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泥濘(でいねい)のレクイエム ―英雄の残火と、つぎはぎの神魔―  作者: 堀吉 蔵人
第2部

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第98話:左棚の呼吸、抱かない重み 【カイル】

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誰かに見られている荷は、たいてい本来の重さより重い。


泥街で運び屋をやっていた頃、俺はそれを嫌というほど覚えた。

袋の中身が同じ豆でも、依頼人が横で `割るなよ` `高いんだぞ` と喚けば、肩には別の重みが増える。

柩だってそうだ。

泣く身内が後ろをついてくる時と、金だけ払って姿を消した時とじゃ、縄の食い込み方が違う。

中身の重さは変わらない。

変わらないはずなのに、人の目と声が、それに勝手な意味を乗せる。


だから、ラザルが `外を見ろ` と怒鳴ったあと、伏せ床の上で最初に変わったのは重さだった。


軽くなったわけじゃない。

そんな都合のいい話じゃない。

むしろ `ちゃんと重くなった`。


さっきまで `金の目` は、俺の `左` に預けられていながら、どこか半分だけ宙にいた。

周りの白い連中も、ミナも、セトも、ヘルマンも、たぶん俺自身も、この形が何なのかを見定めたがっていたからだ。

棚なのか。

腕なのか。

抱き留めているのか。

預かっているだけなのか。

誰も決めるなと言いながら、全員が決めかけていた。


その視線が、今は少し減った。

白布の向こうで誰もこっちを見ていない、という意味じゃない。

実際には何人かは見ているだろうし、見ているのに見ていないふりをしているだけの奴もいるはずだ。

だが、あいつらが `見て分かったつもりになる` のをやめただけで、俺の肩に乗っていた余計なものが一枚剥がれた。


そのせいで、預けられている重みの形が、ようやくはっきりした。


軽い。

子供の身体としてなら、どうしようもなく軽い。

なのに、あっさり抱くと壊れる種類の軽さだった。

薄い氷板を濡れた布ごと持っているみたいな、不安定な軽さ。

沈めると割れる。

持ち上げると滑る。

だから手のひらで拾うんじゃなく、肩と肘と脇腹で `落ちない面` を作ってやるしかない。


俺は呼吸を一つ入れて、`左` の角度をもう一度だけ確かめた。

抱かない。

けれど落とさない。

第95話でミナに散々言われたその形が、こんなところでまだ役に立っているのが腹立たしい。


`金の目` は開いたままだった。

まっすぐな金だ。

誰か一人の顔に戻ったみたいに、綺麗に決まってはいない。

それでも、目だけなら、何かがこっちを見返しているとはっきり分かる。


分かるから、訊きたくなる。

お前は誰だ。

いま前に出ているのは誰なんだ。

アレンか。

エリスか。

それとも、もっと別の混ざり方をしているのか。


だが、そんなことを聞ける空気じゃない。

空気じゃないし、聞いていい役目でもない。

俺は司祭でも侍女でも魔術師でもない。

ただの運び屋だ。

ならやることは一つしかない。

落とさない。

勝手に名前を貼らない。

それだけだ。


右の肘から先が、まだじくじくと熱い。

灰色の剣が黙ったわけじゃない。

セトの石に一度外へ散らされても、あれは消えたりしない。

皮膚の下で、細い炭みたいな熱がまだ赤い。

たまに、その熱が `お前が抱け` とでも言いたげに疼く。

支えろじゃない。

抱けだ。

守れだ。

選べだ。


そういうのが、一番まずい。


俺は右を動かさず、左肩だけを少し落とした。

すると `金の目` の睫毛が、わずかに揺れる。

反応している。

言葉じゃない。

だが、分からないでもない。

この角度なら、まだ決まりすぎない。

そういう細い手応えだった。


「……そのままですわ」


半歩外から、ミナの声が落ちた。

低い。

怒鳴らない。

泣かない。

侍女が寝台の足元から、寝息の邪魔をしない音量で確認を入れる時の声だ。


俺は顔を上げずに言う。

「お前、さっきから俺にだけ仕事押しつけすぎだろ」


「違いますわ」

ミナはすぐ返した。

「あなたが今いちばん、それしかできませんの」


言い方がひどい。

だが、そのひどさに少しだけ助けられる。

変に優しく言われる方が危ない。

`任せる` とか `お願い` とか、そういう綺麗な言葉が乗ると、すぐ何かの役にされる。


俺は泥街の運び屋で、今ここにいる中じゃたぶん一番役に立たない。

剣は半分暴れてる。

魔術は使えない。

教会の手順も知らない。

なのに、一番役に立たないからこそ、まだ `棚` でいられる。


それが、妙にしっくり来るのが嫌だった。


「カイル」

今度はセトだった。

石を握ったまま、こっちを見ずに言う。

「右、熱が戻り始めてる。無理に深く寄せるなよ」


「分かってる」

「分かってない顔してる」


言い返そうとしたが、やめた。

分かっていないのは事実だったからだ。

いや、正しく言うなら、分かりたくない。

俺はずっと、荷は持つもので、持ったら運ぶものだと思ってきた。

こんなふうに、持ちながら `持たせる` のは初めてだ。

抱えるのでも、降ろすのでもない。

相手の重みが勝手に形を決めすぎないよう、こっちが中途半端なままで残る。

そんなの、運び屋の仕事としては最悪の部類だ。

最悪なのに、今はそれしかない。


`金の目` が、ふいに俺の袖口へ触れた。


びくりとした。

指先だ。

細い。

冷たい。

掴むほどじゃない。

ただ、位置を確かめるみたいに、布のしわへ一度だけ触れる。


それだけで、右肘の熱が一瞬、上へ走りかけた。

俺は息を止めた。

ここで反射的に握り返したら、たぶん終わる。

誰かを抱き返す形になる。

意味が乗る。

帰還ごっこが始まる。


だから俺は、手を動かさなかった。

動かしたいのを、歯を食いしばって止めた。

代わりに、左肩と脇腹だけで面を作り直す。

落ちても拾える。

だが先に引き寄せはしない。


そのまま一拍。

二拍。


袖をつまんでいた指が、少しだけ緩む。

掴んだんじゃない。

そこに棚があるかどうかを確かめただけだったみたいに。


「……そうか」


思わず漏れた。

誰へ言ったのか、自分でも分からない。

目の前の `金の目` へか。

それとも、自分の `左` へか。


預けるっていうのは、相手を信じることとは少し違うのかもしれない。

信じるって言葉は、だいたい綺麗すぎる。

綺麗すぎて、すぐ誰か一人の話になる。

だが預けるは違う。

落ちるなよ。

今はそこでいい。

俺が全部持つわけじゃないし、お前も全部乗るな。

半分ずつ誤魔化して、朝まで持たせろ。

そういう、汚い取り決めだ。


汚い方が、今はたぶん壊れにくい。


外で、誰かの靴裏が砂を踏む音がした。

すぐに止まる。

ラザルだろうか。

あるいはトビアか。

誰でもいい。

大事なのは、その一歩がそれ以上こっちへ寄ってこなかったことだ。


第97話で、あいつらは `見なかったまま朝を越す` ことを覚え始めた。

だったらこっちも、そのぶんだけ `抱かなかったまま支える` ことを覚えないといけない。

英雄なんてまるで似合わない仕事だ。

けど、似合わないからまだましなんだろう。


「まだでいい」


今度は意識して言った。

誰の名でもない。

慰めでもない。

ただの確認だ。

重みが乗りすぎていないか、落ちそうになっていないか、そのための言葉。


`金の目` の睫毛が一度だけ震える。

返事みたいに。

それから、さっきまでより少しだけ、視線の尖りが薄くなった。

閉じるわけじゃない。

眠るわけでもない。

けれど、ずっと外を刺していた細い緊張が、ほんの少しだけほどける。


その変化は、見ようとして見えたものじゃなかった。

抱かなかったから、勝手に見えてきた変化だった。


俺はそこで初めて、今この場で自分がやっていることを、少しだけまともな言葉にできた。


守っているんじゃない。

起こしているんでもない。

決めないまま、置き場を貸しているだけだ。


置き場。

それくらい雑な言い方の方が、俺には合っている。

人の命やら帰還やら奇跡やらを、綺麗な言葉で背負えるほど立派じゃない。

泥街で覚えたのは、割れ物には面を作れ、崩れ物には段差を消せ、意味のある荷ほど軽口を叩くな、それだけだ。


今ここで必要なのも、たぶん大差ない。


「ミナ」

俺は目を上げないまま呼んだ。


半歩外で、空気が少しだけ動く。

彼女は返事を急がない。

それが今は助かる。


「お前、そのままでいろ」


言ってから、少しだけ言葉が足りなかったと思った。

そのままって何だ。

侍女でいろ、でもない。

半歩外にいろ、でもない。


だが、ミナはたぶん分かったのだろう。


「ええ」

静かな声が返る。

「あなたも、そのままで」


それだけだった。

腹の立つほど短い。

けれど十分だった。


ヘルマンの白い連中は見ない。

ミナは呼ばない。

セトは切りすぎない。

ラザルは持ち場を崩させない。

その全部の真ん中で、俺の `左` だけが、名前のない棚として残る。


ひどい役目だ。

格好もつかない。

物語にもならない。

けれど今は、それがいちばん壊れにくい。


`金の目` が、もう一度だけ俺の袖口へ触れた。

今度は確かめるためじゃない。

ただ、そこにあることを確認するみたいな軽さだった。

それから指先が離れ、代わりに重みの方が、ほんの少しだけ自然な場所へ落ち着く。


落ち着く。

その言葉を胸の中で繰り返した瞬間、右肘の熱がまたうっすら疼いた。

油断するな、ということだろう。

まだ終わっていない。

まだ誰か一人へ決まっていないし、朝だって越えきっていない。


それでも、さっきまでとは違う。

今は `見られて保っている` のではない。

`見られなくなったぶん、本来の置き方へ近づいている`。


それが分かっただけでも、十分前進だ。


俺は左肩の高さを保ったまま、ゆっくりと息を吐いた。

吐く拍に合わせて、`金の目` の細い呼吸も、わずかに遅れる。

揃えるほどじゃない。

けれど、ずれてもいない。


その中途半端さが、ひどく今らしかった。


帝国暦849年。冬。

カイルは、ラザルたちが `見なかったまま朝を越す持ち場` を作り始めたことで、初めて自分の `左` に預けられている重みの本来の形を掴みます。それは `守る腕` でも `選ぶ手` でもなく、誰か一人へ決まりすぎないための `名前のない棚` でした。白布の向こうの視線が減ったぶん、カイルは `抱かないまま支える` という運び屋の理屈で最初の接続を一段深く保ち、局面はこうして `見なかったまま朝を越す持ち場` と呼応する形で、さらに `抱かなかったまま未確定を置かせる左` を共有し始めたのです。

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