第20話 灰境線へ
出発の三日間は、思ったより速く過ぎた。
午前はリーディアの訓練。
午後はオルドとの通り道の練習。
夜は医療棟で傷の回復に専念する。
盾なしで押されても、八割は耐えられるようになった。
声で通り道を絞る感触も、少しずつ掴めてきた。
完成には程遠い。
でも、三日前より確実に前に進んでいる。
それで十分だと、リーディアは言わなかった。
ただ、訓練の終わりに毎回、少しだけ長く俺を見るようになった。
それが何を意味するのかは、まだわからない。
---
出発の朝、空は曇っていた。
雨にはならないが、晴れでもない。
灰色の空の下で、グレイノの北門が開いた。
見送りに来た者は少なかった。
セラムは来なかった。
集落長は見送らない、という不文律があるとノルが教えてくれた。
見送ることで、戻らないかもしれないと認めることになるからだ。
ノルは来た。
「行ってくるな」
「行ってきます」
「変な言い方だ」
「俺のいた世界では、そう言うんです」
「行ってくる、の方がいいだろ。来るじゃなくて、くるだ」
「行ってきます、は行って戻ってくるという意味が込められているんです」
「なら、行ってきますの方が縁起がいいな」
「そうですね」
ノルは少し間を置いた。
「気をつけろよ。前に出すぎるな」
「盾役は前に立つものだとリーディアさんに言われました」
「前に立つのと、突っ込むのは違う」
「わかっています」
「本当にわかってるのか」
「七割くらい」
「その三割が心配だ」
ノルは弓を持ち直した。
見張りの時間だ。
「ソーイ」
「はい」
「戻ってきたら、また矢羽根の話をしろよ。あれ、集落の連中に好評だったんだ」
「俺が巻いた分ですか」
「几帳面に巻いてあるって、弓の使い手たちが言ってた」
「それはよかったです」
「褒め言葉だからな」
「半分くらいですか」
「全部だ」
ノルはそれきり背を向け、見張り台へ上がっていった。
トマが門の陰から顔を出した。
こちらを見ている。
俺は手を上げた。
トマは少しの間、動かなかった。
やがて、小さく手を上げた。
それだけだった。
それだけで、十分だった。
---
四人で森の道に入った。
リーディア、オルド、俺、そしてガウンだ。
ガウンは傷がまだ完全には癒えていないが、黒燐砦への道を知っていると言って同行を申し出た。
セラムが許可した。
「ウナたちはグレイノに残ります」
ガウンが歩きながら言った。
「残る人数が多い方が、集落の守りになります」
「セラム長への配慮ですか」
「配慮と恩返しの半分ずつです」
ガウンは俺を横目で見た。
「あんたは前に出すぎるな」
「ノルさんにも言われました」
「みんなが言うことは、だいたい正しい」
「七割くらいは気をつけます」
「残りの三割が問題なんだろう」
「おそらく」
ガウンは苦笑した。
リーディアが前を向いたまま言った。
「ソーイの三割は、たいてい誰かの前に出るときに使われる」
「知っているんですか」
「見てきたから」
「問題ですか」
「問題よ。でも、止められない三割でもある」
オルドが後ろから笑った。
「止められない三割を持つ人間は、貴重だよ」
「貴重なんですか」
「止められる九割を持つ人間は大勢いる。止められない一割を持つ人間は、たいてい死ぬ。止められない三割で、しかも生きている人間は、バランスがいい」
「褒めていますか」
「褒めているよ」
「半分くらいですか」
「全部だよ」
今日は全部が多い日だった。
---
森を抜けると、道が少し開けた。
灰境線が近い。
空気が変わる。
湿気の質が違う。
土の匂いに、何か焦げたようなものが混じっている。
俺は胸の奥を確認した。
弱い緊張感が、遠くに散っている。
敵意ではない。
哨戒の緊張感。
前線近くの者たちの日常的な警戒だ。
「前線の気配がします」
「どのくらい遠い」
「遠いです。方向は北と東。敵意ではなく、警戒の感触です」
「魔族側の哨戒だろう」
リーディアが言った。
「人類軍は?」
「感じません。今のところ」
「続けて」
道が緩やかな丘を越えた。
丘の向こうに、黒い木造の建物が見えた。
低い石垣。
丸太の柵。
見張り台が二つ。
黒燐砦だった。
グレイノより三倍は大きい。
見張り台の上に、二人の人影が見える。
こちらに気づいたらしく、一人が動いた。
「止まれ」
砦の方から声が飛んだ。
「身分を名乗れ」
リーディアが前に出た。
「リーディア・ヴェルク。グレイノからの援軍だ。オルド・ザイラム、ガウン・ヴァラン、それから一名が同行している」
「一名とは」
「グレイノ集落長セラムの管理下にある者。詳細は砦長に直接話す」
短い沈黙があった。
見張りが何かを確認している。
やがて、門が開いた。
---
砦の中は、グレイノとは別の空気だった。
生活感と、戦場の緊張感が同居している。
鎧を着た者が行き来し、武器の手入れをする音が聞こえる。
焚き火の煙。
鉄の匂い。
俺の胸の奥に、複数の緊張感が散らばっている。
敵意ではないが、全員が何かに備えている。
「あなたが人間か」
声が飛んだ。
振り返ると、四十代ほどの男が立っていた。
体格がいい。
鎧は着ていないが、腰に長剣を下げている。
首筋に濃い銀紋が走っている。
「はい」
「砦長のカルバ・シェインだ。リーディアから話は聞いている」
「どこまで聞いていますか」
「人間。魔力核なし。敵意の感知ができる。盾役。グレイノで戦力として使われていた」
「概ねそうです」
「人類軍ではないと言っているらしいが」
「はい」
「根拠は」
「魔族領に転移してきたばかりです。人類軍に所属したことはありません」
「転移」
カルバは俺をじっと見た。
警戒している。
当然だ。
砦の長が、突然現れた人間を簡単に信じるはずがない。
「感知を試させてくれ」
「構いません」
「今、砦の中に何人の者がいる」
俺は目を閉じた。
胸の奥の感触を広げる。
緊張感の点が散らばっている。
数えられるほど離れていない。
ただ、密度の感触から推測できる。
「正確な数はわかりません。密度の感触から、五十人から七十人の間だと思います。あと、南の棟に、いくつか弱い感触があります。怪我人か、病人ではないですか」
カルバが少し目を細めた。
「南の棟に、先週の戦闘で傷を負った者が八人いる。数は外れたが、南の棟を当てたのは正確だ」
「完璧ではありません」
「完璧な者はいない。ただ、使える」
カルバはリーディアを見た。
「グレイノでの評価は」
「見張り補助として使えます。戦闘でも、単独では無理ですが、連携なら」
「連携相手は」
「私です」
「あなたの黒燐火は、ここでも使える」
「使います」
カルバは俺に向き直った。
「砦での扱いを決める。見張り補助として、明日から使う。戦闘参加は状況次第で判断する。砦内での行動は、リーディアかオルドが同伴すること。武器の使用は緊急時のみ。問題あるか」
「問題ありません」
「食事と寝床は用意する。今日は休め。明日の朝、改めて話す」
「ありがとうございます」
「礼を言うのは早い」
グレイノでも同じことを言われた。
どこに行っても、礼を言うのは早いと言われる。
俺の礼は、いつも早すぎるらしい。
---
案内された部屋は、小さかった。
寝台が二つ。
窓が一つ。
荷物を置く棚が一つ。
リーディアと同室だった。
「いいんですか」
「砦は部屋が足りない。文句があるなら廊下で寝ても構わない」
「文句はありません」
「じゃあ黙っていなさい」
リーディアは寝台に荷物を置いた。
俺も反対側の寝台に荷物を下ろす。
窓から外を見ると、砦の柵の向こうに森が続いている。
遠くに、灰境線が見えた。
グレイノの崖から見たときより、近い。
「リーディアさん」
「何」
「この部屋から、灰境線が見えます」
「見える場所に来たから」
「怖いですか」
「怖くない、と言えば嘘になる」
「俺も怖いです」
「知ってる」
「顔に出ていますか」
「出ていない。でも、あなたが怖くないはずがないことはわかる」
リーディアは窓の外を見た。
「グレイノにいたときと、ここは違う」
「何が違いますか」
「グレイノでは、戦争が向こうから来た。ここでは、戦争の真ん中にいる」
「真ん中に来てしまいましたね」
「来てしまったではなく、来た。あなたは自分で決めた」
「そうでした」
リーディアは振り返った。
「後悔しているか」
「していません」
「本当に?」
「七割は本当に。残りの三割は、まだ確認中です」
リーディアは少しだけ笑った。
「正直ね」
「嘘が下手なので」
「知ってる」
外から風が吹いてきた。
灰境線の方角から来る風は、少し冷たかった。
「明日から、ここが日常になる」
リーディアが言った。
「グレイノも、最初は日常ではなかったです。でも、一週間で少し慣れました」
「ここは、グレイノより慣れるのが難しいかもしれない」
「それでも、慣れるようにします」
「確信があるの」
「確信はありません。ただ、慣れないと生き残れないので」
「現実的ね」
「リーディアさんに教えてもらいました。現実しかないと」
リーディアは少しだけ目を細めた。
「私が言ったことを、よく覚えている」
「覚えていないと、勿体ない言葉ばかりなので」
「勿体ない」
「はい」
リーディアは何も言わなかった。
窓の外を見て、少しの間だけ黙っていた。
「明日の朝、カルバに話がある。同席するか」
「必要なら」
「感知の範囲と、限界の詳細を確認したいと言っていた。あなたが直接話した方が正確だ」
「わかりました」
「早く寝なさい。明日から忙しくなる」
「リーディアさんはまだ寝ませんか」
「少しだけ外の感触を確認する」
「俺が確認しましょうか」
「今日くらいは休みなさい。初日から使い切ることはない」
「はい」
俺は寝台に横になった。
窓から灰境線が見える。
灰色の線。
そこで人が死んでいる。
そこで流れた血が、何かを育てている。
俺はまだ、何もできていない。
でも、グレイノを出た。
砦に来た。
明日から、戦争の真ん中に立つ。
守るだけでは足りない。
リーディアに言われた言葉が、灰境線を見ながら胸の中に降りてきた。
守るだけでは足りない。
では、何をするか。
まだわからない。
わからないが、盾を持って前に立つことだけは決めている。
その先は、ここで積み上げながら考える。
グレイノでそうしたように。
「リーディアさん」
「何」
「おやすみなさい」
少しの間があった。
「おやすみ」
リーディアの声は短かった。
でも、確かにそこにあった。
俺は目を閉じた。
胸の奥に、砦の者たちの緊張感が散らばっている。
敵意はない。
危険はない。
今夜は、それだけで十分だった。
第一部が終わる。
異世界に来て八日目の夜、森川創一はエルディナールの戦場に立った。
最強でもない。
勇者でもない。
ただの三十二歳の会社員が、盾を持って、灰境線を見ている。
これからが、本当の始まりだった。
次話は明後日の19:00に投稿します。
2日に1話投稿の予定になります。
よろしくお願いいたします。




