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泥濘(でいねい)のレクイエム ―英雄の残火と、つぎはぎの神魔―  作者: 堀吉 蔵人
第2部

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第99話:半歩外の給仕、呼ばない水差し 【ミナ】

いつもお読みいただきありがとうございます。感想お待ちしています!

人が目を覚ました直後、侍女が最初に警戒するのは、たいてい熱ではありません。


問いかけです。


分かりますか。

痛みますか。

覚えていらっしゃいますか。

わたくしが誰だか。


どれも親切そうに聞こえるくせに、起き抜けの身体へは重すぎる。

寝台の上の人間は、まず息を整え、水を欲しがり、自分の手足がまだ自分のものかを確かめるだけで精一杯なのです。

そこへ名や記憶や感情の答え合わせを持ち込めば、たちまち疲れきってしまう。


それが、熱にうかされた主人ならなおさら。

そして今、伏せ床の上で金の目だけを先に開いているあの子は、普通の熱よりずっと繊細でした。


名を呼べば偏る。

見つめれば決まる。

抱けば寄る。


ここまで来るまでに、それを嫌というほど学ばされたではありませんか。


ですから、ラザルが白布の向こうの若い兵へ `外を見ろ` と怒鳴り、カイルが自分の `左` を `名前のない棚` として引き受け直したあと、わたくしが次に考えたのは、ごく当たり前のことでした。


次は、水ですわね。


喉が乾く。

舌が張りつく。

身体が起ききらないまま目だけ先に開けば、まずそこから苦しくなる。

しかも今のあの子は、`金の目` が前へ出ていても、内側にはまだ二人ぶんの悲しみとやさしい数えを抱えている。

つらいと訴えるにも、一語が重い。

だからこちらが先回りして、`欲しければ取れる` だけの形を作らなければなりません。


けれど、飲ませるのは駄目でした。


侍女が主へ水差しを傾けるのは、ふつうなら当たり前の務めです。

寝台へ片膝をつき、首の後ろへ手を入れ、冷やしすぎない角度で一口だけ含ませる。

咳き込んだら布を当てる。

目を閉じたままでも飲めるよう支える。

その一連の所作は、わたくしの身体に染みついています。


ですが今ここでそれをやれば、`侍女が世話をした主` という形が一気に出来上がってしまう。

それは便利で、甘くて、ひどく危険です。

お嬢様を取り戻したかったわたくしが、一番やりたくて、一番やってはならないことでした。


わたくしは袖の内で、白百合めいた欠片を強く握りました。

すぐに熱が返ってくる。

嫌になるほど正直です。

この欠片は、わたくしが `お嬢様` へ近づきたがる時ほど、よく応じる。

追跡の針であると同時に、執着の針でもある。


今は役に立たない。

いいえ、役に立ちすぎるから駄目なのです。


わたくしは白布の影で膝をついたまま、欠片を掌から離し、腰帯のいちばん奥へ押し込みました。

手放しはしない。

けれど、いまのわたくしの脈に近づけてもいけない。

侍女が寝所の鍵を一時的に戸棚の奥へやるみたいに、使わない位置へ退かせる。


「セト」


低く呼ぶと、坊やは観測石から目を離さずに「何」と答えました。

相変わらず可愛げがありません。

ですが今は、その可愛げのなさに救われます。

変に察しのいい子供ほど、感情の方へ寄りすぎると面倒ですから。


「水は」

「ある」

「冷えすぎていないものを」


セトの目が一瞬だけこちらへ寄る。

すぐに意味を読んだのでしょう。


「リノ」

彼は振り向きもせず呼んだ。

「袋、いちばん普通のやつ」


普通のやつ。

なんてよい言い方でしょう。

聖水でも薬湯でもない。

ただの水。

それだけで、この場の空気が少しだけ楽になる。


リノが腰の袋から小さめの水袋を抜きました。

彼女は空気を読むのが上手い。

わたくしへ手渡そうとはしない。

代わりに、伏せ床の外縁、カイルの `左` へ片手を伸ばせば届くぎりぎりの石の上へ、音を立てず置きます。


「これでいい?」

「ええ」

わたくしは頷き、それから付け足しました。

「まだ、誰も勧めないで」


ヘルマンの向こうで、若い助祭が眉をひそめる気配がした。

喉が乾いているなら飲ませればよいではないか、とでも思ったのでしょう。

白い連中は、慈悲の顔をする時ほど手が早い。

それでどれだけ壊してきたか、想像力が足りないのです。


「ラザル殿」

わたくしはあえてそちらを見ずに言いました。

「そこの坊やの正しさがあふれそうですわ」


少し間があってから、ラザルが低く「東二、喉を閉じろ」と吐き捨てる。

助祭は黙る。

本当に、腹立たしいくらい都合よく働くではありませんか、この人たちは。


けれど今は、それでいい。

主の部屋を整えるためなら、使える手は使う。

侍女とはそういう生き物です。


わたくしは改めて伏せ床の上を見ました。


カイルの `左` は、さきほどより少し自然に見えました。

自然、というと語弊がありますわね。

不格好さが、一段まともになったと言うべきでしょうか。

抱いていない。

でも、落としもしない。

運び屋が荷へ作る `置き場` の形に、ようやく近づいている。


その `左` の上で、金の目はまだ開いている。

けれど先ほどまでのように、誰か一人を刺すみたいな視線ではない。

外を警戒しながらも、どこかで `まだそこにいてよい` と測り始めている目でした。


なら次は、声ではなく日用品を差し出す。

それが寝所の作法です。

起き抜けの相手へまず示すべきは、愛情でも忠誠でも真実でもない。

水差しと布と、ひと呼吸の猶予。


「カイル」


わたくしが呼ぶと、彼は嫌そうな顔のまま「何だ」と返しました。

ええ、そういう顔で結構です。

その方が、うっかり優しくしすぎない。


「右はそのまま」

わたくしは言います。

「左だけで取れる位置へ、水袋を置いてあります」

「見えてる」

「なら、あなたは取らないで」


彼の眉が寄る。

当然です。

不親切に聞こえるでしょう。

ですが、ここで彼が `取ってやる` のは一番まずい。

水を渡すという行為は、思っているより親密です。

飲ませる手は、すぐに `世話をする者` の手へ変わる。

世話をする者の手は、次の瞬間 `選ぶ者` の手になりかねない。


「取らせるのです」

わたくしはさらに低く言いました。

「自分で選べるところまで、まだ残しておかないと」


カイルは舌打ちしかけて、やめました。

不機嫌なまま理解する顔。

この男の一番役に立つところです。


「……分かった」


その時、金の目が、かすかに水袋の方へ動きました。

顔を向けるというほど大きくはない。

けれど、喉のあたりの力が一度だけ変わる。

乾いている。

そして、水だと分かっている。


わたくしの胸がぎゅっと痛みました。


本当に、いつもの寝所と同じではありませんか。

熱に浮かされた主人が、まだ目も合わせずに、水差しの音だけを拾う朝と。

違うのは、わたくしが傍へ寄れないことだけ。

その違いひとつが、こんなにも苦い。


「……みず」


ひどく小さな声でした。

頼みというより、身体が先に覚えている単語みたいな声音。

金の目は、誰の名も呼ばず、まず水を欲しがった。


その当たり前さが、わたくしにはほとんど救いでした。


英雄でも聖女でも魔王でもない。

ただ、喉の乾いた子供が、水を欲しがったのです。


若い助祭が、また動きかける。

今度は `奇跡` ではなく `慈悲` の顔でした。

それも同じくらい危ない。


「止まりなさい」

わたくしはきっぱり言った。

「給仕はもう足りています」


自分で言って、少しだけ可笑しくなる。

何をもって給仕と言うのか。

わたくしはまだ何ひとつ、直接にはしていないではありませんか。

けれど、侍女の仕事は触れる前に八割終わっている。

今やっているのは、まさにそれでした。


「カイル」

「ああ」

「持ち上げないで」

「分かってる」

「分かっている人間は、そう何度も言わせませんのよ」


いつものように刺してやると、彼はまた顔をしかめました。

ですが、そのしかめ面のまま、左肩と肘の角度だけを細く変える。

水袋へ届く。

けれど、引き寄せはしない。

ただ、そこに置き場があると分かるよう、面を作るだけ。


金の目の指先が、布の上を迷います。

小さい。

まだ少し震える。

けれど、誰かに掴み上げられるのを待ってはいない。

待っていないことに、胸の奥がまた熱くなる。


自分で届きたいのですね。

ええ、その方がいい。

その方が、まだ `誰か一人` にならない。


指先が水袋の革へ触れた瞬間、カイルの右肘がぴくりと震えました。

灰色の熱が戻りかける。

わたくしは反射で一歩出そうになって、止めます。

そこで出れば、今までの全部が無駄になる。

支えたい。

支えたいですとも。

けれどその欲が、いま一番の毒なのだと、もう知っているでしょう。


「そのまま」


わたくしは自分へ言い聞かせるみたいに呟きました。

誰に向けたのかは分かりません。

カイルか。

金の目か。

それとも、飛び出しかけた自分自身か。


金の目が、水袋の口を自分で少しだけ傾ける。

ほんのひとしずく、唇に触れる。

それだけで十分でした。

ごくり、と大きく飲ませる必要はない。

乾いている身体には、一口目はいつだって少なすぎるくらいでいい。


小さな喉が上下する。

その動きに合わせて、白布の向こうの空気がまた少しだけ緩みました。

誰も声を上げない。

誰も `飲んだ` とも `大丈夫` とも言わない。

この場の人間がそこまで学習したことに、正直少し驚きます。


ヘルマンが制度を削り、

ラザルが視線を削り、

カイルが抱く意味を削り、

わたくしが呼びかけを削る。


そうしてようやく、ただの一口の水が、誰の物語にもならずに通る。


なんて不格好で、なんて尊いのでしょう。


金の目が、二口目は求めませんでした。

唇を湿らせたことで少しだけ楽になったのでしょう。

水袋へ触れていた指先が離れ、その代わり、カイルの `左` へ預ける重みの方が、さっきより静かに落ち着く。


それを見て、わたくしはようやく分かりました。

わたくしが次に守るべきものは、最初の接続そのものではない。

その接続のまわりで、当たり前の世話が当たり前に通ることです。


水を飲む。

息を整える。

光を落とす。

問いを減らす。

それらをごく小さく通していけば、帰還も奇跡も異端も、少しだけ `ただ生きている身体` の方へ寄っていく。

そして、その方がずっと壊れにくい。


「まだ、呼びませんわ」


気づけば、そんなことを口の中で言っていました。

誰にも聞かせない声で。

誓いというには醜く、愚痴というには真剣な声音で。


わたくしはまだ呼びたい。

お嬢様と。

あるいは別の名で。

泣きつきたい。

責めたい。

取り戻したい。

その全部は消えていません。


けれど、消えていなくても給仕はできる。

未練が残ったままでも、水差しは置ける。

そのことが、今はありがたかった。


「ミナ」


不意に、カイルが低く呼びました。

目は上げないまま。

いつもの気の抜けた声です。


「何ですの」

「次、布」


短い。

けれど足ります。

彼ももう、わたくしへ `主を迎える侍女` ではなく `部屋を整える半歩外` を求めている。

腹立たしい。

腹立たしいですが、間違っていない。


「ええ」

わたくしは頷き、今度は白布のたるみと朝の角度を見ました。

次にどこを落とし、どこを開け、どこまで沈黙を保たせるか。

仕事はいくらでもある。

泣いている暇など、まだありません。


伏せ床の上では、金の目がもう一度だけ、水袋の方へ細く視線をやってから、すぐに戻しました。

欲しがりすぎない。

寄りかかりすぎない。

その加減まで、どこか三人ぶんの我慢に似ていて、胸が痛む。


でも、それでいい。

今はそれが一番いい。


わたくしは膝をついたまま、次に落とす白布の端を指で示しました。

教会の若い助祭が歯を食いしばりながら従う。

ラザルが外を見続ける。

ヘルマンは何も言わず、語数だけを減らす。

セトは石を握ったまま、次の危険を計っている。

カイルの `左` は、抱かずに残る。


そしてその真ん中で、わたくしはまだ呼ばないまま、水差しだけを置き続ける。


それが今朝の、侍女の勝ち方でした。


帝国暦849年。冬。

ミナは、ラザルたちが `見なかったまま朝を越す持ち場` を共有し、カイルが `左` を `名前のない棚` として引き受け直したあと、次に必要なのが `水` や `布` や `問いを減らすこと` といった、ごく当たり前の給仕だと見抜きました。彼女は自分の執着を帯びる白百合めいた欠片を奥へ退かせ、誰の名も呼ばず、直接も飲ませず、ただ `欲しければ取れる水差し` と `通しすぎない部屋` を整えます。こうして局面は、`未確定のまま最初の接続を深く保つ` 段階から、さらに `未確定のまま最初の給仕を通し、ただ生きている身体として朝へ渡す` 段階へ進んだのです。

お読みいただきありがとうございました。次回もお楽しみに!

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