第14話 隠しごとの代償
夜になった。
医療棟の中は静かだった。
ガウンは夕食を少し食べ、また眠っている。
隣の寝台で腕を切られた見張りの男は、今朝から自分の家に戻っていた。
医療棟には俺とガウンだけが残っている。
リーディアは外で見張りの交代の確認をしていると言って出ていった。
オルドが来たのは、夜の鐘が一度鳴ってからだった。
「邪魔するよ」
「どうぞ」
オルドは椅子を引き寄せ、俺の傍に座った。
昼間より疲れた顔をしている。
「黒い石を調べていたんですか」
「ずっとね。目が痛くなるくらい」
「わかりましたか」
「少しだけ」
オルドは腰の革袋から、布に包んだものを取り出した。
包みを開くと、黒い石の欠片が出てきた。
昨夜の捕虜から出てきたものだ。
まだ割れていない。
俺の胸の奥に、何かが触れる感触があった。
敵意標識ではない。
もっと違う、底の見えない感触。
「感じるかね」
「何か、触れてくる感じがします。石の方から」
「どんな感触か」
「穴のそばに立っているような感じです。深い穴で、底が見えない」
「ほう」
オルドは石を布の上に置いた。
「私には、魔力の塊にしか見えない。ただ、質が通常と全く違う」
「どう違うんですか」
「通常の魔力は、使う者の意図を持つ。攻撃なら攻撃の形。回復なら回復の形。だがこの石の魔力は、意図を持っていない」
「意図がない魔力?」
「空白、とでも言うべきかな。何にでもなれる、と言えば聞こえはいいが、正確には、受け取る者の内側にあるものを引き出す性質を持っている」
俺は石を見た。
「感情を引き出す、ということですか」
「正確には、増幅する。元々ある感情を、何倍にも膨らませる。恐怖があれば恐怖を。憎しみがあれば憎しみを。怒りがあれば怒りを」
「ガウンさんの話と一致しますね。長期間使われると、攻撃的になると言っていました」
「元々攻撃性の高い者は、より攻撃的になる。元々不安の強い者は、より不安定になる。石は選ばない。受け取る者の内側を、ただ大きくする」
オルドは布の端を石の上に折り返した。
「対処はあるんですか」
「完全な対処はまだない。ただ、一つわかったことがある」
「何ですか」
「石の影響が強く出るのは、内側に空白がある者だ」
「空白」
「感情の向け先がない。自分が何者かわからない。どこにいるかわからない。そういう状態のとき、石の影響を受けやすい」
俺は少し考えた。
「俺が一昨日、石に強く影響を受けたのも、そのせいですか」
「可能性が高い。転移したばかりで、何もわからない状態だった。内側に大きな空白があった」
「今は、どうですか」
「今のあなたには、少し埋まってきたものがある気がするよ」
オルドは穏やかに言った。
「顔が変わった。三日前と比べてね」
「三日しか経っていませんが」
「三日で十分変わる人間もいる。特に、何かを積み上げているときは」
俺は天井を見た。
三日間で積み上げたもの。
矢羽根。訓練。見張り補助。傷。トマとの並び歩き。
小さいものばかりだ。
でも、確かに積み上がっている気がした。
「オルドさん」
「何かね」
「石への完全な対処がないなら、影響を受けにくくする方法はありますか」
「今言ったことの逆だよ。内側の空白を埋める。自分が何者かを知る。どこにいるかを感じる。誰かとつながっている状態を保つ」
「一人でいない、ということですか」
「そう。一人でいると、石の影響が強くなりやすい。誰かがいると、影響が分散する。あの夜、リーディアの声で意識が戻ったのも、同じ仕組みだ」
リーディアの声。
あのとき、確かに泥のような感触が薄れた。
「声が効くのはなぜですか」
「声は、つながりを証明するものだからね。誰かがあなたを呼んでいる。それだけで、あなたは一人ではないとわかる。石の引力に対して、声は錨になる」
錨。
俺はその言葉を、胸の中に置いた。
「わかりました」
「石を持ったまま、感知の感触を続けて教えてくれるかね。明日以降も確認したいことがある」
「はい」
オルドは立ち上がった。
「傷は治りかけているかね」
「リーディアさんに今日は動くなと言われています」
「従いなさい。あの子の言うことは、だいたい正しい」
「あの子、ですか」
「私から見れば、あの子だよ」
オルドは柔らかく笑った。
その笑い方に、長い時間が滲んでいた。
「リーディアはね、正しいことを知っているのに、それを声に出すのが遅い子なんだ」
「そうですね」
「でも、あなたには比較的早く話している気がするよ」
「そうでしょうか」
「そうだよ。私は長く見ているからわかる」
オルドは扉の方へ歩いた。
「おやすみ、ソーイ」
「おやすみなさい」
オルドが出ていってしばらくして、リーディアが戻ってきた。
見張りの確認を終えた顔をしている。
疲れてはいるが、目は覚めていた。
椅子に座り、水を一口飲む。
「オルドが来たわね」
「はい。石について教えてもらいました」
「何がわかった」
「空白がある者が、石の影響を受けやすいと。内側に空白があると、石が引き出しやすくなる」
「空白」
「自分が何者かわからない状態。どこにいるかわからない状態」
リーディアは少し考えた。
「転移してきたあなたは、その状態だった」
「はい。今はだいぶ埋まってきたと、オルドさんは言っていました」
「何で埋まるの」
「つながりです。誰かとつながっている状態が、石の引力に対する錨になると」
リーディアは黙った。
窓の外を見ている。
月明かりが窓枠に四角い影を作っていた。
「リーディアさん」
「何」
「一つ、聞いてもいいですか」
「内容による」
「俺がここに来てから、ずっと気になっていたことです」
「話してみなさい」
俺は少しだけ間を置いた。
「一番最初の夜、小屋で俺を縛ったあと、リーディアさんは俺に怒りましたね」
「怒った」
「あのとき、俺が人間だから怒ったと思っていました。でも、今は違う気がしています」
リーディアは窓から視線を戻した。
俺を見ている。
「続けて」
「あなたは、俺が人間だから怒ったのではなく、判断材料を隠して自分を動かしたことに怒った。そう言っていました」
「言った」
「でも、俺はまだ理解しきれていない気がします。もう少し教えてもらえますか。あなたが一番怒ったのは、どこですか」
リーディアは少しの間、黙った。
窓の外を見るのではなく、自分の手を見ていた。
「私はあの夜、身元不明の人間を集落に連れていくかどうか、判断しなければならなかった」
「はい」
「判断するためには、材料が必要だ。あなたが何者か。敵か、敵でないか。集落に連れていって危険があるか、ないか」
「はい」
「あなたは、その材料を出さなかった」
「名前を偽っていました」
「名前だけではない。出自も、力の出どころも、この世界に来た経緯も、全部出さなかった」
「言えば信じてもらえないと思っていました」
「それがあなたの判断だったのね」
「はい」
リーディアは手から目を上げた。
「私の怒りは、あなたが嘘をついたことだけではない」
「では、何に」
「私が判断を間違えるかもしれなかったことに対して」
俺は少し考えた。
「間違える可能性があったということですか」
「私はあなたを集落に連れていった。結果として、今のところ大きな問題は起きていない。でも、あのとき私は不完全な情報で動いた」
「それが、怒りの根ですか」
「私が間違えれば、集落の誰かが傷つく。その可能性を、あなたは知っていて、それでも材料を出さなかった」
俺は何も言えなかった。
「あなたの立場から見れば、正直に話せない理由があった。それはわかる。でも、私の立場から見れば、判断の道具を奪われた」
「すみません」
「今は謝らなくていい」
リーディアは真っ直ぐに俺を見た。
「これから先、あなたが材料を出せないとき、出せないと言いなさい。何かを隠すとき、隠していると言いなさい。全部話せなくても、話せないことがあると言えば、私はそれを前提に判断できる」
「わかりました」
「嘘と、話せないことは、違う。その違いを守れるか」
「守ります」
「努力しますではなく」
「守ります」
リーディアは少しだけ目を細めた。
怒りではなく、確認している目だった。
「今日、セラム長が広場で言ったことを聞いていた?」
「はい。ヴァランを受け入れる判断を」
「あの判断に、私は賛成している」
「そうですね」
「なぜかわかる?」
「見捨てれば、教団の目的に沿ってしまうから。セラム長が言っていました」
「それもある。もう一つ」
「もう一つ」
「見捨てる理由が、怖いからだけなら、それは教団が広めたい感情だから」
俺は少し考えた。
「恐怖を使って、人を分断している?」
「石が恐怖を増幅する。増幅された恐怖は、他者を遠ざけさせる。遠ざかった者同士は、やがて憎み合う。その憎しみが、王骸の糧になる」
「だから、恐怖で動かないことが、対抗策になる」
「完全な対抗策ではない。でも、一つの抵抗にはなる」
リーディアは立ち上がった。
「今夜は少し寝る。何かあれば起こして」
「わかりました」
彼女は椅子を壁際に寄せ、腰を下ろした。
目を閉じる。
銀紋は出ていない。
呼吸が少しずつ落ち着いていく。
俺は天井を見た。
嘘と、話せないことは、違う。
その違いを守れるか。
守ります、と言った。
軽く言えることではない。
でも、軽く言うつもりで言ったわけでもない。
この三日間で、リーディアが俺のために動いた場面を思い返した。
森で助けてくれた。
小屋に置いてくれた。
手当てをしてくれた。
訓練を教えてくれた。
昨夜、背中を守ってくれた。
全部、信用があったからではない。
判断があったからだ。
不完全な情報の中で、彼女は何度も判断した。
その判断の重さを、俺は今日初めてわかった気がした。
材料を出さなかったことへの後悔が、改めて胸の中に沈んでいく。
遅すぎる後悔だが遅すぎることはないと思いたかった。
まだここにいる。
まだ動ける。
まだ、材料を出せる場面がある。
俺は目を閉じた。
胸の奥に、見張りたちの弱い警戒の感触が点のように散っている。
危険はない。
今夜は、それだけで十分だった。
次話は明日の19:00に投稿します。
1日1話投稿の予定になります。
よろしくお願いいたします。




