第18話 老僧オルドの目
執務小屋での話が終わった後、俺は医療棟に戻った。
リーディアは見張りの確認に行くと言って出ていった。
ガウンは寝台で目を閉じている。
眠っているのか、起きているのかわからない。
俺は自分の寝台に腰を下ろし、脇腹の布を確認した。
血は止まっている。
炎症も昨日よりは引いている。
リーディアの手当てが正確なのだろう。
しばらくして、オルドが来た。
「邪魔するよ」
「どうぞ」
オルドは椅子を引き寄せ、いつものように座った。
だが、今日は手帳ではなく、布に包んだ細長いものを持っていた。
「今朝の話、よく話したね」
「言わないと、また失敗すると思ったので」
「失敗を避けるために話す。それは実用的だね。でも、あの場にいた全員が、それだけではないと感じていたよ」
「何を感じたんですか」
「あなたが自分を隠すことに疲れていた、ということだよ」
俺は少し考えた。
疲れていた。
確かにそうかもしれない。
人間であることを隠し、転移者であることを曖昧にし、スキルの全容を出さず、過去のことを言わない。
四日間ずっと、薄い壁の後ろに立っていた気がする。
今朝、その壁を自分から開けた。
楽になったかと聞かれれば、半分はそうだ。
残りの半分は、開けたことで生まれた新しい不安だった。
「不安もあるかね」
「少し」
「全部を話した者は、全部を知られた者になる。知られた者は、利用される可能性もある」
「わかっています」
「わかった上で話した」
「はい」
「ならいい」
オルドは布の包みをほどいた。
中から出てきたのは、細い金属の棒だった。
先端に小さな石が埋め込まれている。
リーディアが最初の夜、俺の魔力核を調べたときに使ったものに似ていた。
「これは?」
「古い計測杖だよ。リーディアのものより精度が高い。もう少し細かいところまで見られる」
「俺を調べるんですか」
「あなたの召具と、スキルの出どころを、もう少し確認したい。構わないかね」
「構いません。ただ、痛いですか」
「痛くないよ。少しくすぐったいかもしれない」
「くすぐったいのは苦手です」
「大の男が」
「大の男でも苦手なものは苦手です」
オルドは笑った。
この老人は、笑い方が穏やかだった。
リーディアの笑いが一瞬の火花なら、オルドの笑いは炉の残り火に近い。
温かいが、じっくり燃えている。
「では始めるよ。右手を出してくれ」
俺は右手を差し出した。
オルドが計測杖の先端を、俺の手の甲に当てた。
石が薄く光る。
くすぐったい。
「動かないで」
「はい」
光が手の甲から手首、前腕へとゆっくり動いていく。
リーディアが調べたときより、ずっと丁寧だった。
一か所ずつ、確認するように進む。
「やはり、魔力核は完全にない」
「リーディアさんにも言われました」
「彼女の診断は正確だよ。ただ、私の杖で見ると、もう少し細かいことがわかる」
「何がわかりましたか」
「魔力核がないのに、魔力の通り道がある」
「通り道」
「普通、魔力核がない人間には、魔力の通り道もほとんどない。外から取り込んで使う人類側の術者でも、通り道は後天的に開発するものだ。だが、あなたには生まれつきのような通り道がいくつかある」
「それは俺が元からそうなのか、転移で変わったのかは」
「わからない。だが、召具はこの通り道を使って出入りしている」
オルドは計測杖を俺の左腕に移した。
盾が出る腕だ。
「ここが一番通り道が太い」
「盾を一番多く出しているからですか」
「使ったから太くなったのか、太いから使いやすいのか。卵と鶏だね」
「使うほど太くなるなら、練習する意味がありますね」
「そうなるかもしれない。ただし、太くなりすぎると別の問題も出る」
「別の問題」
「通り道が太くなれば、召具が出やすくなる代わりに、外からのものも入りやすくなる」
俺は少し黙った。
「黒い石の影響を、受けやすくなるということですか」
「可能性として」
オルドはいつも、可能性として、と言う。
断定しない。
断定できないのか、断定を避けているのか。
たぶん両方だろう。
「石の影響を受けにくくする方法を探しています」
「それについて、一つ試したいことがある」
オルドは計測杖を下ろした。
「あの黒い石の欠片を、近くに置いた状態で、あなたの通り道がどう変化するかを見たい」
「石を近くに持ってくるんですか」
「割れていないものだ。距離を保てば危険は低い。ただ、不快かもしれない」
俺は少し考えた。
「やりましょう」
「いいのかね」
「対処法を見つけないと、また使われたときに何もできません」
「覚悟が据わってきたね」
「覚悟というより、消去法です。やらないと前に進めないので」
オルドは布の包みの中から、もう一つの布包みを取り出した。
小さい。
親指の先ほどの大きさの、黒い石の欠片が入っている。
俺の胸の奥に、わずかな感触が生まれた。
敵意標識ではない。
穴のそばに立っているような、底の見えない感覚。
「感じるかね」
「はい。前と同じです。穴のそばに立っている感じ」
「距離は今のまま保つ。もう少し近づけてみるよ」
オルドが石を少しだけ近づけた。
穴の感覚が、少し強くなった。
深くなる。
「少し強くなりました」
「通り道に変化がある。左腕の通り道が、わずかに広がっている」
「広がる?」
「石の魔力が、通り道をこじ開けようとしている。ただし、まだ微弱だ」
「これ以上近づけると」
「前の夜みたいになる可能性がある。ここまでにしよう」
オルドは石を元の布に包み、懐にしまった。
穴の感覚が薄れる。
俺は息を吐いた。
少しだけ汗をかいていた。
「わかったことをまとめていいかね」
「お願いします」
「一つ。あなたの体には、魔力核がないにもかかわらず、魔力の通り道がある。この通り道は、召具とスキルの出入り口になっている」
「はい」
「二つ。黒い石は、この通り道をこじ開ける性質を持っている。通り道が広がると、石の影響が体の内側に入りやすくなる」
「つまり、召具を使うほど通り道が太くなり、太くなるほど石に弱くなる」
「そういうことになる」
「矛盾していますね。盾を使って強くなるほど、石に対しては弱くなる」
「矛盾だね。だが、解決策がないわけではない」
「何ですか」
「通り道を太くするのではなく、通り道の出入り口を制御できるようにする」
「制御」
「開け閉めができれば、石が来たときに閉じればいい。召具を使うときだけ開けて、使わないときは閉じる」
「できるんですか」
「普通は、魔力核を持つ者が自分の魔力の流れを制御する訓練で覚えることだ。あなたには魔力核がないから、同じ方法は使えない」
「では」
「別の方法を探す。あなたのスキルのうち、防線号令は声を使って外に作用する。声は、通り道とは別の経路を使っている可能性がある」
「声が別の経路?」
「あなたが声を出したとき、防線号令の効果が仲間に届く。あれは通り道ではなく、声という物理的な振動に、スキルの効果が乗っている」
「だから、声が届く範囲しか効かないんですか」
「おそらく。逆に言えば、声を使うスキルは、通り道を広げずに機能している可能性がある」
「声で通り道を閉じることはできますか」
「わからない。ただ、声が通り道とは別の経路であるなら、声を使って通り道の状態を変えることは、理論上は可能かもしれない」
理論上。
可能性として。
オルドの言葉はいつも断定しない。
だが、その不確かさの中に、確かな道筋を示している。
「やってみたいです」
「今日はやめておきなさい。傷がある。石の影響も少し受けた。体を休めてから」
「明日でいいですか」
「明日の午後。午前中はリーディアの訓練に使いなさい」
「わかりました」
オルドは計測杖を布に包み直した。
「もう一つ、聞いてもいいですか」
「何かね」
「虚環の器という言葉について、もう少しわかったことはありますか」
オルドは少しの間、黙った。
「わかったことと、わからないことがある」
「両方聞いてもいいですか」
「わかったことは、虚環の器という概念が、百年前の文献にだけ出てくるのではなく、もっと古い記録にも出てくるということだ」
「どのくらい古い」
「五百年以上前の記録に、似た表現がある。空白の器。外からの力を受ける媒体。魔力核を持たず、しかし通り道を持つ者」
「俺と同じ状態の人間が、過去にもいた」
「いた。そして、その者たちに共通していることがある」
「何ですか」
「全員が、戦争の激しい時代に現れている」
俺は少し考えた。
「戦争が激しくなると、転移者が来る」
「あるいは、転移者が必要になるから、呼ばれる」
「神様が呼んでいる」
「神かどうかはわからない。ただ、何かが呼んでいる」
「虚環の王骸が呼んでいるのではないですか」
オルドの目が、少しだけ鋭くなった。
「なぜそう思う」
「王骸が復活するには、死と憎しみの積み重ねが必要だと言いましたね。戦争が激しくなるほど、復活に近づく。でも同時に、戦争を止めようとする者も現れる。それが転移者なら、王骸にとっては邪魔者になる」
「そうだね」
「でも、俺を虚環の器と呼んだ男は、王骸が俺を好むと言った。つまり、俺は邪魔者であると同時に、利用価値がある存在なのかもしれません」
「よく考えている」
「わからないことだらけですが」
「わからないことの方が多い。ただ、あなたの推測は、私の調査と矛盾していない」
オルドは立ち上がった。
「明日、通り道の制御を試す。それまでに、私ももう少し調べておく」
「ありがとうございます」
「礼を言うのは早い。まだ何も解決していない」
「でも、一人で考えているよりずっとましです」
「それは確かだね」
オルドは扉へ向かった。
出がけに、いつものように振り返る。
「あの子にも話しておく」
「あの子とは」
「リーディアだよ。あの子は知っておくべきだ。あなたの通り道と石の関係を」
「そうですね」
「あの子は理解が早い。ただ、理解した後に感情が追いかけてくるタイプだ」
「感情が追いかけてくる」
「頭ではわかっている。でも、心がわかるまでに少し時間がかかる。あの子を急かさないでやってくれ」
「急かしません」
「あなたは急かさない人間だね」
「待つのは得意です。会社員時代、上司の決裁を待つのが仕事の半分だったので」
「それは忍耐力ではなく諦観かもしれないね」
「否定できません」
オルドは笑って出ていった。
静かになった医療棟で、俺は天井を見た。
通り道。
黒い石。
虚環の器。
言葉が増えた。
言葉が増えるほど、世界の輪郭が見えてくる。
だが同時に、自分の足元の危うさも見えてくる。
召具を使うほど、石に弱くなる。
盾を強くするほど、穴が広がる。
矛盾だ。
でも、矛盾の中に道があるとオルドは言った。
通り道を太くするのではなく、開け閉めを覚える。
声が別の経路なら、声で閉じることができるかもしれない。
理論上は。
可能性として。
俺はその不確かさを、少しだけ前向きに受け取った。
何もないよりは、可能性がある方がいい。
そして、可能性を確かめるには、明日まで待つ必要がある。
待つのは得意だ。
上司の決裁よりは、こちらの方が命がかかっている分、待ちがいがある。
昼の光が窓から差し込んでいた。
ガウンが目を開けて、俺を見た。
「面白い話が聞こえていた」
「起きていましたか」
「途中から」
「すみません。静かにした方がよかったですか」
「いや。面白い話は、寝床で聞くに限る」
ガウンは天井を向いた。
「あんたが虚環の器かもしれないという話、ヴァランの古老も似たことを言っていた」
「古老が」
「石を初めて使われた夜に、古老は言ったよ。空白の器が来なければ、この争いは終わらないかもしれない、と」
「空白の器」
「虚環の器と同じ意味だろう。氏族によって言い方が違うだけだ」
「その古老は、今は」
「石に従った側に入った。最後に会ったとき、目が濁っていた」
ガウンの声が、少しだけ沈んだ。
「石に長く触れると、判断が鈍る。最初は怒りっぽくなるだけだが、やがて自分が何に怒っているのかわからなくなる。怒りだけが残って、中身が消える」
「中身が消える」
「そう。名前で呼んでも振り向かなくなる。氏族の仲間の顔も忘れる。ただ、敵がいるという感覚だけが残る」
「それが、石の最終段階ですか」
「わからない。俺は途中で逃げた。最後まで見ていない」
ガウンは俺を見た。
「あんたが器なら、あんたの中にも同じものが流れ込んでくる可能性がある」
「オルドさんに言われました」
「あの老僧は賢い。ただ、賢さだけでは止められないものもある」
「何が止められないんですか」
「恐怖だよ。自分の中に何かが入ってくる恐怖は、知識では消えない」
俺は少し黙った。
「怖いです」
「正直だな」
「嘘をついても、怖いものは消えないので」
「それでも前に出るのか」
「出ないと、後ろにいる人が見えるので」
ガウンは少し笑った。
「トマの父親と同じことを言う」
「何人かに言われました」
「広まっているのか」
「小さい集落なので」
「小さい集落は、噂が早い。良くも悪くもな」
ガウンは再び目を閉じた。
「休む。あんたも休め」
「はい」
俺は目を閉じた。
胸の奥に、見張りたちの弱い警戒の感触が点のように散っている。
その中に、今までにない感触が一つ混じっていた。
微かな温かさ。
敵意ではない。警戒でもない。恐怖でもない。
誰かが、俺のことを心配している感触に似ていた。
方向は、医療棟の外。
おそらく、リーディアがどこかにいる。
確信はない。
ただ、そうだといいと思った。
この五日間で、俺の感知は少し変わった。
敵意だけだったものが、恐怖を拾い、今は温かさに似たものまで感じ始めている。
通り道が太くなっているのだとすれば、それは危険の兆候でもある。
でも、温かさを感じられるなら、それは悪いことだけではない気がした。
矛盾だ。
でも、矛盾の中に道がある。
そう言ったのは、オルドだ。
俺は息を吐いて、もう少しだけ目を閉じていた。
次話は明後日の19:00に投稿します。
2日に1話投稿の予定になります。
よろしくお願いいたします。




