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泥濘(でいねい)のレクイエム ―英雄の残火と、つぎはぎの神魔―  作者: 堀吉 蔵人
第2部

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第97話:空欄の持ち場、見なかった朝焼け 【ラザル】

お読みいただきありがとうございます。毎日20時に更新しています。

上官の命令というものは、たいてい綺麗すぎる。


`空欄を持ち帰れ`


ヘルマンがそう言った時、囲いにいた連中の顔は揃ってひきつっていた。

無理もない。

兵は普通、何かを持ち帰る時には形を持つ。

捕虜なら縄だ。

証拠なら箱だ。

異端なら焼け跡か首だ。

空欄なんぞ、荷車にも乗らなければ帳面にも収まりが悪い。


だが、収まりの悪い命令を現場で回す役は、だいたい中堅に落ちてくる。

上は `持ち帰れ` と言うだけで済む。

そのために布を何枚落とし、誰の視線をどこへ逸らし、何人までが同時に息を呑んでよくて、どの段で `見ていないことにする` のかを決めるのは、いつだって私らの仕事だ。


北東外周で、私は返された盾の列を見回した。

陽紋は内側へ伏せられ、ただの鈍い壁になっている。

槍先も半歩下げたまま。

白布は裏返され、朝除けの灰だけが風を受けて鳴っていた。


審問でも包囲でもない。

それなのに輪だけは残っている。

この場の醜さを一言で言い表すなら、そこだった。


捕らえていない。

救ってもいない。

祈ってもいない。

ただ、何かを `決めないまま持たせる` ためだけに、教会の人間が同じ持ち場へ立っている。


私はそういう仕事が嫌いだった。

嫌いで、そのくせ向いているのも知っていた。


「西三、目線を落とせ」


私はまず、若い槍持ち二人へ言った。

「布の縁と足元だけ見ろ。中を見るな」


片方が顔をしかめる。

昨夜、ミナを最初に引かせた時に手を出しかけた若造だ。

もう一人は、そこまであからさまではないが、やはり納得はしていない。


「まだ続けるんですか」

若い方が低く言った。

「もう目は開いているんでしょう」


その `もう` が、いかにも教会の兵らしい。

徴が出た。

なら答えに進むべきだ。

そういう躾で育っている。


私は白布の向こうを見ずに答えた。

「開いたからこそ続ける」


「ですが、何が出たのかを」


「知る必要があるのは、いまここに立っているお前じゃない」


きつく言ったつもりだったが、若造は引き下がらなかった。

若い連中は、叱責より理屈の欠如に腹を立てる。


「見なかったことにするんですか」

「そうだ」

「そんなのは」


冒涜です、と続けようとしたのだろう。

私は先に遮った。


「冒涜でも何でもいい。いま一番まずいのは、お前が自分の見たものへ都合のいい名前を置くことだ」


若造の喉が鳴る。

悔しさと恐れと、少しの反発が混ざった音だった。

いい音だ。

綺麗に納得した音より、ずっと壊れにくい。


私はそこからさらに、一人ずつ持ち場を微調整した。

北一は半歩外。

東二は膝を折るな。

西三は白布のたるみだけ見ろ。

助祭は板蝋を胸の位置より上へ上げるな。

見るな、では兵はもたない。

代わりに、何を見るかを細かく与えるしかない。


それが嫌だった。

教会の兵へ `信仰ではなく布の縁を見ろ` と教えるのは、剣の持ち方を教えるよりもずっと気色が悪い。

だが、気色の悪さで仕事を止めていたら、この輪はすぐに誰かの善意で壊れる。


外縁のさらに向こうから、書記補が一人、灰を蹴って寄ってきた。

若い。

新しい顔だ。

内環へは入れていないが、後ろの控えで板を回していた男らしい。


「ラザル殿」

息を切らしながら、小さな板蝋を差し出してくる。

「夜明け帯の現認継続欄です。二名分の署記を」


私は受け取って、思わず奥歯を噛んだ。


`内環現認継続 二名記名`


蝋板には、そう刻まれていた。

実に正しい。

実に教会らしい。

こういう時こそ、誰が見たかを残しておきたいのだ。

あとで責任を引けるように。

あとで意味を上に渡せるように。


それが、今はいちばん駄目だった。


「鉄筆」

私は手を出した。

書記補が慌てて差し出す。


私はその場で `現認` の二字を削った。

蝋がめくれ、爪の間へ入り込む。

代わりに、強く刻む。


`持場確認`


書記補が息を呑んだ。

「ですが、それでは」


「それでいい」

私は板を返した。

「ここで確認すべきは、中に何がいるかじゃない。誰が持ち場を守っていたかだ」


「しかし、司教座は内環の」


「司教座が欲しがっているのは言葉だ。だが今、ここで守っているのは言葉になる前の順番だ」


若い男は理解しきれていない顔をしていた。

分かる。

私だって分かりたくはない。

教会の帳面から `現認` を削る日が来るなんて、まともな気分で受け入れられるものか。


だが、削らなければ、この板はあっという間に `何を見たか` を吸い始める。

英雄か。

聖女か。

憑依か。

奇跡か。

たった一語で、この場の壊れ方は決まってしまう。


「署記は?」

書記補が震えた声で訊く。


私は板を引き戻し、自分の名を刻んだ。

それから少し迷って、もう一つの欄を空けたままにする。

二名目というのは、教会ではしばしば `証人` を意味する。

今朝この場に、証人など要らない。

必要なのは、持ち場の共犯者だ。


「二つ目は後で埋める」

私は言った。

「だが中身は増やすな。数と位置と時刻だけにしろ」


書記補はまだ不安げだったが、ようやく頭を下げた。

去っていく背中は軽くない。

それでいい。

軽い足取りの人間は、たいてい余計な確信を持って帰る。


その時、影の半歩外から、冷えた声が落ちた。


「そこ、もう少し下げないと朝が刺さりますわよ」


ミナだった。

相変わらず腹の立つ声色だ。

命じるでもなく、頼むでもない。

寝所の隅の乱れを見つけた侍女が、下働きへ事実だけ突きつける時の声音にそっくりだった。


私はそちらを見ないまま答える。

「命じられる筋合いはない」


「ええ。ですが刺さるのは、わたくしでもあなたでもなく、中でしょう」


言い返せなかった。

言い返せなかったことに腹が立った。

もっと腹が立ったのは、彼女が正しいと分かってしまったことだ。


「西二、布を指二本ぶん落とせ」

私は噛みつくみたいに命じた。


若い助祭が手を動かす。

白布のたるみが少しだけ深くなり、朝の白みが縁で砕ける。

その変化に合わせて、内側の気配がほんのわずかに緩んだ。

気配、としか言いようがない。

私は見ていない。

見ないようにしている。

だが長く囲いに立っていると、布一枚隔てた向こうの呼吸や重みくらいは、嫌でも輪郭を持ち始める。


それがまた気味が悪かった。

見ないために立っているのに、見なくても分かり始める。

そうやって現場は、命令より先に状況へ馴染んでいく。


「ラザル殿」


今度は、さっきとは別の若い騎士が寄ってきた。

朝から何度も指を陽紋へやりかけて、そのたびに飲み込んでいる男だ。


「もし、あれが本当に」


またそれだ。

本当に何なのか。

帰還なのか。

奇跡なのか。

それとも、もっと言いにくい何かなのか。

連中は皆、問いの形で名付けようとする。


私はその男の胸当てを指で叩いた。

硬い音が鳴る。


「お前は、いま何を知りたい」

「それは……」

「神意か」

「違います」

「英雄譚か」


騎士の顔が歪む。

図星だったのだろう。

若い兵ほど、英雄譚の中で正しい位置に立ちたがる。

自分がその場にいた、と後で言える形を欲しがる。

それが悪いとは言わない。

私だって若い頃はそうだった。

だが今ここでそれを許せば、未確定は一瞬で誰かの勲章へ変わる。


「よく聞け」

私は男の肩を掴んだ。

「お前が今ほしがっているのは答えじゃない。お前自身が `見届けた` という感触だ」


男が息を止める。

怒りではなく、羞恥に近い顔だった。

だったらまだ救いがある。


「それを欲しがるな」

私はさらに低く言う。

「今朝それを欲しがる奴は、敵より先にこの輪を壊す」


ちょうどその時だった。


白布の向こうで、何かが小さく擦れた。

寝返りとも違う。

布の擦れる音でもない。

もっと細い、喉の奥で言葉になりきれなかったものみたいな音。


場の空気が、ひと呼吸ぶんだけ固まる。

誰もがそっちを見たくなる音だった。

答えの方から、自分へ寄ってきたと錯覚する時の音だ。


実際、東二の助祭は半歩だけ顎を上げかけた。

若い騎士も、私の手の下で肩を強張らせる。


私は反射で怒鳴った。


「外を見ろ!」


思ったより大きな声が出た。

囲いの何人かがびくりと跳ねる。

だがそのおかげで、上がりかけた視線が全部、半歩手前で止まった。


「尾根を見ろ。布の影を見ろ。中を見るな!」


祈りの文句ではない。

説教でもない。

ただの持ち場の声だ。

なのにその瞬間、私は確かに分かった。

ヘルマンの `空欄を持ち帰れ` という綺麗すぎる命令が、ようやく現場の筋肉へ降りたのだと。


見ない。

聞こえても見ない。

答えの方から寄ってきた気がしても、なお見ない。


それを兵の癖に変えなければ、この輪は持たない。


若い助祭が歯を食いしばりながら尾根へ視線を戻す。

槍持ちも、白布の縁へ目を落とす。

さっきの騎士だけが、ほんの一瞬遅れた。

私はその首筋を軽く押し、外へ向け直した。


「お前の持ち場はどこだ」

「……外です」

「なら、外を見ろ」


ようやく男の肩から余計な力が抜ける。

納得ではない。

諦めだ。

その諦めが今朝は正しい。


白布の向こうは、もう見えなかった。

いや、最初から見えてはいない。

それでも、さっきの一瞬で、この場の全員が `見えた気になりかけた`。

そのことが何より危なかった。


私はそこでようやく理解した。

空欄というのは、黙っていれば保たれる余白じゃない。

人が答えを欲しがるたびに、破れそうになる皮膜だ。

だから守るには、沈黙より先に、視線と手癖を止めなければならない。


「書記補」

私は後ろへ声を投げた。

「板を寄越せ」


さっきの男が駆け寄る。

私は `持場確認` と削り直した板へ、さらに一行を足した。


`内環声変あり。視認記述なし。輪状維持。`


書いて、自分で少し笑いそうになった。

なんという醜い文章だろう。

声が変わった。

だが見ていない。

それでも輪だけは保った。

まるで、教会が自分で自分の喉を締めながら筆を走らせているみたいだ。


だが、この醜さの方がまだましだった。

綺麗な言葉はすぐに誰かを選ぶ。

汚い実務の文だけが、時々こうして人を選ばずに済ませる。


「二つ目の署記は」

書記補がまた問う。


私は少し考えてから、板をトビアへ差し出した。

静修騎士は黙って受け取り、内容を一度だけ確認して、自分の名を刻む。

余計な感想は一つも足さない。

それが今はありがたかった。


これで教会の帳面には、今朝のこの場が `誰かを見た朝` ではなく、`持ち場を崩さなかった朝` として残る。

嘘ではない。

だが真実でもない。

そういう中途半端さを、私は昔、ひどく軽蔑していた。


今はその軽蔑ごと、必要な仕事として飲み込むしかない。


影の半歩外で、ミナが何も言わず立っている。

白布の向こうでは、カイルの `左` がまだ棚でいるのだろう。

ヘルマンは囲い全体の呼吸を見ている。

セトは石を離さない。


誰一人、気持ちよく正しくはない。

だからこそ、まだ壊れずにいる。


東の尾根がさらに白む。

だが囲いは、もう昨夜の囲いではなかった。

上官の苦い命令を待つだけの輪ではない。

見なかったまま朝を越すための、各自の持ち場になり始めている。


それが私には、祈りよりずっと嫌で、ずっと現実的だった。


私は白布の端を握り直し、若い連中へもう一度だけ言った。


「いいか。今日お前たちが持ち帰るのは、奇跡でも異端でもない」


誰も答えない。

答えないのが、ようやく少しだけ上手くなっていた。


「自分の持ち場だけだ」


その言葉は、説教の代わりに、妙にすんなりと輪へ落ちた。

たぶん皆、もう分かっているのだ。

分かりたくはなくても。

この朝を壊さず越すには、それしかないと。


帝国暦849年。冬。

ラザルは、ヘルマンが命じた `空欄の囲み` を、現場の中堅として初めて本当の手順へ落とし込みました。`現認` の板蝋を `持場確認` へ削り直し、若い兵や助祭の `見たい`、`名付けたい`、`見届けたい` という衝動を押さえ込み、さらに白布の向こうで小さな声変が起きた瞬間には、囲い全体へ `外を見ろ` と命じて、答えへ飛びつく視線そのものを止めます。こうして局面は、ヘルマン個人の命令として `空欄を持ち帰る` 段階から、教会の現場線そのものが `見なかったまま朝を越す持ち場` を共有し始める段階へ進んだのです。

最後までお読みいただきありがとうございます。一言でも感想いただけると励みになります。

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