第21話『ハッピーエンドはまだ遠く』
「あのね水無月さん……」
「うん。言いたいことは分かる」
持ち込みを終え、帰りの電車を待つ駅のホーム。
ベンチに並んで座りながら、瞳子たちは半ば放心状態で宙を見つめていた。
「なんだか、思った以上にあっさり担当付いてくれたね……」
「いや、よく考えてみれば当然なんだけどね。あなたの無茶に合わせてスケジュール空けてくれたくらいだから、相当気に入ってくれてたんだろうし」
というか、今にして思えば何をあれだけ気を揉んでいたのだろうと瞳子は思う。
どんな制作背景があろうと、日果の漫画は間違いなく面白かったのだ。しかもまだ現役の高校生という伸びしろありまくりな年頃である。これで唾を付けない編集者などいるわけがない。
『お二人の共同制作で上手く回っているのなら、こちらから敢えてそれを止める理由はありません。学業を優先しつつ連載を続けていただき――いずれ本腰を入れて商業の道を目指す際は、ぜひ当社を御贔屓に』
そんな調子で、米原さんという編集者はごく普通に名刺を差し出してくれた。
もちろん、原稿を読み込んだ上での専門的なアドバイスはいくつもあった。紙媒体を目指す上でのコマ割のコツとか。背景の効果的な練習法とか。物語構成を学ぶ上で見ておくべき映画タイトルとか。しかしそれらは『より高みを目指すため』の助言で、危惧していたような門前払いという扱いにはならなかった。
さらに、ネットでバズった漫画は『話題になっているうちが華』という現実もあるので、商業化を急かされるかとも思ったが――日果が現役の学生ということを考慮して『まずは自分のペースで基礎固めを』と焦らない姿勢を示してくれた。
おそらく、いい編集さんに巡り合えたと思う。
駅のベンチで大いに伸びをした瞳子は、半笑いで日果に問いかける。
「じゃ、今後はどうしよっか? これで私はお役御免でもいいわけだけど?」
「え。そんなのヤダ」
日果が瞳子の肩をぎゅっと掴む。
「これからも一緒にやっていくんだよね? 楽しかったんだよね? 水無月さんがいないと私困っちゃうよ」
「いや、嘘嘘。冗談だって。これからも付き合うってば」
「本当?」
「本当」
互いに腹を晒し合った上での軽い冗談のつもりだったのだが、日果にはそんな冗談が通じなかったらしい。わりと深刻そうな顔で瞳子に縋ってくる。
――いかん。グッときてしまう。
なんだろう、こう、なんだろう。
分かっている早まるな。これは創作上、こちらの百合知見が必要とされているだけだ。しかしそれはそうと、小さくて可愛い女の子がうるうるした瞳でこちらを必要としてくる。このシチュエーションだけで十二分に滾ってしまう。
瞳子は思う。もしかしたら自分はチョロいのかもしれない。しかしもうチョロくてもいいのではないか。
だって、もう分かったのだ。
大淀日果はサイコパスではあっても、他人の笑顔を願うことのできる善良な存在であると。ならば何も警戒する必要はない。友達として胸襟を開いて接しよう。
「大淀さん。えっと……これからは下の名前で呼んでもいい?」
「え、別にいいけど。どうして?」
「今後も一緒にやっていくわけだし、苗字呼びだと他人行儀でしょ?」
ホームの電光掲示板に視線を逸らしつつ瞳子は頬を赤らめる。
うん、このくらいの距離の詰め方は健全な友人関係の範疇だ。何も問題はない。
「そっか。でも私、水無月さんの苗字かっこよくて好きなんだ。これからも『水無月さん』って呼んでいい?」
「まあ、それは好きにどうぞ」
そこまで水無月姓がお気に入りならお前も同じ苗字にしてやろうか――という、我ながらキモい冗談を思い付いてしまったが、さすがに一線を越えていると判断して自重。
「……日果、うん。日果ってさ、いつごろから漫画描き始めたの?」
とりあえず、日果と呼んでみたくて他愛ない質問を放つ。自分の髪の毛先を指でくるくると弄りながら。
「絵を始めたのは幼稚園の頃かな。明確に漫画を描こうって思ったのは10歳くらいの頃だと思う」
「ずいぶん早かったのね。何かきっかけとか?」
「幼稚園のころ、あちこちにウンチの落書きをして人気者だった時期があったんだ。『ウンチ大王日果ちゃん』って呼ばれて、もう行く先々で爆笑の渦を取ってたの」
あまりにしょうもなさすぎる過去エピソードに瞳子はがくりと項垂れる。
そういえばカラオケのときもおち〇ちんがどうのと言っていた。下ネタのレベルが著しく低い。
「私のお絵かきでみんなが笑ってくれるの、本当に楽しかったんだよ」
だが、続く言葉を聞いたら何だかくすりと温かい笑いが漏れた。ちょっと変な子ではあるが、この子は今も昔も変わらずそんな優しい心持ちの――
「いいよね。人が笑ってくれるのって、なんだかドミノ倒しみたいな気持ちよさがあるよね」
「……ドミノ倒し?」
急に挙げられたよく分からない比喩に、瞳子はつい首を傾げた。
日果が意味不明な喩えをするのは今に始まったことではないが、今回はまた一段とピンと来ない。
「ドミノ倒しのイベントみたいに賑やかで楽しいってこと?」
「賑やかとかそういうのじゃなくて。ほら、ドミノって小さな指の一押しからどんどん規模が大きくなっていくよね。ああいう楽しさ」
「んん……? いわゆる『笑顔の輪が広がる』的な?」
「うーん……なんて言えばいいのかな。あっ」
日果がふと腕を上げて何かを指差した。指の先にいるのは――ホームの隅をテクテクと歩いている鳩だ。
「そうだ、もっと分かりやすく喩えるね。公園とかによく鳩が集まってたりするでしょ?」
「うん」
「人が近寄るとバサバサって一斉に飛び立ったりするよね?」
「うん」
「そういう感じの楽しさ」
「……うん?」
瞳子は一抹の不安を覚えた。
他人が笑っていると楽しい。それは一見、利他的で善良な嗜好と思える。
ただ――何か様子がおかしい。笑っている他者を『ドミノ』とか『鳩』などと喩えるあたりに、どこか他者との隔絶した距離感が窺える。
「他にいい喩えはあるかなあ。バタフライエフェクトとまでは言わないけど、小さな動きがきっかけで大きな何かに繋がるような……」
「あのさ」
瞳子は息を整えながら静かに尋ねる。厳かに人差し指を立てて。
「もしかしてだけどさ……その楽しさって『池に餌を撒いたら鯉がたくさん群がってくる』とかも該当する?」
「おおっ! さすがは解釈上手の水無月さん! そうそうまさにそんな感じ!」
だいたい分かった。
たぶん、こいつは純粋に他者の笑顔を楽しんでいるのではない。『大勢の他者の感情を操っている』というシチュエーションに喜びを感じているのだ。
「あ、はは……」
瞳子はただ、引き攣った笑いを漏らすしかなかった。
まずいかもしれない。悔しながら認めるが、今の瞳子は少しばかり日果へと心が揺らいでいる。完落ちを十割とするなら現状三割ほどか。
(もしも、この子に好意がバレたら……)
もしも推測どおり、日果の嗜好の本質が『他人の感情をコントロールすること』にあるのだとしたら――
己に好意を向けてくる相手なんて、感情を操り放題のカモでしかあるまい。
(ぜ、絶対にバレたらいけないっ!)
友達として胸襟を開くなんてとんでもなかった。警戒心を維持せねば。
日果が悪意をもって瞳子に何かしてくるとは思えないが、そのズレた感性で『面白いと思って』こちらの情緒をめちゃくちゃにしてくるかもしれない。
(で、でもっ。もしバレたら、どんなことしてくるんだろ……?)
ほんの少しだけウズウズしてしまった瞳子は、即座に己の脇腹へ拳を捻じ込んだ。
本日二発目の拳が、いい感じに邪念を吹き飛ばしてくれた。
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