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泥濘(でいねい)のレクイエム ―英雄の残火と、つぎはぎの神魔―  作者: 堀吉 蔵人
第2部

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第95話:譲る侍女、棚の半歩外 【ミナ】

ダークファンタジー群像劇『泥濘のレクイエム』、毎日20時更新中です。

侍女というものは、触る仕事をしているようで、実のところは「触らないための支度」をする生き物だ。


寝台を整える。

水差しの位置を決める。

薄布を一枚引くか、二枚にするかを迷う。

灯りを少しだけ落とす。

廊下を通る足音の大きい下働きを、まだ何も起きていない顔で遠ざける。


主の肌に直接触れる時間より、その前後の方がずっと長い。

そして往々にして、そちらの方が大事だ。

寝つきの悪い夜ほど、侍女は主人に触れない。

触れたいと思った時ほど、なおさら。


いま、わたくしはその当たり前を、ひどく醜い形で思い出していた。


伏せ床の上で、`金の目` はまだ開いている。

だがそれは、帰ってきたお嬢様の目ではない。

アレンでも、エリスでも、シオンでもない、と言い切るのも違う。

誰かに似ている箇所なら、いくらでも見つかる。

睫毛の影はエリス様の柔らかさに近い。

ものを睨む時の一瞬の角度は、アレンの真っ直ぐさに似ている。

それなのに、こちらを見ていながら決めきらない光だけは、シオン様の祈りが壊れる寸前の色にひどく近い。


似ているからこそ、呼べない。

呼んだ瞬間、どれか一つへ寄る。

わたくしはもうそれを知っている。

知っていて、なお呼びたい。


その浅ましさが、喉のすぐ裏に白い棘のように刺さっていた。


カイルの `左` に預けられた重みが、まだ落ちずに保たれている。

先ほどのやり取りは、わたくしの耳には信じ難いほど粗雑だった。

`左へ預けろ`

`まだでいい`


寝台係でも、護衛でも、魔術師でもなく、ただ荷運びが荷に言うような言葉だ。

あんなものに応じるなんて、腹立たしいにもほどがある。

腹立たしい。

けれど、その腹立たしさがいまの均衡を支えていることも、認めないわけにはいかなかった。


わたくしが言えば、意味が乗る。

侍女としての忠誠も、復讐者としての執着も、全部乗る。

ヘルマンが言えば、制度になる。

セトが言えば、手順になる。

レオンが言えば、庇護か覚悟になる。


けれどあの泥ネズミが言うと、それは意味になる前の重さで止まる。

重い。

落ちる。

預ける。

まだ。


それだけだ。

そのだけ、が、今は一番強い。


認めたくなくて、右の掌へ爪を立てる。

指の中では、白百合めいた欠片が微かに温度を変えていた。

この欠片は、わたくしが `お嬢様` に近づく時ほどよく応じる。

いいえ、正しく言うなら、わたくしが「お嬢様であってほしい」と願う時ほど、ひどく正直になる。


だから今夜、これは役に立たない。

役に立たないどころか、持っているだけで危うい。


わたくしは袖の内で欠片を握り直し、それでも手放さない自分に呆れた。

未練がましい。

笑えるほどに。

けれど侍女は、役に立たないと分かっている物でも、主の部屋から勝手に捨てたりはしない。

いずれ要ると信じているからではない。

要らなかったと確定するまでは、勝手に処分する資格がないからだ。


その理屈で、わたくしはまだ自分の執着まで捨てられずにいる。


`金の目` が、また少しだけカイルの `左` へ重みを寄せる。

その寄せ方が、先ほどより深い。

預けるというより、うっかり乗せてしまっている。

その変化を見た瞬間、わたくしは息を止めた。


違う。

それでは駄目だ。

棚は棚でなければならない。

抱き留める腕になった瞬間、そこへ意味が生まれる。

守る者と守られる者、選ぶ者と選ばれる者。

そういう不潔な線が、すぐに引かれる。


「寄せすぎですわ」


気づけば、口が先に動いていた。


カイルがうっすらと眉を寄せる。

睨み返したいのはこちらの方だった。

こんな時まで、なぜわたくしがこの男の姿勢を見てやらなければならないのか。


「何がだ」

「左肩です」

「預けろって言ったのは俺だぞ」

「ええ。ですから、その言った責任をきちんと取りなさいな」


自分でも嫌になる物言いだった。

だが、丁寧にする余裕もない。


「持ち上げないで」

わたくしは一歩だけ寄り、しかし `金の目` には触れず、カイルの肘と肩の角度だけを目で測る。

「支えるのではなく、預からせているだけの形にして。抱いたら偏ります」


カイルの顔が露骨にしかめられる。

理解していない顔ではない。

理解したくない顔だ。

その顔に、ほんの少しだけ救われる。

この男は優しくしようとして失敗する手合いであって、優しさを旗に人を一つへ決める人間ではない。


「難しいことを言う」

「難しくしているのはあなたではなく、わたくしの方です」


言ったあとで、自分でも可笑しかった。

可笑しくて、少しだけ泣きたくなった。


わたくしが難しくしている。

本当にそうだ。

いまここで一番扱いづらいのは、教会の白い連中でも、セトの石でも、灰色の剣でもない。

おそらく、わたくしの口だ。

呼びたがる。

確かめたがる。

取り戻したがる。


その全部が、いまは害になる。


カイルが舌打ちする。

それから、あからさまに嫌そうな顔のまま、ほんの少しだけ肩を戻した。

戻しすぎれば落ちる。

残しすぎれば抱く。

その間の、実に腹立たしい角度。


すると `金の目` は、まるでそれを待っていたみたいに、すう、と深く息を入れた。

左へ預けた重みが、今度は沈まず、引っかからず、ひどく危うい薄さのまま止まる。


わたくしはそこでようやく、自分の役目が変わったことを認めた。


侍女は寝台に寝る者の代わりにはなれない。

剣を取って主の敵を斬ることはできても、眠りそのものにはなれない。

だから部屋を整える。

枕の高さを決める。

近づいてよい者と退かせるべき者を分ける。

言葉を減らし、光を削り、空気の動きまで支配する。


ならば今のわたくしが整えるべき `部屋` とは何か。


伏せ床だ。

白布の位置。

ヘルマンの部下たちの喉。

セトの石が鳴る間合い。

レオンが再び肩を差し込みたくなる癖。

そして何より、カイルの `左` が棚でいるための半歩外。


「そこの布、もう半枚だけ落としなさい」


気づけば、わたくしは教会の若い助祭へそんなことまで言っていた。

自分で言っておいて、ひどく気分が悪くなる。

何が悲しくて、白い制服を着た坊や相手に、主の寝所を整えるみたいな指図をしなければならないのか。


案の定、その助祭は反発しかけた。

目元に `異端` と書いてある、実に扱いやすい顔だった。

だが言葉になる前に、外からヘルマンの低い一声が落ちる。


「従え」


それだけだった。

祈祷も、説教も、威嚇もない。

ただ手順として押し切る声。


若い助祭が唇を噛み、布を半枚ぶんだけ下げる。

朝除けの影が少し深くなり、`金の目` の睫毛から余計な白みが消えた。

それを見て、わたくしは嫌な納得をしてしまう。


ああ、そうですか。

今夜のわたくしは、異端として教会に囲まれているのではなく、主の眠りを壊さないために、教会の手まで使って部屋を整えているのですね。


なんて醜悪で、なんて正しいのでしょう。


わたくしは、最初の接続役ではなくてよい。

よくはない。

ちっともよくない。

そんなもの、よいわけがない。


本当はわたくしが最初に受けたかった。

一番先に開いたその目が、誰にも決められていないうちに、わたくしの気配を覚えてくれればと、ほんの一瞬でも願った。

侍女として。

いいえ、もっと醜く。

置いていかれた女として。


けれど、それをやれば、きっとシオン様へ寄る。

わたくしが欲しかった答えが、わたくし自身の手で他の二人を削る。

そんなものは、忠誠でも何でもない。

ただの盗みだ。


「……ミナ」


レオンが低く呼ぶ。

止める声ではない。

確認だ。

お前はそこで耐えられるのか、と問う声。


耐えられるわけがないでしょう、と怒鳴り返したかった。

耐えているのではない。

譲っているのだ。

この半歩を。

この最初の返事を。

この、今だけ必要な棚を。


けれど譲ることと、渡すことは違う。


「大丈夫ですわ」

わたくしはレオンを見ずに言う。

「まだ、わたくしの仕事は残っています」


金の目が、わずかにこちらを向く。

その視線が胸に刺さる。

呼ぶな。

迎えるな。

決めるな。


分かっています。

分かっていて、それでも見てしまう。


だからわたくしは目を細め、主を見守る時の角度ではなく、拍を取る時の角度へ自分をずらした。

一人の人間としてではなく、部屋の一部として立つ。

白布と同じ。

石突きと同じ。

数えるだけの声と同じ。


「ひとつ」


小さく言う。

名ではない。

呼びかけでもない。


`金の目` の喉が、かすかに上下する。

カイルの `左` が持ちこたえる。

外で誰かが息を吸いかけ、ヘルマンの短い沈黙がそれを押し止める。


「ふたつ」


今度は少しだけ長く。

呼吸ではなく、間合いを数える。

ここで近寄るな。

ここで言葉を足すな。

ここで意味を欲しがるな。


わたくしが数えるたびに、白百合めいた欠片が袖の内で熱を変えた。

それはまだ、わたくしの未練をよく知っている。

三つと数えたら、お嬢様と呼びたくなることも。

四つと数えたら、膝をつきたくなることも。

五つを越えたら、きっと泣くことも。


だから二つで止める。

止めて、続きを言わない。


カイルがわずかにこちらを見る。

さっきまでの不機嫌さはそのままだが、目だけは、何をしているのか分かった顔だった。


「それでいいのか」

ぼそりと、あの男が言う。


何に対しての問いか。

数えが二つでいいのか。

最初の役目を譲っていいのか。

それとも、こいつを自分の左へ預けたままでいいのか。


どれでも同じだった。


「よくはありません」

わたくしは答える。

「でも、正しいのでしょう」


言った瞬間、腹の底が焼けた。

自分で認めたからだ。

いま正しいのが自分の願いではなく、カイルの `左` であることを。


けれど、その焼ける感じを抱いたままでも、わたくしは崩れなかった。

崩れなかったどころか、少しだけ立ち方が定まる。


侍女は、主に近い者を憎む仕事ではない。

主のために、その時いちばん近くにいる者を使える位置へ置く仕事だ。

泥街の運び屋だろうが、白い司祭だろうが、使えるなら使う。

使って、その上で朝まで保たせる。


`金の目` は、もう一度だけこちらを見た。

その視線には、まだ誰か一人の色がついていない。

ただ、こちらが呼ばないこと、奪わないこと、そして半歩外から部屋を整え始めたことだけを、たぶん感じ取っている。


それでいい。

それでよくはないが、それで壊れないなら十分だ。


「そのままですわ、カイル」

わたくしは最後に言う。

「預けられたままでいて」


それは命令ではない。

懇願でもない。

寝台の横に立つ侍女が、夜具を掛け直す前に下働きへ告げる、ごく小さな確認のような声だった。


カイルは返事をしない。

代わりに、左肩の高さだけを、もう一度だけわずかに整える。


それを見て、わたくしは初めて理解した。

今夜のわたくしは、主を取り戻す侍女ではない。

主を誰か一人にさせないため、他人の `左` を棚として使わせる侍女だ。


屈辱だった。

屈辱で、情けなくて、泣きそうで、吐きそうで、それでも目を逸らせない。


だが、その屈辱を引き受けるのも、侍女の仕事なのだろう。


朝が来れば、また別の戦いになる。

白い連中の記録欲も、帝国の物語も、セトの次の理屈も、きっとこの未確定を狙ってくる。

その時に、お嬢様を誰か一人の帰還へ押し込めないための支度を、わたくしは今から始めなければならない。


だから、譲る。

今だけは。

この半歩だけは。


けれど、渡しはしない。


帝国暦849年。冬。

ミナは、`金の目` を先に開いた不完全覚醒へ対する最初の接続役が自分ではなくカイルの `左` になったことを、侍女として最も苦い形で受け入れました。そのうえで彼女は、`お嬢様` と呼んで引き寄せるのではなく、`抱くな、預からせておけ` という実務の視点からカイルの姿勢を整え、自らは `半歩外の部屋を整える侍女` として拍と距離を管理する側へ回ります。局面はこうして、`未確定のまま最初の接続を作る` 段階から、さらに `未確定のまま接続を譲り、壊さず保持する` 段階へ進み始めたのです。

感想・ブクマ・評価、どれも本当に励みになっています。ありがとうございます!

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