
昨日より、視線の質が悪い。
昨日は驚きと警戒だった。
今日は、そこに何か別のものが混じっている。
俺はリーディアを探した。
いない。
オルドが端のテーブルに座っていた。
隣が空いている。
俺は迷わずそこへ向かった。
「おはようございます」
「おはよう。食事を取ってきなさい。今日の分はある」
カウンターに行くと、給仕の女性が俺を見た。
迷うような目をした後、皿を出してくれた。
中身は薄い粥と、干した肉の小片。
昨日と同じだ。
オルドの隣に座る。
周囲の視線が続いている。
「騒がしいですね」
「昨夜、話が広まったようだよ」
「俺のことですか」
「人間が見張り台に立って、人類軍の動きを感知した。その情報がカルバの判断に使われた。それが砦中に広まった」
「評価が上がりましたか」
「半分は上がった。半分は逆になった」
「逆というのは」
「人間が、人類軍の動きを正確に報告した。なぜ正確に知っていたのか、という話になった」
俺は粥を一口食べた。
薄い。
でも、温かい。
「間者だと思われているんですか」
「そう思っている者が、少なくない」
「昨日もそういう話はあったと思いますが」
「昨日は可能性の話だった。今日は、確信している者が出てきた」
オルドは穏やかに言った。
穏やかに言っているが、内容は穏やかではない。
「カルバはどう思っていますか」
「カルバは保留だ。あなたの感知が正確だったことと、間者である可能性を、今のところ切り離して考えている」
「賢い人ですね」
「経験が長い。感情で動く人間ではない」
「リーディアさんは」
「彼女はあなたを信じている。ただし、それを言葉にしてしまうと、彼女自身の評価に影響する」
「リーディアさんの立場が悪くなりますか」
「グレイノからの推薦で来た人間が問題を起こせば、推薦した者の責任になる。彼女はそれをわかっている」
俺は粥を食べながら、食堂の視線を感じていた。
間者だと思っている者が、確信に変わってきている。
確信は、行動になる。
行動になれば、何かが起きる。
「どうすればいいと思いますか」
「今まで通りにしなさい。役割を果たし続ける。それだけだ」
「時間がかかりますね」
「信用は時間がかかるものだよ。特に、疑われている状態からは」
「グレイノでも三日かかりました」
「ここはもっとかかる。ただし、三日で変えることができる場面が来るかもしれない」
「どういう意味ですか」
「状況が変われば、評価も変わる。前線が動けば、あなたの感知が必要になる場面が来る。そのときに何をするかで、確信が崩れる」
「信用を得るために、前線の混乱を期待しているわけにはいきませんが」
「期待しなくていい。状況は向こうから来る」
オルドは茶を一口飲んだ。
「今日、私はカルバと話をする予定がある。あなたの通り道と、石の関係について。知っておいた方がいい情報だと判断した」
「俺の弱点を話すんですか」
「弱点を隠すより、知らせた方がいい場面がある。石を使われたとき、周囲が状況を知らなければ対応できない」
「判断はオルドさんに任せます」
「ありがとう。信頼してくれると助かる」
食堂の空気が、少し動いた。
入り口の方で、声が上がった。
俺の胸の奥に、鋭い痛みが走った。
敵意だ。
一つ。
強い。
方向は入り口。
振り返ると、大柄な男が立っていた。
三十代後半に見える。
鎧は脱いでいるが、体格は兵士のものだ。
首筋に銀紋が走っている。
男の目が俺に向いていた。
「人間」
声が低い。
「はい」
「昨日、見張り台に立っていたそうだな」
「立っていました」
「なぜ人間が、魔族の砦の見張り台に立てる」
「カルバ砦長の許可をもらいました」
「カルバが許可したからといって、俺が納得するわけではない」
男が近づいてくる。
俺は立ち上がった。
盾を出すつもりはない。
ただ、座ったままでいる方が、相手を刺激すると思った。
「あなたの名前を聞いてもいいですか」
「なぜ聞く」
「話しかけられた相手の名前を知りたいのは、普通のことだと思います」
「ヘルトだ。昨日、南棟で傷の回復をしていた」
「南棟に、傷を負った方が何人かいると、感知で感じました」
「感知でか」
「はい」
「つまり、俺の状態も感知していたということだな」
「建物の中にいる方の感触は、方向と弱さしかわかりません。怪我か病気か、くらいの区別です。個人の状態を詳しくは見ていません」
「見ていないと言える根拠はあるか」
「ありません。俺の言葉を信じるかどうかは、あなたが決めることです」
ヘルトは俺の前に立った。
体格差がある。
俺より一回り大きい。
胸の痛みが続いている。
強い敵意だ。
「昨日の人類軍の動きの報告、正確だったそうだな」
「カルバ砦長がそう言っていましたか」
「砦中に広まっている。なぜ正確に知っていた」
「感知で感じたからです」
「感知で、人類軍の動きがわかるのか」
「集団の緊張感や圧として感じます。正確な人数や装備は、わかりません」
「なぜ、人類軍の動きを魔族側に教えた」
「俺がいるのは魔族側の砦です。砦の役に立てることをしただけです」
「人類軍の動きを知って、魔族側に教える人間が、人類軍と無関係だと言えるか」
食堂が静まり返った。
全員が聞いている。
俺は少し間を置いた。
「言えます」
「根拠は」
「人類軍と無関係な人間が、人類軍の動きを感知して報告することもあります。俺がそれです」
「証拠は」
「ありません。ただし、俺が間者なら、昨日の報告は不正確にするべきでした。正確に報告することは、間者として合理的ではありません」
「二重間者という手もある。正確な情報を出して信用を得て、決定的な場面で誤った情報を流す」
「可能性としてはあります」
「認めるのか」
「論理として成立することは認めます。ただし、俺はそうではありません」
「そうではないと証明できるか」
「今すぐには証明できません。時間が必要です」
ヘルトは俺を見た。
敵意が続いている。
ただ、暴力に変わる手前で止まっている。
この男は感情的ではない。
疑いを持っているが、確認しようとしている。
「ヘルトさん」
「何だ」
「あなたが疑うのは正当です。俺の立場は、疑われて当然のものです。だから、証明できるまで疑い続けてください」
「証明できると思っているのか」
「証明できる場面が来ると思っています」
「いつ」
「状況が決めます。俺が決めることではありません」
ヘルトは少しの間、黙った。
俺から視線を外し、食堂を見る。
全員が見ている。
「俺の目の届く場所にいろ」
「それは監視するということですか」
「そうだ」
「カルバ砦長に確認しますか」
「監視することに許可はいらない」
「わかりました」
ヘルトは元の席に戻った。
食堂の空気が、少しずつ戻ってきた。
俺はオルドの横に座った。
「よく対応した」
オルドが小声で言った。
「うまくいったかどうかわかりません」
「怒らせなかった。それで十分だ」
「ヘルトさんは、悪い人ではないですね」
「そうだね。疑いを持ちながら、話を聞いた。感情で動く人間なら、最初から手が出ていた」
「だから、証明できる場面が来れば、変わると思います」
「来るといいね」
「来ると思います。状況が動いているので」
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午前の見張り台に上がった。
レイがすでに立っていた。
「昨夜のことは聞いたか」
「食堂でヘルトさんに話しかけられました」
「あの人は直接的だからな。ただ、怒鳴らなかっただろう」
「怒鳴りませんでした」
「ヘルトさんは、怒鳴る人間じゃない。ただ、疑ったら徹底的に確認する」
「見ていましたか」
「食堂にいた。あなたが認めた部分と、認めなかった部分を見ていた」
「どう思いましたか」
「証明できるまで疑い続けてくれと言ったのには、少し驚いた」
「変でしたか」
「普通、疑うなと言う。疑い続けてくれと言う人間は、自分に自信があるか、諦めているかのどちらかだ」
「どちらに見えましたか」
「自信があるように見えた」
「半分は自信で、半分は諦めです」
「正直だな」
「嘘が下手なので」
レイは北の森を見た。
「今日の北は」
俺は目を閉じた。
北の感触を追う。
昨日の大きな塊が、また動いている。
ただ、昨日より少し分散している。
「塊が分かれています。昨日より広い範囲に広がっています」
「兵を散開させたのか」
「わかりません。ただ、塊が一つではなくなっています。三つか四つに分かれた感触です」
「包囲するつもりか」
「可能性があります。報告した方がいいですね」
「する。続けてくれ」
レイが梯子を下りた。
俺は一人で北を向いた。
塊が分かれている。
包囲なら、砦の南にも動きが来るかもしれない。
南を確認した。
遠い感触。
ただ、薄い。
今のところ、南には大きな動きはない。
西は。
西にも、薄い感触がある。
これは。
「レイさん」
下に向かって声を上げた。
レイが顔を出す。
「南と西にも、薄い感触があります。北ほど強くはないですが、動きがあります」
「三方向から来るのか」
「今は薄いです。ただ、北の分散と合わせると、包囲の準備かもしれません」
「カルバに伝える」
レイが走った。
俺は三方向の感触を追い続けた。
北は分散したまま動いている。
南は薄い。
西も薄い。
ただ、教団の焦げた感触が、三方向全てに薄く混じっていた。
人類軍の動きに、教団が乗っている。
これは昨日より悪い状況だ。
カルバが見張り台に上がってきた。
「三方向か」
「今のところ、南と西は薄いです。北が主力だと思いますが、両翼を使う可能性があります」
「教団の感触は」
「三方向全てに薄く混じっています。人類軍の動きに合わせているか、あるいは人類軍を誘導しているか」
「誘導?」
「教団が人類軍の先行部隊に、石を使って方向を操作している可能性があります。石は感情を増幅します。戦意を高めることもできるはずです」
「人類軍が教団に乗せられているということか」
「仮説です。確認はできていません」
カルバは地図を展開した。
「教団が人類軍を動かして、この砦を叩かせようとしている可能性があるということだな」
「はい。ただし、なぜこの砦を叩く必要があるのかは、わかりません」
「わからなくていい。動くのは確かだ」
カルバは指示を出し始めた。
南と西の見張りを増やすこと。
砦の守りを全方位に切り替えること。
ガウンに状況を確認すること。
それから、俺を見た。
「感知を続けてくれ。変化があれば即座に知らせろ」
「はい」
「昨日より役に立っている」
「昨日より状況が動いているので」
「役に立てる状況が来たということだ」
カルバは下りていった。
俺は再び三方向の感触を追った。
役に立てる状況。
オルドが言っていた。
状況が変われば、評価も変わる。
まだ変わっていない。
ヘルトの疑いも消えていない。
でも、今日は昨日より動いた。
それで十分だと、今日は思う。
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昼過ぎに、リーディアが見張り台に上がってきた。
「昼食」
包みを差し出された。
「ありがとうございます」
「食堂の雰囲気が悪かったから、持ってきた」
「見ていましたか」
「ヘルトとの話は聞いていた」
「まずかったですか」
「まずくなかった。ただ、一つだけ気になった」
「何ですか」
「証明できるまで疑い続けてくれと言った」
「はい」
「証明できると、本当に思っているか」
「半分は思っています」
「残りの半分は」
「来る状況が来なければ、証明できないかもしれないと思っています」
「来なかったら」
「来るまでここにいます」
リーディアは少しの間、俺を見た。
「強情ね」
「強情というより、ここ以外に行く場所がないので」
「戻れるとしても、ここにいるか」
俺は少し考えた。
「今はここにいたいです」
「理由は」
「見たいものがまだ見えていないので」
「人魔が争うしかないかどうか、という話か」
「それもあります。でも、それだけではない気がしてきました」
「他に何がある」
「言葉にするのが難しいです」
「言葉にしなくていい」
リーディアは包みを俺の隣に置いた。
「ヘルトは、面倒だけど悪い人間ではない」
「そう感じました」
「ここには、そういう人間が多い。面倒で、疑い深くて、でも悪くない」
「グレイノと似ていますね」
「前線に近い場所はだいたいそうよ。怖いから疑う。疑うから面倒になる」
「でも、怖くなければここにいない」
「そうね」
リーディアは北の森を見た。
「教団の動きが、人類軍と連動しているなら、状況が変わる」
「どう変わりますか」
「今まで人類対魔族だった戦争に、第三の動きが入る。それに気づく者が増えれば、見方が変わるかもしれない」
「人類対魔族ではなく、人類と魔族が同じ敵を持つという構図になる」
「まだ先の話だけれど」
「でも、方向としては」
「方向としては、そうなり得る」
リーディアは俺を見た。
「あなたが見たいものが、見えてきているかもしれない」
「まだ霞んでいます」
「霞んでいても、輪郭は出てきた」
「リーディアさんは、どう思いますか。人間と魔族が共存できると思いますか」
リーディアは少しの間、黙った。
「思いたい。ただし、思うだけでは足りない」
「行動が必要ですね」
「行動と、時間と、それを続ける者が必要よ」
「俺が続けます」
「知ってる」
リーディアは短く答えた。
でも、その短さに、何かが乗っていた気がした。
言葉ではなく、その重さを感じた。
俺は包みを開いた。
黒パンと、豆の煮物。
「リーディアさんも食べますか」
「自分の分は持ってきていない」
「半分どうぞ」
「遠慮する」
「俺は半分で十分なので」
「嘘ね」
「七割くらい嘘です」
リーディアは少しだけ笑った。
「黒パンだけ一つもらう」
「どうぞ」
二人で見張り台に立ちながら、北の森を見た。
塊は分散したまま動いている。
教団の薄い感触が、ずっと混じっている。
ただ、今この瞬間、胸の奥に温かい感触が一つあった。
敵意でも警戒でもない。
俺の隣にいるリーディアの、確かな存在感だった。
感知に拾えるようになったのか、それとも気のせいなのか。
どちらでもよかった。
今この瞬間は、それで十分だった。
次話は明後日の19:00に投稿します。
2日に1話投稿の予定になります。
よろしくお願いいたします。




