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第十七話 地下数十メートルの聖域

「ついて来い。一秒を争うぞ」


氷室常務の足取りは、いつもの機械的な正確さを失い、焦燥に駆られていた。

俺と沢渡は無言で彼の背中を追い、本社ビルのVIP専用エレベーターに乗り込む。氷室が網膜認証と、首から下げた特殊な物理キーを差し込むと、エレベーターは静かに、そして高速で「地下4階」へと降下を始めた。先ほどまで俺と沢渡がいた監査室よりも、さらに奥深く、厳重に管理されたフロアだ。


「沢渡。大金庫を開けたら、即座に無記名の手形と債券をアタッシュケースに詰めろ。総額で500億だ。これを提携の証券会社に物理的に持ち込み、市場で自社株を買い支える。社内手続きは後回しだ。私が全責任を持つ」

「……承知いたしました」


沢渡の返事は冷静だったが、その瞳の奥には明らかな動揺があった。

無理もない。社内システムがダウンしたからといって、役員が自ら大金庫の現物に手を付けるなど、企業のガバナンスとしては異常事態(ルール違反)の極みだ。だが、小日向が仕掛けた「株価の暴落」という、氷室が最も恐れる数字の暴力が、彼の正常な判断力を奪っていた。


重厚な金属音が響き、エレベーターの扉が開く。

そこは、冷たいコンクリートと分厚い鋼鉄の壁に囲まれた、巨大な金庫室の前だった。ここから先は、さらに神崎隆会長と氷室常務、二人の生体認証が同時に必要となるはずだった。


「AIが凍結されたなら、緊急用の物理モードで開ける」


氷室は金庫の制御パネルのカバーを外し、隠されていた鍵穴に物理キーを差し込み、さらに網膜認証を行う。

システムは『緊急事態:物理認証により開錠』のメッセージを吐き出し、重さ数トンはあろうかというチタン製の扉が、不気味な油圧音を立ててゆっくりと開いた。


中に入った瞬間、俺は息を呑んだ。

山積みにされた現金札束の壁。金塊。そして、ファイルに厳重に保管された無記名債券の束。これこそが、政財界の闇を吸い上げて膨張した「一兆円の怪物」の、物理的な胃袋の中身だ。


「急げ! 沢渡、霧島! 債券を優先しろ!」


氷室の怒号が飛び、沢渡が手際よくファイルをアタッシュケースに詰め始める。

俺もそれを手伝うフリをしながら、視線は金庫の奥にある「黒い革張りのファイル群」に向けられていた。

(……伏線④、端数エラーの痕跡。……いや、今はいい。小日向の仲間(奏)が見つけたバグの痕跡は、氷室を追い詰めるためのフックとして機能した。今は氷室自身を仕留める)


俺はあらかじめ、地下に降りる直前に「一つの仕掛け」を作動させていた。

氷室のシステム権限が完全に隔離される直前の、わずかなタイムラグを利用し、社内ネットワークの遅延実行プログラムを使って、神崎隆会長の直通端末へ「ある匿名メッセージ」が送信されるようセットしておいたのだ。


メッセージの内容は極めてシンプル、かつ遠藤の時と同じロジックだ。

『氷室常務が外部の空売りファンドと結託し、システム障害を偽装。現在、地下大金庫の無記名債券を横領し、海外へ逃亡する準備中』


氷室がパニックになり、システムではなく物理的な金庫へ走る未来。

小日向颯の「結果視」という確定した未来に対し、霧島誠一という詐欺師が「過程」を完璧にハックした。最悪で、最高の罠が、今まさに発動しようとしていた。


「よし、これで500億だ。行くぞ!」

氷室が重いアタッシュケースを掴み、振り返った。


その時だった。

金庫室の外、エレベーターホールに、複数の重い足音が響いた。


「……誰だ? 警備部か!?」

氷室が鋭く声を上げる。


現れたのは警備員ではない。黒塗りのスーツを着た、遠藤を連れ去ったのと同じ、神崎隆の私設部隊。

そしてその中央から、杖をつきながら、冷ややかに氷室を見下ろす老人──神崎隆が現れた。


すべての蜘蛛の糸が、氷室の首に絡まった瞬間だった。

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