第21話 黒燐砦
翌朝、目が覚めると、リーディアはいなかった。
寝台は使われた形跡がある。
荷物もある。
ただ、本人がいない。
窓の外は薄明るい。
夜明け前か、夜明け直後か。
俺は体の状態を確認した。
脇腹の傷は、ほぼ塞がっている。
腕の痺れは消えた。
体は動く。
胸の奥に、砦の者たちの緊張感が散らばっている。
全体的に高い。
昨夜より張り詰めている。
何かあったのか。
俺は上着を着て、廊下に出た。
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廊下は人の動きが多かった。
鎧を着た者が急ぎ足で歩いている。
話し声が聞こえるが、内容までは聞き取れない。
胸の奥に、方向を持った緊張感が走った。
北。
強くなっている。
俺は廊下を進み、砦の中庭へ出た。
カルバが中庭の中心に立っていた。
周囲に五人ほどの者が集まり、地図を広げている。
リーディアもいた。
こちらに気づいて、目で来いと示した。
「来たか」
カルバが俺を見た。
「朝から騒がしいですね」
「夜明け前に、前線から伝令が来た。人類軍が灰境線に向けて進軍を加速している。最前線の哨戒が、大規模な軍の動きを確認した」
「昨日の情報より悪化していますか」
「速い。予測より三日早い」
三日。
俺たちがグレイノを出たのと、ほぼ同じタイミングで状況が動いている。
「感知を使えるか」
「はい」
「今、北の方向に何を感じる」
俺は目を閉じた。
北の感触を追う。
遠い。
砦の北の哨戒の緊張感より、さらに奥。
人の緊張感ではなく、集団の圧のような感触。
「遠いです。ただ、大きな塊が北にあります。人の集まりのような圧を感じます。個別の敵意ではなく、集団の緊張感が塊になって押してくる感じです」
「方向と距離は」
「北、やや東寄り。距離は感触だけなので正確にはわかりません。昨夜の砦の者たちの緊張感より、ずっと遠いです。一里以上はあると思います」
「一里以上」
カルバは地図を指で叩いた。
「灰境線の手前の森だ。人類軍の先行部隊が入り込んでいる可能性がある」
「その方向に、別の感触もあります」
「別の」
「教団の石が使われたような、焦げた感触が薄く混じっています。距離があるので、確信はありませんが」
カルバの目が鋭くなった。
リーディアも同じ反応だった。
「教団が人類軍の動きに合わせて動いている」
「可能性として、ですが」
「可能性で十分だ。情報として扱う」
カルバは周囲の者に指示を出し始めた。
北の哨戒を増やすこと。
灰境線沿いの見張りに伝令を出すこと。
砦の守りを再確認すること。
俺はリーディアの横に立った。
「昨夜から起きていたんですか」
「夜明け前に伝令が来たから」
「教えてくれればよかったです」
「あなたには今日からの役割がある。初日から体力を使わせたくなかった」
「気を遣ってくれていたんですか」
「実用的な判断よ」
「実用的な判断ですね」
「そう」
リーディアは地図を見ていた。
俺も地図を見た。
砦の北に、灰境線が走っている。
その向こうが人類領。
手前が魔族領。
線一本で、世界が二つに分かれている。
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午前中は砦の見張り補助に入った。
見張り台の上で、北の方向を感知し続ける。
隣にはリーディアではなく、砦の若い兵士が立っていた。
二十歳前後に見える。
髪が短く、目が鋭い。
名前はレイと言った。
「本当に人間なのか」
最初に言われた言葉だ。
「はい」
「なぜここにいる」
「グレイノから来ました」
「人間がグレイノに?」
「経緯が少し複雑です」
レイは俺を頭から足まで見た。
「感知ができると聞いた」
「できます」
「今、何か感じるか」
「北の大きな塊は、朝より少し近くなっています。動いています」
「進軍しているのか」
「塊が動いている感触があります。近づいているかどうかは、時間をかけて見ないとわかりません」
「ずっと確認できるのか」
「目を閉じていれば、かなり長く続けられます。ただし、細かい変化を拾うには集中が必要です」
「集中が切れると?」
「感知の精度が落ちます。ただし、強い敵意が来れば、集中が切れていても反応します」
「自動で反応するのか」
「そうです。ただし、教団の石が使われると潰される可能性があります」
レイは少しの間、黙った。
「石は、魔族側にも出回っているのか」
「グレイノを襲った者たちが持っていました。人類軍でも魔族でもない者たちが」
「教団というやつか」
「はい」
「砦にも話が来ていた。ヴァランが消えた理由として」
「俺も同じ話を聞きました」
レイは北の森を見た。
「人間が、なぜ魔族の砦にいる」
「不思議ですか」
「不思議だ」
「俺も不思議だと思っています。でも、ここにいる」
「理由は」
「見たいものがあるので」
「何を」
「人間と魔族が、本当に争うしかないのかを」
レイは俺を見た。
疑いではなく、驚きに近い目だった。
「人間がそれを言うのか」
「言います」
「おかしな人間だ」
「よく言われます」
「最近言われ始めたのではないか」
「グレイノでも同じことを言われました」
「噂が広まっているのか」
「こちらにも届いていますか」
「グレイノの変な人間が来ると、昨日伝令に聞いた」
「変は否定できません」
レイは少しだけ、口の端を上げた。
笑ったのかもしれない。
「北の塊、少し動きが遅くなりました」
「止まったか」
「止まってはいません。ただ、速度が落ちた。何かを確認しているか、障害があるか」
「報告する」
レイは見張り台の梯子を下りていった。
俺は一人で北を感知し続けた。
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昼前に、カルバが見張り台に上がってきた。
「感知の状況を教えろ」
「北の塊は、午前中より少し後退しました。また動き始めるかどうかは、今はわかりません。教団の焦げた感触は、さっきより薄くなっています」
「後退した理由は」
「わかりません。前線の哨戒が接触したか、地形的な問題か」
「哨戒からの報告と一致する」
カルバは腕を組んだ。
「あなたの感知は、思ったより広い」
「砦の外まで届いていますか」
「届いていた。ただし、精度は下がる」
「遠くなるほど塊になります。個別の敵意を見分けるには、ある程度近くないといけません」
「どのくらい近ければ、個別に見分けられる」
「グレイノでの経験では、柵の外百歩以内くらいです。それより遠くなると、塊の感触だけになります」
「百歩か」
カルバは地図を見た。
「前線に出たとき、どのくらい機能するか」
「前線の経験がないので、わかりません。グレイノでの戦闘経験から言えば、混乱した状況でも方向と強さは拾えます。ただし、全員の動きを追うことはできません」
「特に強い敵意があれば、そこに注意が向く」
「そうです。他が埋もれる可能性があります」
「制限がわかれば、使い方が決まる」
カルバは俺を見た。
「砦の者たちは、あなたを警戒している」
「知っています」
「人間だから、というだけではない」
「何が原因ですか」
「前線に来た人間が、敵側ではなく見張りとして立っている。それが理解できない者が多い」
「理解できないのは当然です」
「あなたはそれを気にしないのか」
「気にします。ただし、気にしすぎると動けなくなるので、今は役割を果たすことに集中しています」
「役割を果たせば、評価が変わると思っているか」
「変わらないかもしれません。ただし、変えるための行動をしないよりは、した方がいい」
カルバは少しの間、俺を見た。
「グレイノでも同じようにしたのか」
「同じようにしました。三日かかりました」
「ここは三日では変わらないかもしれない」
「一週間かかるかもしれません」
「もっとかかる可能性もある」
「そのときは、もっとかけます」
カルバは鼻から息を吐いた。
笑ったのか、呆れたのか、判断できない。
「午後も続けてくれ。夕方に交代を出す」
「わかりました」
カルバが下りていった。
俺は北の感触を確認した。
後退した塊が、また少し動き始めていた。
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午後、レイが戻ってきた。
「交代まで、俺が見張り台に残る。あなたも続けるか」
「続けます」
「昼は食べたか」
「リーディアさんが持ってきてくれました」
「気が利くな、あの人は」
「そうですね」
「あなたとは、何の関係だ」
「今のところ、監視対象と監視役です」
「ずっとそうなのか」
「変わってきてはいます」
「どう変わった」
「詳しくは言えません」
レイは少し笑った。
今度ははっきり笑った。
「正直に言えないことがあると言う人間は、正直だ」
「リーディアさんに言われたことです」
「彼女に教わったのか」
「教わることが多いです」
「見ていてわかる」
「見えていましたか」
「朝から、あなたがリーディアの動きを目で追っている」
「監視対象が監視役を確認しているだけです」
「そうか」
レイはそれ以上追わなかった。
俺は北を向いた。
塊の動きが、また少し変化した。
「北の動きが変わりました。速度が上がっています」
「また進軍か」
「たぶん。教団の焦げた感触が、少し濃くなっています」
「石が使われているのか」
「距離があるのでわかりません。ただ、両方が同時に動くなら、連動している可能性があります」
「カルバに報告する」
レイが梯子を下りた。
俺は一人で北を見続けた。
見続けながら、自分がここに何をしに来たのかを考えた。
守るだけでは足りない。
では、何ができるか。
感知。
盾。
声。
まだ少ない。
でも、一つずつ積んでいく。
今日は感知を積んだ。
明日は何を積めるかは、明日の状況が決める。
夕暮れが近づいてきた。
二つの月が、東の空に出始めていた。
灰境線の向こうから、風が吹いてくる。
冷たい風だった。
でも、逃げる風ではなかった。
俺は北の感触を追いながら、夕暮れを見ていた。
砦での一日目が終わろうとしていた。
次話は明後日の19:00に投稿します。
2日に1話投稿の予定になります。
よろしくお願いいたします。




