第十一話 常務の影
遠藤忠雄の「失踪」から一週間が経過した。
表向きには、遠藤は「一身上の都合による急な退職」として処理されていた。あれだけの権力を握っていた男が、たった一夜で会社から完全に消し去られる。時価総額一兆円を誇る神崎コーポレーションの、圧倒的で暴力的な揉み消し力だった。
その日、俺は神崎コーポレーションの本社ビル、最上階の応接室に呼び出されていた。
座り心地の良すぎる分厚い革張りのソファ。目の前には、遠藤を冷酷に葬った張本人である会長・神崎隆が、葉巻を燻らせながら座っている。
「霧島くん。君の帝都銀行での立場は、すでに私が銀行の上層部と『調整』をつけておいた。当面の間、君には私の特命監査員として、我が社の内部調査に動いてもらう」
神崎の口元からは、赤い靄は出ていない。
彼の中で、俺は遠藤のクーデターを未然に防ぎ、神崎の財産を守った「優秀で忠実な外部エージェント」だと完全に信じ切っている。命がけのコンゲームを仕掛けた甲斐があった。ここまでは、俺の描いたシナリオ通りだ。
「光栄です、会長。全力を尽くします」
俺は立ち上がり、深々と頭を下げた。
「だが、君を直接私の直属にするわけにはいかない。巨大な組織には、社内のバランスというものがあってね。君には、私の右腕である『氷室常務』の下についてもらう」
氷室常務。
その名前が出た瞬間、空調の効いた応接室の空気が、さらに一段冷たくなったような錯覚を覚えた。
「氷室は、我が社の財務と法務、コンプライアンスのすべてを握っている男だ。遠藤のような粗暴な力技は使わないが、その分、少し……神経質なところがあってね。君も粗相のないようにしたまえ」
数日後。俺は神崎コーポレーションの役員フロアで、氷室常務と初めて対面していた。
広い執務室には余計な装飾が一切なく、複数の巨大なモニターが壁面を覆い、株価や為替、社内の資金流動のデータが滝のように流れ続けている。
その中央のデスクに座る氷室は、銀縁の眼鏡の奥に、まるで爬虫類のように感情が抜け落ちた瞳を宿していた。年齢は40代後半だろうか。髪は一糸乱れず撫でつけられている。
「霧島誠一くん、ですね」
氷室の声は、抑揚がなく、ひどく静かで無機質だった。
「会長からは、遠藤の不正を暴いた優秀なエージェントだと聞いています。しかし、私は人間の言葉や感情という不確かなものを一切信用しません。私が信用するのは、数字とデータという『絶対的な事実』のみです。あなたが本当に我が社にとって有益か……私の目で、見極めさせてもらいますよ」
氷室の口元を凝視する。だが、靄は出ない。
これは彼が俺を信じているからではない。氷室という男は「事実しか口にしない」のだ。嘘をつかない人間に対して、俺の能力は全くの無力となる。
彼の視線の鋭さは、遠藤の比ではなかった。俺の細胞の隅々まで解剖し、不純物がないかを確認しようとするような、不気味なほどの観察眼。
「……お手柔らかにお願いします、常務」
小日向颯が言っていた「もっと陰湿で、論理的」という言葉の意味が、痛いほど理解できた。
遠藤が腕力でねじ伏せる武闘派なら、氷室は決して自らは動かず、緻密な蜘蛛の巣に獲物を絡め取り、論理の力でじわじわと血をすするタイプだ。
復讐の第二幕。相手にとって不足はない。




