第13話 人間なのに
翌朝、目が覚めたとき、リーディアは椅子に座ったまま目を閉じていた。
眠っているのか、起きているのかわからない。
銀紋は出ていない。
呼吸は静かだった。
俺は起き上がろうとして、脇腹の痛みで止まった。
昨夜より痛い。
傷が固まってきた証拠だとは思うが、体の都合は関係なく痛いものは痛い。
ゆっくりと、音を立てないように寝台の端に腰を移した。
「起きたの」
リーディアの目が開いた。
「起こしてしまいましたか」
「眠っていなかった」
「一晩中ですか」
「半分くらい」
「俺の見張りのためですか」
「外の見張りのため」
「両方と言っていましたね」
「半分ずつよ」
リーディアは立ち上がり、俺の脇腹を確認した。
布の外側を指で押す。
「痛い?」
「はい」
「開いてはいない。ただ、炎症が出ている。今日の訓練は無し」
「わかりました」
「抵抗しないの?」
「昨日言われたことを覚えています。無理をして三日分失うより、休んで明日からできることを増やす方がいい」
「覚えていて、守れるのね」
「言葉は覚えます。体がついてくるかは別問題ですが」
リーディアは小さく頷いた。
それだけで、なぜか少し褒められた気になった。
朝食は、見張りのノルが持ってきた。
昨日より少し濃い粥だった。
豆が多めに入っている。
「傷があるから、多めにしろってセラム長が言ってた」
「セラム長が?」
「俺は言われたことを運んだだけだ」
ノルは照れたように目を逸らした。
俺は器を受け取り、礼を言った。
「怪我の具合は」
「傷が固まりかけているので、今日は動かない方がいいと言われました」
「そうか」
ノルは少し間を置いてから、続けた。
「昨夜のこと、集落の連中に広まっている」
「俺のことですか」
「医療棟の前でトマを守ったこと」
俺は粥を一口食べた。
豆が昨日より柔らかかった。
「広まると、何かありますか」
「わからない。ただ、朝から俺に聞いてくる者が何人かいた。人間なのに、ってみんな言う」
「人間なのに、何ですか」
「それを聞いてくる」
人間なのに、トマを守った。
人間なのに、集落のために戦った。
人間なのに、敵意を知らせた。
たぶん、そういう意味だ。
「どう答えましたか」
「見ていたことを言った。それだけだ」
「ありがとうございます」
「礼を言われることじゃない」
ノルは器を持ったまま、少しの間だけ立っていた。
「ソーイ」
「はい」
「あの路地の男、本当にトマを狙っていたのか」
「俺の感知では、そうでした。短剣の向きも、後ろに向いていました」
「なんで子どもを狙う」
「わかりません。ただ、集落を混乱させるためなら、子どもへの攻撃は有効です」
「最悪だ」
「はい」
「あいつら、何者なんだ」
「セラム長が尋問をしていますが、俺にはまだ教えてもらっていません」
「そうか」
ノルは出ていった。
午前中、俺は動かずに過ごした。
矢羽根の仕事の残りを続けようとしたが、リーディアに止められた。
「傷に響く」
「座って作業するだけですが」
「座っているだけでも、体幹を使う。今日は寝ていなさい」
「寝ていると考えすぎます」
「考えていればいい」
「役に立てません」
「役に立とうとして悪化したら、もっと役に立てなくなる」
言い返せなかった。
俺は寝台に横になった。
天井を見る。
木の板が組まれている。隙間から光が入っている。
ヴァラン氏族の男が、俺の隣の寝台で眠っている。
朝から意識はあるが、まだ起き上がれない状態らしい。
腕の傷と、疲弊が原因だとリーディアが言っていた。
俺はその男を横目で見た。
三十代ほど。日焼けした肌。手に古い傷が多い。
戦い慣れた人間の手だ。
氏族印は腕の布の下にある。
リーディアが昨日言っていた。
半年前から消息が途絶えていた氏族の男が、なぜ今ここへ来たのか。
そして、彼を追ってきた者たちは、集落への攻撃と同じ組織の者なのか。
考えることはいくつもあった。
だが、答えを出せる情報が俺には足りない。
足りない情報で結論を出すのは、会社でも失敗の元だった。
待つしかない。
昼前に、セラムが来た。
リーディアを連れて、医療棟の入り口近くに立つ。
隣の寝台の男が、気づいて目を開けた。
「ガウン・ヴァラン」
セラムが呼んだ。
男が、ゆっくりと首を動かす。
「セラム・グレイノ長か」
「そうだ。話せるか」
「話せる」
男の声は低く、かすれていた。
疲労だけではない。
何か重いものを背負っている声だった。
「仲間を追ってきた者たちは、何者だ」
「虚環教団の手の者だ」
医療棟の空気が変わった。
リーディアの右手に、わずかに銀紋が浮いた。
「虚環教団」
「聞いたことがあるか」
「ない」
「半年前、我々の集落が消えた理由が、それだ」
ガウンは痛みをこらえながら、少し体を起こした。
「壊滅したわけではない。囲い込まれた。黒い石を大量に使われ、逃げる間もなく従わされた」
「従わされた?」
「石が砕けると、声が聞こえる。最初は囁きだ。お前たちの敵はあちらだ。お前たちを苦しめているのは人類軍だ。戦え。憎め。続けろ」
セラムが静かに聞いている。
俺も寝台の上で、体を起こした。
「最初は気にしなかった。石の術だとわかっていたから。だが、毎晩続けられると、若い者から変わり始めた」
「どう変わった」
「攻撃的になった。理由なく怒る。議論ができなくなる。とにかく戦いたがる」
「石の声に従うようになった」
「そうだ。半年で、氏族の半分がそうなった。俺は残りを連れて逃げた。追われた。逃げ続けて、ここへ辿り着いた」
セラムは少しの間、黙った。
「昨夜来た者たちは、お前を追ってきた」
「俺だけではなく、俺と一緒に逃げた者たちを。石の声に従わない者を、教団は放置しない」
「なぜだ」
「石の声に従わない者が存在すると、他の者への説得力が落ちる。だから消す」
ガウンはそこで目を閉じた。
疲労が戻ってきたのだろう。
「一緒に逃げた者たちは、今どこにいる」
「灰境線の東。小さな廃村に隠れている。追われていると知っていたから、俺だけが来た」
「何のために」
「助けを借りるために。一人では守れない」
セラムは短く答えた。
「わかった。続きは後で聞く。今は休め」
ガウンの息が、少し楽になった気がした。
セラムとリーディアが外へ出た。
俺も出ようとすると、リーディアに目で止められた。
寝ていなさいという目だった。
俺は寝台に戻った。
しばらくして、リーディアだけが戻ってきた。
「聞いていたわね」
「隣なので」
「感想は」
「黒い石が、人の感情に影響を与えているなら、俺が感じた泥のような感触も同じ仕組みだと思います」
「そうね」
「半年続けられると、人が変わる。ならば、長期間の戦争で、両陣営の憎しみが積み上がっていくのも、一部は石の影響があるかもしれません」
「大規模に使われていると?」
「可能性として。灰境線の近くで戦死者が増えるたびに、あの焦げた匂いが残っていたりしませんか」
リーディアは少しの間、黙った。
「確認したことがない。ただ、戦場には独特の匂いがある。その中に混じっていれば、気づかないかもしれない」
「オルドさんに聞いてみる価値があると思います」
「言っておく」
リーディアは椅子に座った。
「ソーイ」
「はい」
「昨夜のトマとの話」
「はい」
「何を話したの」
「お父さんのことを、少し聞きました。前にいたから前に出る、難しい理由はない、と言っていた人だったようです」
リーディアは目を伏せた。
「そうね」
「知っていましたか」
「グレイノは小さい集落よ。みんな知っている」
「リーディアさんも、お父さんを知っていた?」
「子どもの頃から」
一言だった。
それ以上は言わない。
俺も聞かなかった。
ただ、少しだけわかった気がした。
リーディアがトマを姉のように呼ばれている理由。
彼女がトマのことを、ただの集落の子どもとして見ていない理由。
午後になると、集落の空気が少し変わった。
医療棟の外を通る人の数が、昨日より多い。
足を止めていく者もいる。
扉の隙間から、中を覗く者もいる。
俺を見ているのか、ヴァラン氏族のガウンを見ているのかは、わからない。
ノルが昼に来たとき、俺は聞いた。
「外が騒がしい気がしますが、何かありましたか」
「ガウンさんのことが広まった。半年消えていた氏族の人間が来た、ってな」
「集落の人たちはどう思っていますか」
「半々だ。助けるべきという者と、自分たちの安全を守るべきという者」
「どちらが多いですか」
「五分五分くらい。セラム長がどう判断するかで変わる」
「セラム長は」
「まだ何も言っていない。考えているんだろう」
俺は天井を見た。
「ノルさんはどう思いますか」
ノルが少し止まった。
「俺の意見を聞くのか」
「判断材料が足りないので、聞ける人から聞いています」
「俺は、助ける方がいいと思う」
「なぜですか」
「向こうと同じことをしていたら、教団の思い通りになる気がするから」
「教団の目的が、人魔双方を争わせることなら、魔族同士が助けないことも目的に沿っています」
「そういうことだ。だから、助ける方がいい」
「セラム長も、似たことを考えているかもしれませんね」
「あの人は俺より百倍は頭がいい。もう答えは出てるだろう。発表するタイミングを考えているだけだ」
ノルの言い方が、少しだけ誇らしそうだった。
セラムへの信頼が、そこに見えた。
夕方近くに、セラムが集落の中心にある広場に人を集めた。
リーディアが俺を連れていった。
「動けるか」
「歩くだけなら」
「無理なら言いなさい」
「はい」
医療棟から広場まで、ゆっくり歩いた。
脇腹が鈍く主張するが、歩けないほどではない。
広場には、集落の大人がほぼ全員集まっていた。
三十人ほど。
子どもは端の方に固まっている。
トマも見えた。
俺に気づいて、目を逸らした。
完全に逸らしきれていない。
昨日とは少し違う目の逸らし方だった。
セラムが広場の中心に立った。
「昨夜の件を話す」
周囲が静まる。
「捕虜から聞いた内容と、ヴァラン氏族のガウンから聞いた内容を合わせると、昨夜の攻撃は虚環教団と名乗る組織の者たちによるものだ」
ざわめきが起きる。
知っている者と、初めて聞く者が混在しているようだった。
「虚環教団は、黒い石を使って人の感情に干渉する。長期間使われると、判断力が落ち、攻撃的になる。ヴァラン氏族はこれで半年間囲い込まれ、氏族の半数が教団の影響下に置かれた」
静かになった。
「ガウンは教団に従わない者を連れて逃げた。昨夜の攻撃は、その者たちを追ってきたものだ。目的は、従わない者の排除と、我々グレイノへの揺さぶりだったと思われる」
年配の男が声を上げた。
「セラム長、我々はどうするのか。ヴァランを受け入れれば、また攻撃が来る」
「来るかもしれない」
セラムは否定しなかった。
「来ないかもしれない。ただし、今回の攻撃は、ヴァランを受け入れる前から始まっていた」
その言葉に、ざわめきが止まった。
「一昨日の夜、リーディアの小屋が襲われた。あれはヴァランが来る前のことだ。教団はすでに、このグレイノに目を向けていた」
俺はセラムを見た。
彼女はただ事実を並べている。
感情を煽らない。
怖がらせもしない。
ただ、順番通りに話す。
「つまり、ヴァランを追い返しても、我々への教団の関心は変わらない。むしろ、追い返すことで、我々が教団の圧力に屈すると知らせることになる」
静寂が続いた。
「私の判断を言う」
セラムが一歩前に出た。
「ヴァランの者たちを受け入れる。灰境線東の廃村にいる者たちも、連絡をとって保護する。その上で、教団への対応を考える」
反発の声が一つ上がった。
「危険すぎる。子どもたちがいるのに」
「子どもたちのために、判断している」
セラムの声は変わらない。
「教団の目的は、人と人を争わせることだ。我々が同じ魔族を見捨てれば、その目的に一歩近づく。見捨てなければ、近づかない。それだけの話だ」
「それだけの話では済まない危険がある」
「ある。だから、今夜から見張りを増やす。石への対処をオルドに急がせる。それから」
セラムが俺を見た。
広場の全員の視線が、俺に向いた。
「敵意を感知できる者を、見張りの補助に使う」
ざわめきが戻った。
今度は質が違う。
人間なのに、という言葉が、いくつかの口から出るのが聞こえた。
年配の男が、また声を上げた。
「セラム長、その人間を信用するのか。教団の者かもしれない」
「可能性はある。ただし、昨夜その者は、集落のために能力を使い、傷を負った。教団の者が集落のために傷を負うかどうかは、各自で考えろ」
「たった一度のことで」
「一度でも、なければゼロだ」
セラムはそれ以上、俺の話をしなかった。
話題を戻す。
「警戒態勢の詳細は、各組ごとに伝える。全員、担当に従うように。以上だ」
広場が動き始めた。
人々が散っていく。
俺はその場に立ったまま、視線を感じていた。
疑いの目。
警戒の目。
昨日より怒気の少ない目。
完全には消えていない人間への不信。
ただ、昨日と確実に違うことが一つあった。
石を投げようとする者がいない。
広場から戻る途中、トマが俺の横に並んだ。
リーディアより少し遅れた位置で、俺の隣を歩いている。
話しかけてくるかと思ったが、何も言わない。
ただ、並んで歩いている。
俺も何も言わなかった。
医療棟の近くまで来たとき、トマが口を開いた。
「セラム長に聞いた」
「何を」
「ソーイと話してもいいか」
「どう言われましたか」
「お前が話したいなら、止めないと言われた」
「では、話したいですか」
トマは少し間を置いた。
「わからない」
「わからないなら、今日は話さなくていいです」
「でも、並んで歩いた」
「はい」
「それはいいのか」
「あなたが並んで歩いたので、俺は歩いただけです」
トマが俺を見た。
「やっぱり変な人だ」
「よく言われます」
「最近言われ始めたんだろ」
リーディアと同じことを言った。
俺は少しだけ笑った。
「そうです。最近言われ始めました」
トマは前を向いた。
「昨夜、路地で男が来たとき」
「はい」
「怖かった?」
「怖かったです」
「でも動いた」
「はい」
「なんで」
「後ろにあなたがいたから」
「それだけ?」
「それだけです」
トマは少しの間、黙って歩いた。
「父さんと同じこと言う」
「難しい理由がない、というやつですか」
「そう」
俺たちは医療棟の前まで来た。
トマが足を止めた。
「ソーイは人間だ」
「はい」
「人間が父さんと同じことを言う」
「言いました」
「なんで」
「人間でも、魔族でも、後ろに誰かがいれば前に出るものだと思います。それは、どちらかだけのことじゃないかもしれません」
トマは俺を見た。
まだ完全には開いていない目。
でも、昨日よりも少しだけ開いていた。
「また来ていいか」
「あなたが来たいなら」
「また並んで歩くだけかもしれない」
「それでいいです」
「変な人だ」
「ありがとうございます」
「褒めてない」
「半分は褒めているかもしれません」
「半分もない」
トマは走っていった。
リーディアが俺の横に立った。
「聞いていましたか」
「全部」
「まずかったですか」
「セラムが止めないと言ったのなら、問題ない」
「あなたはどう思いますか」
リーディアは少し間を置いた。
「あの子が自分で動いた。それは悪いことではない」
「俺への警戒が薄れることが、集落にとって危険になるかもしれません」
「なぜ」
「俺が本当に信用できる人間かどうか、まだ証明できていないので」
「そうね」
リーディアは俺を見た。
「だから、私が見ている」
「監視ですか」
「監視よ。ただし」
彼女は少しだけ言葉を選ぶように黙った。
「昨夜、医療棟の前であなたが防線号令を出したとき、私の体に膜が張った」
「はい」
「あれが出たとき、私はリーディアの背中を守る者がいると感じた」
俺は何も言えなかった。
「監視の対象が、背中を守る者になるかどうかはまだわからない」
「はい」
「でも、まだ監視だけではなくなっているかもしれない」
リーディアは医療棟の中へ入っていった。
俺はその背中を見た。
まだ監視だけではなくなっているかもしれない。
その言葉が、しばらく胸の中に残った。
外では夕暮れが始まっていた。
二つの月が、まだ地平の低いところにある。
三日前には見慣れなかったものが、今はそこにあるのが当たり前になっていた。
この世界に来て、まだ三日しか経っていない。
なのに、俺の周りには少しずつ、顔が増えていた。
次話は明日の19:00に投稿します。
1日1話投稿の予定になります。
よろしくお願いいたします。




