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第十六話 自壊する蜘蛛の巣

翌日、午後12時50分。

俺は氷室常務の指示通り、外部との通信が完全に遮断された地下4階の監査室で、沢渡とともに分厚い帳簿と格闘していた。

もちろん、俺のスマートフォンは入り口のロッカーに預けさせられている。時計、財布、ネクタイピンに至るまで金属探知機を通された。完璧なアリバイだ。俺はこの場所で、沢渡という「氷室の目」に見張られながら、物理的に神崎のシステムへ干渉することは不可能な状況にある。


「霧島さん、この項目の計算が合いません。再確認を」

「はい、すぐに見ます」


沢渡の冷徹な声に、俺は従順な銀行員として応える。彼女の口元から赤いもやは出ていない。彼女は純粋に、俺を監視しながら業務をこなしているだけだ。彼女自身も、10分後に起きる破滅を知らない。


時計の針が、13時00分を指した。


その直後だった。

監査室に備え付けられた、めったに鳴ることのない内線電話が、けたたましく静寂を切り裂いた。同時に、沢渡のデスクに置かれたラップトップのモニターに『緊急アラート:レベル5』の赤い文字が狂ったようにフラッシュし始めた。


「……何事ですか?」

沢渡が受話器を取り、数秒言葉を交わした瞬間、彼女の能面のような顔に初めて「驚愕」の色が浮かんだ。


「霧島さん、監査を中断します。すぐに常務の執務室へ! システムに異常事態です!」


最上階の常務執務室に飛び込むと、そこはすでに戦場だった。

氷室常務は、血走った目で複数のモニターを睨みつけていた。完璧にセットされていた銀髪が、無残に乱れている。モニター群には、社内の自動監査AIが吐き出した『内部統制不備:最優先警告』の文字が点滅していた。


「常務! 何が起きたんですか!?」

沢渡の問いに、氷室はギリッと奥歯を鳴らした。


「……私の管理する、全口座が強制凍結された。社内コンプライアンスAIによってだ。理由は……『遠藤の関連口座からの、大規模な不正資金の流入』。送金件数、数万件。金額は1円から100円のランダムだ」


氷室が俺を振り返り、殺意の込もった視線を突き刺す。

「霧島……! 貴様の仕業かッ! 貴様がハッキングを仕掛けたのだろう!」


赤い靄は出ない。彼は本気で俺を疑っている。論理的に、この状況で最も利益を得るのは俺だからだ。

だが、その疑いを完璧に晴らしたのは、俺ではなく沢渡だった。


「常務、お待ちください。それは論理的に不可能です」

沢渡が一歩前に出る。

「霧島さんは今朝からずっと、私と地下4階の、外部と遮断された監査室にいました。通信機器はすべて没収しており、物理的にネットワークへの接続は一切不可能です。彼にこの攻撃はできません」


沢渡の言葉にも、赤い靄はない。事実だからだ。

氷室の表情が凍りつく。絶対的な事実アリバイを突きつけられ、彼の強固な論理構造がショートし始める。システムが使えないなら、霧島にはできない。では、誰が?


「じゃあ……誰がやったというんだ……!」


「常務。先日私が危惧した通りです」

俺は一歩踏み出し、わざと焦燥感を装った声で言った。

「遠藤の残党が動いたんです。彼らは逃げるのではなく、自らの『汚れた資金』をあなたの口座に流し込むことで、あなたを道連れにする自爆テロを仕掛けたんです。彼らは以前から、AIの検知フィルターの死角を利用していた……。その手法を、今回はあなたに向けたんです!」


氷室の瞳孔が揺れた。ハッキングの痕跡はない。確かなのは「遠藤の口座から送金されている」というデータと、「霧島には完璧なアリバイがある」という事実だけ。

彼が信奉する『データと論理』が、「これは遠藤の残党による論理的な攻撃だ」という誤った結論ゴミを、彼自身の脳内に強制的に出力させたのだ。


その時、執務室の巨大なガラス窓の外、向かいのビルの屋上に小さな人影が見えた。

小日向颯だ。

彼は俺たちを見下ろしながら、手元のスマートフォンを操作し、こちらに向けてニヤリと笑った。


(……来るぞ)


直後、氷室のモニターがさらに狂ったように別の警告音を鳴らした。

『外部からの大規模な空売りを検知。神崎コーポレーション株価、マイナス12%へ急落』


小日向の『確定した未来』が炸裂した。

絶対的な資金力を持つ第三者による、容赦のない空売り攻撃。


「馬鹿な……っ! 口座が凍結されて、買い支えの資金が動かせないこのタイミングで、大規模な空売りだと……!?」

氷室の顔から完全に血の気が引いた。自分が作った完璧な防衛AIによって、自分が手足を縛られ、外敵に嬲り殺しにされようとしている。


俺は、とどめの一手を口にした。

「常務! このままでは株価が底を抜け、時価総額が吹き飛びます! システム上の資金が動かせないなら、方法は一つしかありません!」


「……何だ」


「物理的に、本社地下の『大金庫』を開け、現金と無記名債券で市場に介入するしかありません! 常務のマスターキーなら、金庫は開くはずだ!」


氷室がハッと顔を上げる。

一兆円の怪物の、最も分厚い装甲に守られた心臓部。

俺は今、論理を失った相手自身の口から、その「鍵」を開けさせることに成功したのだ。

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