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泥濘(でいねい)のレクイエム ―英雄の残火と、つぎはぎの神魔―  作者: 堀吉 蔵人
第2部

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第96話:空欄の囲み、見届けるな 【ヘルマン】

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教会は、空欄を憎む。


異端審問局に入ったばかりの頃、私はそう教わった。

報告書に空欄を残すな。

証言に空欄を残すな。

祈祷書の余白へ勝手な注釈を書かせるな。

空欄は人を不安にさせ、不安は解釈を呼び、解釈はやがて派閥と血を呼ぶ。


だからこそ教会は、名前を急ぐ。

奇跡か。

異端か。

聖性か。

憑依か。

名を一つ置いてしまえば、余白は埋まり、人は安心する。

安心すれば膝をつき、記録は整い、正義は仕事になる。


それが教会の強みであり、私が長らく疑わなかった秩序だった。


だが今、伏土の窪みの外縁で私が守っているのは、まさにその空欄だった。


名を置いてはならない。

分類してはならない。

それだけでは足りない。

見た者に「分かった」と思わせてもならない。


人は、口を閉じさせただけでは勝手に理解するからだ。


私は北東の囲いから伏せ床を見た。

カイルの `左` は、相変わらず不格好な棚として残っている。

支えているようで、抱いていない。

預けられているようで、引き寄せていない。

あの泥街の運び屋にしては、腹の立つほど正しい角度だった。


その半歩外で、ミナは侍女の顔をして立っている。

実際にやっていることは、私の部下の喉を絞め、布の位置を直し、光の差し方を減らし、余計な視線の角度まで切っているだけだ。

だが、それは本来、主人の寝所で侍女がする仕事にあまりにも似ていた。


私はそのことに、ひどく苛立っていた。

苛立つ理由が分かるからなお悪い。


彼女は正しいのだ。

しかも、私の部下を使って正しい。


教会の手が異端の眠りを整える。

異端の侍女が教会の若い助祭へ布の位置を命じる。

それを私が止めず、むしろ成立させている。


この光景を一枚絵として切り出せば、私自身が最初に焼きたくなる。

あまりにも教義に悪い。

あまりにも解釈を呼ぶ。


だから私は、解釈の材料そのものを減らす必要があった。


「トビア」

私は呼んだ。

静修騎士はすぐに半歩寄る。

この男の良いところは、近づきすぎないことだ。


「内周の布をもう一段落とせ。白い面を外へ見せるな。裏地の灰だけを残せ」

「朝除けを兼ねてですか」

「それだけではない。見た者に、絵を作らせるな」


トビアはわずかに眉を動かしたが、問い返しはしなかった。

優秀な現場人間は、意味を完全に呑み込む前に手を動かす。

今はそれでいい。


「ラザル」

「いる」

「若いのを一列下げろ。目が動く者から外せ」


ラザルの顔が曇る。

当然だ。

士気に関わる。

外した者は、自分が信用されなかったと受け取る。


「ヘルマン殿、今さら選り分けるのですか」

「今さらだ」

私は即答した。

「口を閉じられる者と、目を閉じられる者は違う」


ラザルは黙った。

その黙り方で、彼ももう何人か思い当たっているのが分かった。

名付けを止められても、目で祈ってしまう者がいる。

英雄が帰ったと信じたい目。

聖女が戻ったと泣きたい目。

怪物を見つけたと興奮する目。


そういう目は、いま一番危険だ。


「西二の若い助祭は外せ。東三の槍持ちもだ。あれは次に光が差したら膝をつく」

「分かるのですか」

ラザルが低く問う。

「分かる」

私は言った。

「あれは、自分の見たものを意味へ変えたがる顔だ」


それは他人事ではなかった。

私自身、さきほどからずっとそうなのだ。

金の目。

銀髪。

片翼。

棚として残る左。

半歩外で拍を刻む侍女。


この配置には、物語が生まれやすすぎる。

英雄が帰りかけ、侍女が迎え、教会が見届ける。

そんなふうに一行でまとめた瞬間、この場は壊れる。

だから私は、その一行が成立する要素を一つずつ剥がすしかなかった。


「メル」

若い助祭がびくりと顔を上げる。

まだ学びきっていないが、止められる側だった昨夜よりは少しだけましな目だ。

「はい」

「記録板を出せ」


メルは腰の板蝋を差し出した。

そこには既に、小さな字でこう刻まれていた。


`金眼 応答一`


私はそれを見て、ほんの一瞬だけ目を閉じた。

責める前に、自分の職業病へ反吐が出たからだ。

若い助祭は、見たものを理解したくて記したのではない。

教会の人間として、正しく報告しようとしただけだ。

それが最悪だ。


私は短い鉄筆を抜き、`金眼` の二文字をその場で削った。

蝋がめくれ、欠片が爪先へ落ちる。


メルが息を呑んだ。

「ですが、事実です」

「事実ではある」

私は板を返しながら答える。

「だが、いま必要な事実ではない」

「……では、何を書けば」

「数だけ残せ。拍、位置、退き、布の段。言葉の表情は書くな」


メルは困惑したまま板を受け取った。

その顔が、少し前の私に似ていて嫌になる。

理解のために書くのではない。

理解しないために書け。

そんな命令は、教会の教育と真逆だからだ。


「覚えておけ」

私はさらに低く言った。

「今日、お前が板へ書く一語は、明日には誰かの信仰か、誰かの処刑理由になる」


メルの喉が、ごくりと鳴った。

それで十分だった。

怖がらせることしかできない時もある。


私はもう一度、伏せ床へ目を戻す。

カイルの `左` はまだ保っている。

ミナもまだ半歩外にいる。

金の目は、いまのところ誰か一人へ刺さっていない。


だが、この均衡は内側だけで保っているのではない。

外側が余計な意味を足さないから、辛うじて立っている。

ならば現場責任者としての私の仕事は、いまや封鎖ではなく、空欄の保護だった。


「ラザル、外縁の盾を返せ」

「返す?」

「紋章を外へ向けるな。陽紋も十字も、今日は壁にしかならん」


騎士が戸惑う。

教会兵にとって、盾の紋は誇りだ。

それを裏返せと言うのは、自分の正しさを一度伏せろと言うに等しい。


私は容赦しなかった。

「外から見て、ここが審問の場に見えるのが一番まずい」

「隠すのですか」

「守るためにだ」


守る。

その言葉を自分の口で使ってしまったことに、内心で苦笑した。

何を。

誰を。

教会が。


だがもう綺麗に言い換える時期は過ぎている。

いま守るのは、子供でも英雄でも聖女でもない。

未確定だ。

誰にもまだ奪わせていない、その空欄そのものだ。


北の白布が一段落ち、朝除けの裏の灰だけが残る。

盾が返され、陽紋が伏せられる。

槍先も半歩下がる。

囲いは残したまま、審問の絵だけを消していく。


それでも、まだ足りない。


東の尾根で、見張りが一人、こちらを振り返った。

新しい目だ。

今来たばかりの目は、古い手順を知らない。

知らない目ほど、見たものへ名前を置きたがる。


「入れるな」

私は即座に言う。

トビアが振り向く。

「交代でもか?」

「交代だからだ。新しい目は余計な一拍を持ち込む」


トビアの表情に、初めてはっきりした理解が浮かんだ。

彼も現場人間だ。

長く同じ処置に付き合うと、見る側の呼吸が対象へ混ざることを知っている。


「既存の者だけで回せ、と」

「そうだ。朝の二鐘までは、今ここにいる目だけで持たせる」


ちょうどその時、北の尾根から土を蹴る音が上がった。

急ぎ足です。

一人。

軽装。

伝令か、あるいは状況だけ掠め取りたい書記補上がりの男。


「止まれ!」

ラザルが先に声を飛ばす。

だが伝令は勢いを殺しきれず、朝除けの外まで半歩踏み込んだ。

若い。

まだ頬に、`現場を見た` というだけで何か手柄になると思っている種類の熱がある。


「西方司教座より照会!」

男は息を切らしながら封筒筒を掲げた。

「内環の変化を至急」


私は自分で前へ出た。

こういう時、部下に任せると余計な説明が一つ乗る。

その一つで足りてしまうのが、いまは一番まずい。


「ここで止まれ」

私は男の胸元から筒だけを抜き取る。

封はまだ切られていない。

つまりこいつは、自分でも中身を知らないまま、内容を聞きたがっている。

最悪だ。


「報告は `封鎖継続、照会延期` のみ」

私は言った。

「書いて戻れ」

「ですが、現認欄が」

「空けて戻せ」


伝令の目が見開かれる。

教会の人間にとって、それはほとんど冒涜だ。


「内側で何が」

「お前が知っていい段階ではない」

私は切り捨てる。

「いま必要なのは内容ではなく、通すなという事実だけだ」


男はなお食い下がりかけた。

その顔に、私は若い日の自分を見た。

正しい報告さえ通れば、正しい処置が来ると信じていた頃の、あの愚直さ。


「聞こえなかったか」

私は声をさらに低くした。

「今日は、理解の早い者から外へ立たせる」


それでようやく、男の喉が鳴った。

彼は半歩下がり、深く頭を下げる。

賢明だ。

賢明であるうちは、まだこの場の一部にならずに済む。


私は封筒筒の蝋封を指で潰し、中の照会票を開きもせずに裏返した。

表題欄の白地だけを確認してから、そこへ自分の筆で短く追記する。


`内環処置継続。新規視認不要。`


事実としては、ずいぶん歪んだ返答だった。

だが、いまこの場に最も必要なのは、正しい叙述ではない。

未確定へ新しい目を入れないことだ。


伝令を返した直後、今度は北一の若い騎士が、ぎこちなく手を胸へ上げかけた。

陽紋へ触れる前の動き。

祈りの形です。


私は反射的にその手首を掴んだ。

騎士は目を見開く。

自分でもなぜ止められたのか分からない顔だった。


「祈るな」

私は囁く。

「いまは祝福も断罪も、どちらも同じだ」


「ですが」

若い男の声は震えていた。

「あれがもし」


そこで言葉が止まる。

英雄か。

奇跡か。

帰還か。

それとも、もっと別の何かか。


その続きを、私は言わせなかった。


「見る先を変えろ」

私は騎士の顎を伏せ床から外し、足元の黒土の縁へ向ける。

「目ではなく、砂の流れを見ろ。布の揺れを見ろ。お前の役目は中身ではない。崩れが外へ出るかどうかだけだ」


騎士は困惑したまま、視線を落とした。

教会兵は本来、光を見るよう育てられる。

上を向き、徴を読み、眩しいものへ意味を与えるように。

それを、今夜の私は逆に教えている。

地面を見ろ。

布を見ろ。

人の顔ではなく、崩れの線だけを見ろと。


背教的ですらあった。

だが、その背教の方がまだ壊れにくい。


「分かるか」

私は手首を放しながら言う。

「お前が見たがっているものは、お前の信仰に都合のいい答えだ。いまここで必要なのは答えじゃない。崩れない配置だ」


若い騎士はしばらく黙っていたが、やがて小さく「承知しました」と答えた。

その声は不本意に濁っていた。

それでいい。

綺麗に従われる方が危ない。

綺麗に納得した時、人はたいてい自分の理解を足し始める。


私はそこで、改めて囲い全体を見回した。

誰もが不本意だった。

ミナも。

カイルも。

セトも。

ラザルも。

そして私も。


だからまだ保つ。

誰も満足していない場だけが、未確定を未確定のまま置いておける。


外から急使を通したいという報告も上がってきた。

私はそれも切った。

「文書は後だ。西方司教座には `封鎖継続、照会延期` の一行だけ返せ」

「詳細は」

「書くな」

「帝国側照会は」

「出すな」


若い書記補が青い顔をした。

制度の人間にとって、書かないことは罪に近い。

しかし今日は、その罪の方がましだ。


「報告したくて仕方がない顔をしているな」

私はその書記補へ言った。

「はい」

正直だった。

「なら覚えろ。今日お前が救うべきは、真実ではない。順番だ」


自分で言って、胃の奥が重くなる。

これではまるで黒土教の祈りだ。

だが、もうそんなことを気にしていられる場所でもない。


伏せ床の内側で、ミナがほんの少しだけ位置を変えた。

それに応じてカイルの `左` もわずかに角度を直す。

金の目は閉じない。

だが、閉じないままでも崩れていない。


あの三人は、互いを理解しているわけではない。

理解などしていないから、あれほど不格好なのだ。

それでも、壊さないための役割だけは噛み合っている。


私はそこで、ひどく嫌な確信を得た。


この均衡を次に壊すのは、敵意ではない。

見届けたいという欲だ。

教会も、帝国も、人は何かが起きた瞬間を「意味のある場面」として見たがる。

証人になりたがる。

証言したがる。

自分が歴史を見たと信じたがる。


だが今ここで `見届ける` とは、すなわち `決める` ことだ。

あの金の目が誰だったのか。

誰が帰ったのか。

誰を失ったのか。


そんなものを朝の一拍で確定させてたまるか。


「よく聞け」

私は囲い全体へ向けて、初めて少しだけ声を張った。

祈る時より低く、説教より短く。

「この内側を見届けようとするな。数だけ持て。位置だけ持て。判断は朝を越えてから私が引き受ける」


兵たちが緊張する。

助祭たちの喉が上下する。

だが、誰も反論しない。


いい。

反論できるうちは、まだ人は理屈で止まる。


「見たものを物語にするな」

私は最後に言った。

「今日は空欄のまま持ち帰れ」


言い終えたあと、自分で自分の言葉に驚いた。

異端審問局の司祭が、部下へ `空欄を持ち帰れ` と命じている。

昔の私なら、そんな上官を軽蔑しただろう。

今の私は、その軽蔑ごと受け入れるしかない。


伏せ床の上で、金の目がわずかにこちらへ向いた。

その視線は、命令の意味まで聞き分けたわけではないだろう。

だが少なくとも、囲いの空気がまた一段、こちら側へ踏み込みすぎないものになったことだけは拾ったはずだ。


ミナが何も言わず、カイルも何も足さず、セトも石を握ったまま沈黙している。

それでいい。

全員が少しずつ足りないままの方が、まだ一つへ決まりにくい。


朝は近い。

光は増える。

だが今この一刻だけは、教会の制度そのものが、未確定を隠す覆いになれた。


それは私にとって、祈りよりよほど苦く、しかし確かに必要な仕事だった。


帝国暦849年。冬。

ヘルマンは、`金の目` を先に開いた不完全覚醒を壊す危険が、もはや `名付け` だけでなく `見届けて理解したがる欲` そのものにあると見抜きました。そこで教会側の外周管理を、`名を与えない` 段階から、さらに `空欄を誰にも埋めさせない` 段階へ引き上げ、紋章、記録語、交代要員、新しい視線まで削って、未確定のままの最初の接続を制度の側から守る布陣へ組み替えます。局面はこうして、`未確定のまま接続を譲り、壊さず保持する` 段階から、さらに `未確定のまま理解と物語化を拒んで朝へ渡す` 段階へ進んだのです。

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