第十九話 怪物の懐、絶対者の玉座
氷室常務が地下金庫から連行され、「失脚」が確定した翌日。
神崎コーポレーションの本社ビルは、奇妙なほどの静寂に包まれていた。遠藤に続き、コンプライアンスの要であった氷室までもが消えたというのに、社内には一切の動揺が見られない。
社員たちは皆、見えない恐怖に首輪を繋がれているように、ただ淡々と業務をこなしている。これが、一兆円企業を恐怖で支配する「神崎隆」という男の絶対的な引力だった。
俺は再び、最上階の応接室に呼び出されていた。
「霧島。……お前には、本当に驚かされる」
神崎隆は、窓際で帝都の街を見下ろしながら、ゆっくりと振り返った。その手には、氷室が持ち出そうとしていた無記名債券のファイルが握られている。
「恐縮です、会長。私はただ、会社の膿を出すお手伝いをしたまでです」
俺は深々と頭を下げる。
神崎の口元からは、相変わらず一切の**赤い靄(嘘)**が出ていない。だが、それは氷室のように「事実しか言わない」からではない。神崎隆という男は、自分の発した言葉がたとえどんなデタラメであろうと、それが「世界の真実になる」と本気で信じ込んでいるのだ。絶対的な権力者特有の、狂気に近い自己肯定感。だから靄が出ない。
「氷室は賢すぎた。自分の作ったシステムと論理に溺れ、最後は自滅した。……お前は、どうだ?」
神崎が、ぬらりと光る蛇のような目で俺を見据えた。
「お前は遠藤の武力にも、氷室の論理にも屈しなかった。私の下で、新しい『特別監査室長』として働く気はないか? 報酬は氷室の倍を出そう」
一兆円企業のトップ直属の幹部。底辺の不動産屋のフリーターからすれば、天文学的な大出世だ。
だが、俺の心は氷のように冷え切っていた。これは恩賞ではない。神崎は俺の首に、最も短く、最も頑丈な鎖を巻き付けようとしているのだ。
「……身に余る光栄です。この命、会長のために使わせていただきます」
俺は膝をつき、忠誠を誓った。
「よろしい。まずは、氷室が残した『裏の仕事』の引き継ぎだ。明日の夜、私の私邸へ来い」
神崎の私邸。そこは、警察も検察も手出しできない、完全なアンタッチャブルの聖域だ。
いよいよ、怪物の心臓部へ足を踏み入れる時が来た。




