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第十八話 蜘蛛の糸が絡まる首

「……会長!?」


氷室の顔から、一瞬で血の気が引いた。その手に握られた、500億円相当の手形と債券が詰まったアタッシュケースが、酷く重く、呪われたアイテムのように見えた。

神崎隆の目は、かつて遠藤を切り捨てた時よりもさらに冷たく、底知れぬ怒りを湛えていた。


「氷室。……私の金庫で、泥棒の真似事か。随分と大胆な『特命』があったものだな」


神崎の声は静かだが、地下金庫室の空気を凍らせるのに十分な威圧感があった。私設部隊の男たちが、氷室を取り囲む。


「違います! 誤解です、会長!」

氷室が一歩前に出るが、黒服の男たちが即座に銃のグリップに手をかけた。

「社内の防衛AIが、遠藤の残党と思われる攻撃でロックされ、さらに外部から大規模な空売りが仕掛けられたんです! このままでは我が社の株価が崩壊する……! だから私は、システムが使えない以上、物理的な資金で市場を買い支えようと、緊急避難的に……!」


「黙れ」

神崎が杖で床を激しく叩いた。ゴンッ!という音が、金庫室に反響する。


「お前の口座がシステムロックされた理由は、すでに報告を受けている。追放された遠藤のダミー会社から、お前の隠し口座へ不正な資金が繰り返し流れ込んでいたからだ。AIはそれを『資金洗浄』と判断した。……違うか?」


「そ、それは罠です! 何者かが私を陥れるために、汚れた金を振り込んだんです! 私は一切関知していません!」


氷室は必死に弁明する。当然、彼の口から**赤い靄(嘘)**は出ていない。彼は真実を語っている。俺が仕組んだ「口座汚染」によって嵌められたのだと。

だが、神崎隆にとって、氷室の必死の弁明など「見苦しい言い訳」にしか聞こえない。


「罠だと? 遠藤の不正を最も近くで監視していたコンプライアンスの責任者が、遠藤の資金を自分の口座に受け取っていた。そしてシステムがダウンした直後、こうして地下金庫の500億をカバンに詰め、社内手続きも踏まずに外へ持ち出そうとしている。……この完璧な状況証拠の前で、まだ罠だと言い張るか?」


神崎は氷室の「完璧な論理」を、さらに上の「物理的な事実と状況証拠」で完全に封殺した。

氷室は反論しようと口を開いたが、声が出なかった。彼自身が誰よりも「データと客観的な状況証拠」を信奉する人間だからだ。

今のこの状況を、もし自分が監査する立場なら、どう考えるか? 答えは一つしかない。『氷室常務は、外部ファンドと組んで自社株を暴落させ、どさくさに紛れて大金庫の債券を横領し、高飛びしようとしている』。

自分の論理が、自分を殺しに来ている。氷室は、自らの信じる論理の蜘蛛の糸に絡め取られ、身動きが取れなくなっていた。


「……沢渡」

神崎が、静かに名前を呼んだ。

「お前は氷室の直属だな。何があったか、ありのままに話せ。……嘘を吐けば、どうなるか分かっているな」


全員の視線が、沢渡に集中する。

彼女は氷室の腹心であり、最も優秀な会計士だ。彼女が「氷室常務は本当に会社を救おうとしていた」と証言すれば、まだ風向きは変わるかもしれない。


だが、沢渡の冷徹な頭脳は、この数分間で盤面の「真の支配者」が誰であるかを完全に理解していた。


「……私は」

沢渡が、氷室からスッと視線を外し、神崎隆を見た。

「氷室常務に命じられ、無理やり債券を詰めさせられていました。常務の真の目的が株価の買い支えなのか、ご自身の逃亡資金なのかは……私には分かりかねます。ただ、常務は『システム障害は遠藤のせいにすればいい』と仰っていました」


氷室の目が、絶望に見開かれた。

「沢渡……貴様ッ!! 私はそんなことは言っていない!!」


沢渡の口から、**濃密な赤い靄**が噴き出した。

彼女は氷室が会社のために動いていたことを知っている。だが、彼女は「神崎会長に逆らえば自分も死ぬ。霧島という男のアリバイは完璧だ。氷室常務はもう終わった」という極めて合理的で冷徹な計算に基づき、氷室を切り捨てる『嘘』を選択したのだ。


「……連れて行け。すべて吐かせろ。神崎の金を狙った罰がどれほど重いか、その身に刻んでやる」

神崎が顎でしゃくると、黒服たちが氷室を取り押さえた。

「離せッ! 会長! 私は嵌められたんだ! 遠藤の残党……いや、そこの銀行員だ! こいつがすべての元凶だォォッ!!」


狂乱する氷室の叫び声が、エレベーターの扉が閉まると同時に完全に遮断された。彼は神崎の暗部を知りすぎている。表の警察に渡されることはない。……それがどういう意味か、この世界の住人なら誰でも分かる。


あとに残されたのは、神崎隆と俺、そして沢渡の三人だけ。

神崎が、値踏みするような鋭い視線を俺に向けた。


「霧島、だったな。……お前は遠藤の時も、そして今回も、私の財産が食い荒らされるのを未未然に防いでくれた。ただの銀行員にしては、随分と鼻が利く」


「恐縮です、会長。私はただ、数字と事実を追っただけですので。昨日、常務に遠藤の残党の動きを危惧する報告を入れたのですが……聞き入れていただけず、残念です」

俺は深々と頭を下げた。もちろん、赤い靄は出ない。俺は今、本気で「会長のために尽力した忠臣」の心境を自分に上書きしている。


神崎が去った後、冷たい金庫室に俺と沢渡が残された。

沢渡が、無機質な視線を俺に向けて口を開いた。


「……あなたが仕組んだのね、霧島さん」

「何のことですか?」

「私が氷室常務を裏切る『確率』すら、あなたの計算通りだったんでしょう。恐ろしい人」


俺は答えず、ただ薄く微笑んだ。

論理とデータの権化であった氷室常務は消えた。そして、その氷室の「手足」として機能していた極めて優秀な駒(沢渡)は今、俺という新しい主の恐ろしさを骨の髄まで理解したはずだ。


これで、神崎の右腕(遠藤)と左腕(氷室)をもぎ取った。

残るは、一兆円の怪物──神崎隆の首だけだ。

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