第六話 逃亡者と監視者
「ハウスサポート桐ヶ丘の霧島です。階下から水漏れのクレームがありまして」
築40年の古びた木造アパート。チェーン越しに覗く近藤麻美の顔には、濃い疲労と極度の警戒心が張り付いていた。年齢は28歳。だが、手入れされていない髪と落ち窪んだ目のせいで、ひどく老け込んで見える。
彼女は神崎隆の元秘書であり、巨大企業の裏帳簿データを持って逃亡中の身だ。
「……そんなの、頼んでません」
「大家さんからの指示です。すぐに終わりますよ」
しぶしぶ開けられたドアの隙間から、俺は強引に足を踏み入れた。
室内には、引っ越してひと月経つのに段ボールが積まれたままだ。いつでも逃げ出せるようにという強迫観念の表れだろう。
「水回り、異常ないですよ」
彼女が冷たく言い放つ。早く追い返そうとするその口元から、薄い**赤い靄**が漏れた。
「ええ、水回りはね」
俺は振り返り、彼女の目をまっすぐに見据えた。
「でも、神崎コーポレーションの追手は、もうあなたのすぐ背後まで来てますよ、近藤さん」
ビクッ、と彼女の肩が大きく跳ねた。
「……なんのことですか? 私は神崎なんて会社、知りません」
彼女の口から、濃密な**赤い靄**が噴き出した。
「うちの社員が、あなたの個人情報を神崎の遠藤という男に売りました。あなたのこの住所は、もう奴らに割れてる」
「なっ……!」
彼女は後ずさりし、積まれた段ボールにぶつかって崩れ落ちた。中から、数着の服と、厳重にロックのかかった小さな金庫が転がり出る。
「あなた、誰なの……? 遠藤の手先?」
「もしそうなら、あなたは今頃東京湾の底ですよ。俺は、神崎隆という男に恨みがある人間です」
カマをかけた。すると、彼女の目から警戒心がわずかに揺らぎ、赤い靄は出なかった。
「……私は、神崎社長の元秘書です。あいつが政治家に裏金を渡すための、ダミー会社の裏帳簿を管理させられていた」
「そして、その証拠データを持って逃げた、というわけか。正義感からですか?」
「まさか」
彼女が自嘲気味に笑う。赤い靄はない。
「私の前任の秘書は、横領の罪を着せられて『自殺』しました。次は私だった。だから、身を守るための『保険』としてデータの一部を盗み出したんです。……でも、逃げ切れるわけがない。もう、限界です」
震える彼女の姿は、絶望して屋上から飛んだかつての霧島誠一と重なった。
「近藤さん。その爆弾、俺に預けてくれませんか」
「あなたが一人で抱えていても、いずれ押し潰されるだけだ。でも、俺ならその爆弾を、一番効果的なタイミングであいつらのど真ん中に落としてやれる。……俺にベット(賭け)しませんか?」
数秒の沈黙の後、彼女はゆっくりと金庫を開け、黒いUSBメモリを俺に差し出した。
アパートを出た帰り道。俺は背後に気配を感じて立ち止まった。
「……霧島くん」
薄暗い電灯の下に立っていたのは、職場の渡辺店長だった。人の良い、白髪交じりの50代の男。
「店長。こんなところで奇遇ですね」
「……あまり深追いすると、火傷じゃ済まないよ。霧島くん」
振り返ると、いつも温厚なはずの渡辺の目が、氷のように冷たく光っていた。彼からは一切の赤い靄が出ない。
ただの忠告。いや、警告だ。
俺の脳裏に、先ほどの近藤の言葉がフラッシュバックする。『前任の秘書は自殺した』。
一兆円企業の死体処理。もし、その秘書が死んでおらず、顔と名前を変えられて、末端の不動産屋の「監視役(店長)」として飼い殺されていたとしたら?
(この男……ただの店長じゃないな)
背筋を冷たい汗が伝う。盤面には、俺の知らない伏線がまだ無数に張り巡らされている。




