第9話『キャラへの感情移入』
漫画の構成はネームで確定する。
その後の作画作業の第一段階となるのが下描きである。漫画家によってはネーム段階で完成稿にも匹敵するほど詳細に描き込む人もいるそうだが、私はだいぶいい加減な方だ。人物はほぼ顔に十字線が引かれただけののっぺらぼうで、その脇に『※怒』とか『※悲』とか表情の補足情報を文字で付け足してある。
背景もざっくりと範囲を丸で囲んで『このへんに瓦礫の山』などと書いている。
それをある程度、ラフながらもイラストのみで表情や状況が分かるような形で描写していく。それがいわゆる『下描き』作業だ。
「『やっていくよ』って……これ、もうだいぶ進んでない?」
「水無月さんのアドバイスなしに進められるところは先に埋めちゃおうと思って」
といっても、背景はまだほとんど手つかずのままだ。
ネームをベースにコマ割りを清書し、台詞の吹き出しを配置し、人物の輪郭を定めただけである。そう、輪郭だけで――顔はまだのっぺらぼうのままとなっている。
「今日はね、前にも言ったけどキャラの『表情』をどうすればいいか中心に相談したいんだ」
私はこの作品をギャグ漫画として描いた。だが、多くの読者はそうと受け取っていなかった。ならば、私の解釈のもとに二人の表情を描いては、読者にとって重大な解釈違いとなるかもしれない。
そこを百合の有識者である水無月さんに監修してもらおうという計画だ。
「まず前提として言わせてもらうけど、これまでの話で描かれた表情に私としては違和感がなかった」
水無月さんは念を押すようにスピーカーの向こうで言った。
「クーナはいつもニコニコ笑ってるけど、笑うべきでない状況でも無邪気に笑ってるから得体の知れない不気味さがある。ユキホも普段は優しい顔でご飯を作ってるけど、一人になったときにふと物憂げな表情を浮かべてる。この方向性を今後も維持すればあんまり問題はないと思うけど」
んん、と私は唸る。
確かにこれまで大筋ではそういう表情を描いてきているのだが、若干ニュアンスが異なるのだ。
「まずクーナだけど、そんなに不気味かなあ。個人的には『いつも奔放自由な愉快キャラがたまにバイオレンス』っていうのがギャップ面白いと思ったんだけど」
「残念だけどギャグとしては失敗してて、代わりに危うい不穏描写として成功してる。そして、その危うさがちょっとだけ覆るのが今回のエピソードだと思う」
水無月さんはちょっと上機嫌そうに声を高めた。
「百合界隈の一部には、ユキホとクーナがもう惹かれ合ってると早とちりしてる層もいるけど、実際はまだ双方ともに本心を晒してない状況だったでしょ? それが今回の話で、クーナは『確実に延命できる合成食糧よりも大事な存在』っていう認識をユキホに示した。不気味さの奥に人間性が垣間見えて、ぐっとキャラの魅力が上がったわ」
そう褒めてもらえると素直に嬉しい。
当初想定していた『バイオレンス奔放愉快キャラ』を百合方面にじわっと軌道修正しようと試みたエピソードなのだが、それが心情の変遷過程として好意的に捉えてもらえたらしい。
「それなら、次はユキホについてだけど。そんなに『物憂げな表情』とか浮かべてるかな?」
「え、浮かべてるでしょ何度も。復讐に対する葛藤とか、そういう感じの顔を――」
「ああ、あれ普通に疲れてるだけ。だってユキホ、一日に五~六回は食事作ってるから。いっつもクタクタなの」
「は?」
「ユキホは復讐に一度も葛藤とかしたことないよ。『今日も復讐頑張るぞ!』って前向きにノリノリ。その結果としてクーナに美味しい思いをさせて、自分はクタクタに疲れちゃうんだから、ポンコツで可愛いよね?」
「あなたって……」
スピーカーの向こうで深く溜息をつく音がした。
「つまり、これまで私たち読者が『ユキホの物憂げな顔』として見てきたのは、単なる身体的な疲労ってこと……?」
「うん。復讐対象のクーナの前では脳にドーパミンが溢れて『やってやるぞ~!』とテンション上がってるから誤魔化せてるんだけど、一人になるとエネルギーが切れちゃって疲れが一気にくるの。ちょうど昨日の徹夜明けの私みたいな」
「そんな最悪な原作者コメンタリー、聞きたくなかった……」
水無月さんにとっては解釈違いのようだが、私はいまいち納得がいかない。
「ねえ水無月さん。質問」
「何?」
「クーナがユキホのことを好きな理由は、この前聞いて分かったんだ。温かいご飯を作ってくれる人は、それだけ大事なんだって。でも――どうしてユキホはクーナのことを好きになれるの? 憎い生物兵器で、毎日ヘトヘトになるまで面倒を見なきゃいけない。そんな子を好きになる理由なんてなくない?」
初会話時の水無月さん曰く、この作品は「二人の少女の間に芽生える愛」がテーマとのことだった。(原作者の私は知らないテーマだったが)
クーナからユキホへの矢印は分かった。ご飯を作ってくれる人は大事だと。
しかし、その逆の矢印が分からない。クーナと出会って、ユキホが得たメリットは何もないように思う。
「あのね」
コツコツと机を指で叩く音。
「毎日ご飯を美味しそうに平らげて、満面の笑みで『ありがとう!』って言ってくれる子を見てたら、絆されたって仕方ないでしょ」
「え、ユキホってそんなにチョロいの?」
「チョロいって……言い方」
がしがしと髪を掻く音がした。
「必要としてくれて、感謝の念を抱いてくれて、懐いてくれる。人間っていうのは、そういう存在をいつまでも恨んだり憎めるようにできてないの。鏡写しにだんだん好意を抱くものなの」
「そのくらいで好きになっちゃうなら、やっぱりユキホはチョロい子では?」
「それをチョロいと言うなら好きに言いなさい。でも、私たち百合好き読者が求めているのは、そういう心の触れ合いで――」
「私、水無月さんにすごく感謝してるし必要な人だと思ってるよ」
どうしても釈然としなかったので反論を試みると、水無月さんの声がぴたりと止まった。
「でも、別に今この状況は百合でも何でもないわけで。それならその程度で百合的な感情を抱いてしまうユキホは異様にチョロいんじゃないかな」
「…………創作と現実では話が違うから」
「だとしても、感情にリアリティは持たせたいよね」
十秒以上の無言が続いた。
通信でも切れたのかと不安になった頃、水無月さんが重々しくこう言った。
「前言撤回。ユキホはそんなにチョロくない」
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