第27話『水無月瞳子の慟哭』
瞳子は一瞬だけ息を止めた。
個人的には何の問題もないネームと思えた。問題点を見落としていたなら、チェック担当として役割を果たせなかったことになってしまう。
「ええと、どのあたりが問題でしたか?」
問いながら日果が画面共有で原稿データを表示させた。
瞳子も改めてその内容に目を走らせる。
時系列は前回のエピソードの直後。合成食糧が隠されていた軍施設をさらに探索し、ユキホたちは石鹸等の衛生物資も入手する。それを機にユキホは、クーナに手洗いの習慣を教えようとする。
生物兵器である『餓鬼』は痛覚への耐性が強い。しかしそれは、病気になっても自覚症状に乏しいということでもある。『復讐を果たす前にクーナが病死』などという事態を避けるためにも、予防的な対策はできるだけやっておきたい――というユキホの判断だった。
しかし大雑把なクーナは食事のたびに手洗いすることを面倒臭がる。
そこでユキホは石鹸でシャボン玉を作ってみせ、楽しそうに遊ぶフリをしてみせる。興味をそそられたクーナはその真似をして遊び、『手洗いの際はシャボン玉遊びをしてもよい』というユキホの口車に乗せられて手洗いの習慣を身に着ける。
思惑通りに事を運んだユキホだが、後片付けの最中に物憂げな表情で「無駄遣いしちゃったな」と一人呟く。
回想するのは、クーナの気を惹くために『楽しそうなフリをして』シャボン玉を作っていた自分の姿。
すり減った石鹸を前にユキホは「使いすぎだ、馬鹿」と唇を固く結ぶ。
――というのが今回の内容となっている。
「話の意図は分かりますし、方向性は間違っていないと思います。しかし、これまでの作風と合っていないんです」
「作風?」
米原さんからの指摘に、瞳子と日果はモニターの中でほぼ同時に首を傾げた。
「はい。今回は日常の些細な出来事を通じて、ユキホの心に変化が生じるという内容ですよね?」
狙いはまさにその通りだ。今度は二人揃って頷く。
「こうした日常パートの中で心の変遷を描く――というのは王道ではあるんですが、イベント的な派手さに欠ける分、より緻密な心情描写が必要になります。それこそ読者を作品の中に引きずり込むような。ただ、大淀さんの作品はそういうタイプとは違うように私は捉えています」
日果はきょとんとしていた。しかし瞳子の方は、悔しながら言わんとするところが腑に落ちた。
「あー……そうですね。この作品って確かに『繊細な心情描写』に強みのある作品ではないですね……」
もともと日果はこの作品をコメディとして描いた。しかし読者からは、悲劇的な百合作品として解釈された。
つまり――そんな誤読を招いてしまうほどには、心情描写が淡泊なのだ。
もちろん心情描写がないわけではない。ユキホは復讐心を燃やしているし、クーナは無邪気によく笑う。ただ、その感情の描き方はごくシンプルだ。よく言えば癖がなく、悪く言えば捻りがない。
「ええ、そうです。現時点でこの作品は、心情描写が淡々としているからこそ読者の想像を引き立てる『引き算』的な魅せ方で成り立っています。ですが、日常パートでの心の接近は『足し算』的な情緒の情報量が必要となるんです」
米原さんの指摘に日果はしばらく困惑していたが、やがて控えめにこう尋ねた。
「情緒の情報量っていうのは……三葉先生が前に言ってた『潰れたホースがエロい』っていう感じの?」
「……そうですね。あの人は典型的な『足し算』の作風といえるでしょう」
「じゃあ、今からそれを参考にして情報量を増やせば――」
「いえ。ここまで『引き算』の作風で進行してきているので、いきなり情報量を増やすというのはおすすめできません。単に『間延びしてテンポが悪くなった』と思われてしまうおそれがあります」
とはいえ、と米原さんが言葉を繋ぐ。
「大それた事件を経て二人が急接近するのではなく、日常の中で少しずつ心の距離を縮めていく――という方針はとてもよいと思います。ただし『情緒の情報量』での正面突破は難しいので、日常回でも何かイベントを盛り込んでストーリーに起伏を付けるべきかと」
要するに、日果の作風だと『何気ない日常回』が『ただの退屈で平坦な話』になりかねないということだ。そうならないためには、ストーリーをもっと一工夫すべきと。
言われてみると納得しかない。これは素直に瞳子の失策だ。
日常パートを彩り豊かに描いた百合作品を多く知っているからこそ、話の構成に違和感を抱かなかった。今回のネームは『百合作品』としてはアリでも、『大淀日果の作品』としては不適切だったのだ。
「ごめん日果。私がもっと早く気付くべきだった」
「でも、水無月さんはこれを面白いって言ってくれたよね?」
「それは……私がキャラに肩入れしすぎちゃってたんだと思う。感情描写が足りなくても、二人の心情を勝手に想像してエモい気分になってた」
瞳子はある意味で原作の日果よりも登場人物の心情を考えていた立場だ。それゆえに作中で『情緒の情報量』が不足していても、自分の脳内でいくらでも補完することができたのだ。
「そっか……。分かりました米原さん。もう一度ネームの中身を考え直してみます」
「ええ。また相談が必要になればいつでも仰ってください。それでは、お疲れ様でした」
リモート会議から米原さんが退出する。同時に瞳子は額を押さえて項垂れた。
これがいわゆるボツというものか。瞳子は自分で描いたわけでもないのにひどく辛い気分だった。これなら日果はもっと辛いだろう。
こうなったのは自分が不甲斐なかったせいだ。純粋な読者の立場で作品を批評できていたらこんなことには――
「んふふ」
モニターの向こうから妙に上機嫌そうな声がした。
声に向けば、日果がニコニコとこちらを眺めていた。
「……え、何。なんで嬉しそうなの? ボツだったのに」
「なんだか水無月さんがミスした理由を聞いたら嬉しさの方が勝っちゃって。そっか、ユキホとクーナのこと、そんなに好きになってくれてたんだ」
「そりゃ……当たり前でしょ。これだけ一緒に作業してきたんだから」
日果が小躍りするように椅子の上で身体を揺らした。
「そうだよねっ。私たちにとっては可愛い子供みたいなものだもんっ!」
その言葉を聞いた瞬間、瞳子の脳内で以下のような補完が発生した。
『私たちにとっては子供みたいなもの』⇒『私たちの子供』⇒『つまり私たちは……』
「それじゃ水無月さん。このテンションのままネームの修正アイデア出しに付き合ってもらってもいいかな?」
「いいけどその前にちょっとトイレ」
そう言って瞳子はリモート会議のカメラとマイクを一旦オフにした。
そして自分のベッドに飛び込み、顔面に枕を強く強く強く押し付けて、
「ムグァァァァァアアア――――――――――ッッ!!!!!!!!」
煩悩をすべて叫びに変換して、口から盛大に放出した。
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