第20話『行きつく先を見定めて』
逃げるだけが目的なら、そのまま駅に駆け込んで家に帰ってもよかったはずだ。
ただ、瞳子の足は自然と出版社の方へ向かっていた。『言い忘れてたことがある』というのは嘘ではなかったからだ。
「――大淀さんっ!」
幸い、日果は横断歩道の信号待ちに引っかかっていて、すぐ追いつくことができた。
「あれっ。どうしたの水無月さん?」
きょとんとした顔で日果が振り返る。
三葉先生との遭遇で忘れていたが、言っておくべきことがあったのだ。
「今度、サインちょうだい」
「サイン? 何かの伝票?」
「そうじゃなくて。漫画家としてのあなたのサイン」
「えっ、そんな。まだ趣味で描いてるだけなのにサインとか大袈裟で恥ずかしいというか」
「ううん。大袈裟でもないし恥ずかしくもない。少なくとも私にとって、あなたの漫画はそのくらい大したものだったの」
この子は、およそ他人の心情を察することができない。
それならちゃんと言葉で言わなければ。意地を張ったり照れたりせずに、ありのままの本音をまっすぐに。
「だからさ。今日で最後なんてやっぱナシ。もし担当編集さんが付いても、アドバイスが必要なくなっても。これまでみたいに漫画の話しようよ。友達として」
信号が青になった。待っていた歩行者たちが動き出し、ぞろぞろと横断歩道を埋めていく。だが、日果はその場から一歩も動かずに、目を丸くして瞳子を見つめていた。
「水無月さん、漫画の話をするのは嫌じゃなかったの?」
「嫌じゃない。本当はすごく楽しかった。これまで邪険にしててごめん」
「え、邪険にされてたの私?」
「ほら、学校であんまり話しかけるなとか」
「それは水無月さんの百合好き趣味を隠すためだったから仕方ないんじゃ?」
「……それは、うん、そうだったけど。やりすぎだったと思う。これからは普通に話しかけてくれていいから」
そこまで言い切ると、なんだか瞳子は無性に気恥ずかしくなった。
こんな風にダイレクトで言うのはやっぱり性に合わない。できれば察して欲しいが、残念ながら日果にそれは期待できない。
「じゃあ水無月さん」
「びゃっ!」
いきなり日果が手を握ってきたので、瞳子は動揺のあまり変な声を出した。
「一緒に行こ。やっぱり今の作品が描けてるのは水無月さんのおかげだから、そこも含めて説明したいんだ」
「いや、でも。ただのクラスメイトがどんな顔で……」
「そっか……じゃあ残念だけど、三葉先生と一緒にカフェで待っててもらっていいかな」
「行く。一緒に行く。早く行こう」
握られた手を今度はこっちから強く握り返して、日果を引っ張るように横断歩道へと歩み出す。途中で点滅が始まったので、並んで少し駆け足になって。
「三葉先生にはそっちからDMしといて。『お忙しい作業時間を割いてもらうわけにはいかないので、後の会合は遠慮させていただきます』って」
「了解っ。と、そうだ水無月さん」
「何?」
日果はにっこりと嬉しそうに笑った。
「サイン欲しいって言ってたよね。どんな絵がいい? 全力で描いちゃう!」
―――――――……
持ち込み直前に最強の助っ人を得て、私の心は無敵そのものだった。
「ようこそいらっしゃいました。大淀日果さんですね。本日、原稿を拝見させていただきます、コミック編集部の米原と申します」
「どうも、【クレンザー祭】こと大淀日果です」
冬桜出版の社屋に入って受付カウンターに向かうと、受付の人がすぐに編集部へ連絡して持ち込み担当の編集さんを呼び出してくれた。
有識者の水無月さん曰く、この米原さんという女性編集者さんは『私の心を二度も殺すな』の担当編集さんでもあるのだという。
年齢はおおよそ40代半ばくらいだろうか。眼鏡をかけた穏やかそうな顔つきで、もし学校の先生にいたら、うっかり「お母さん」とか呼んでしまいそうになるタイプの人だ。
と、そこで私は挨拶よりも先に素朴な疑問を放ってしまった。
「あの。ぜひお尋ねしたいんですが、三葉わん先生は大丈夫でしょうか?」
「はい?」
「ついさっきそこのカフェで会ったんですが、すごく多忙でお仕事用の服を着替える暇もないと……」
「――――――大丈夫ですよ。あの先生はいつも締め切り一週間前には原稿を提出する速筆っぷりですから」
なんだか妙に長い沈黙の後、眼鏡をくいっと直しながら米原さんはそう言った。どういうことだろうか。言い分に矛盾が生じている。難解な事態に首を捻る私だが、
「コラ。そんなことよりまず最初に」
「あ、そっか。すいませんでした米原さん。お忙しい中、無理を言って今日に合わせていただいて。本当にありがとうございます」
「いえ。学生さんはスケジュール調整も大変でしょうからね」
水無月さんに急かされて謝ったところ、米原さんは優しく許してくれた。
ほっとした私は水無月さんの肩を持って前に出す。
「それから当日いきなりで申し訳ないんですが、この水無月さんも持ち込みに同席させてもらっていいですか? 『餓鬼は糖なく生きられない』にいろいろアドバイスをしてくれてる友達なんです」
「原作担当ということですか?」
「作画も原作も私ですけど、水無月さんがいないとあれこれ難しくて」
「ええと……キャラの造形とか、ストーリー展開の相談とか、そういうところで微力ながらお手伝いしています」
水無月さんが恐縮した感じで頭を下げた。あんなに百合について詳しいのだからもっと堂々とすればいいのに。なんだか借りてきた猫のようでちょっと可愛い。
「構いませんよ。では、打ち合わせ用のブースがありますのでご案内します」
米原さんの先導に従い、フロア奥のエレベーターに乗り込む。
押されたボタンは四階。降りるとそこは、冬桜出版の刊行物がずらりと壁際に並んだカフェテリア的なスペースだった。
日曜日なのに編集者さんも作家さんらしき人もそれなりにいて、あちこちで専門的な議論が飛び交っている。水無月さんはただ興奮気味に「おお……!」と圧倒されていた。
「せっかくなので景色のいい窓側にしましょうか」
促されるまま窓際のテーブルに就くと、一度奥に引っ込んだ米原さんがペットボトルのお茶を二人分持ってきてくれた。
「ありがとうございますっ!」
「すいません。私の分まで……」
「いえいえ、当社を選んで作品を持ち込んでくださったのですから。お礼を言うのはこちらの方です」
私はリュックを開き、机の上に赤入れのカンペ原稿を積む。本当にこれだけで適切に対応できるか実はだいぶ不安だったが、もう何も心配はない。困ったら隣の水無月さんが助けてくれる。どんと行こう。矢でも鉄砲でも持って来い。
米原さんはタブレット端末をテーブルに置き、私が事前にデータ提出をしていた『餓鬼は糖なく生きられない』の原稿を表示させた。
「既に原稿は拝読しております。率直に言いまして、高校生の段階としては非常にハイレベルかと思います。細かい技術面における改善の余地は大きいですが、エンタメとしての完成度は商業レベルに近いかと」
とはいえ、と米原さんは誉め言葉をそこで区切った。
「大淀さんがアカウント上で公開している作品は現在これ一作ですよね。過去作品などはありますか?」
「ええと、出来がいまいちだったので現在は削除しています」
「つまり納得できる完成度の完結作品はなく、自信をもって公開できる作品は本作が初めてということですね?」
「はいっ!」
かなり厳しめの質問ではあるが、私は迷わず頷く。
水無月さんから事前の想定問答で言われていたのだ。これが実質的な処女作であることを詰められようが、しっかり胸を張れと。それだけ面白いのだからと。
「なるほど。では――この『餓鬼は糖なく生きられない』を、どう完結させるかのアイデアは既に考えていますか?」
ここは本来『俺たちの戦いはこれからだエンド』として、結論を保留する予定だった。
だが、今は違う。まだどうやってストーリーを描けばいいかも分からない。これからユキホとクーナがどんな道を歩むか想像もできない。
だけど、到達点だけはもう心に決めたのだ。
水無月さんがリクエストしてくれたサインの絵面。それはきっと私にとっても『描きたいもの』で、三葉先生が言っていた作家性というものに他ならないだろうから。
だから、描ききれる保証もないのに、具体的なプロットなんて何一つないのに、水無月さんと目を交わし合ってから――こう宣言してみせた。
「ユキホとクーナが仲良く笑いあっているような、そんなハッピーエンドです」
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