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泥濘(でいねい)のレクイエム ―英雄の残火と、つぎはぎの神魔―  作者: 堀吉 蔵人
第2部

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第94話:左へ預けろ、金の目の返事 【カイル】

いつもお読みいただきありがとうございます。感想お待ちしています!

運び屋は、荷にいちいち立派な名前をつけない。


細長い箱は細長い箱。

濡れた袋は濡れた袋。

中身が高かろうが、呪われていようが、腹を裂いて覗くまでは「重い方」「割れる方」「濡らすな」で済ませる。


そういう雑な言い方をしていると、人でなしだとか、情が薄いだとか言われる。

だが逆だ。

名前を先につけると、重さの本当のかかり方を見落とす。

高級酒だと思って持てば、割りたくなくて手首が固まる。

死体だと思って担げば、余計に力んで腰をやる。

荷はまず荷として持つ。

意味は後だ。


いまなら、その理由が嫌というほど分かる。


伏せ床の内側で、金の目が開いたまま俺を見ていた。

いや、見ているようで、まだ俺ひとりに決めていない。

そういう目だった。


右は切られた。

ひじの線で、セトがあの忌々しい石をぶつけたおかげで、灰色の剣が勝手に何かを一人で起こす流れは止まった。

止まったが、楽になったわけじゃない。

痛みの形が変わっただけだ。

右の熱は、腕から少し外へ逃げたぶん、逆に身体の輪郭が変な具合に薄くなった。

肘から先がなくなったみたいな軽さと、肩の奥へ鉛を流し込まれたみたいな重さが一緒にいる。


その代わり、左だけがやけにはっきりしていた。

俺の左は、いまこの場で最後まで残していい棚らしい。

棚。

人相手に使うには最低な言い方だ。

でも、今はそのくらい雑な方が助かる。


英雄でもない。

聖女でもない。

魔王でもない。

棚だ。

少なくとも俺の役目は、それでいい。


外では、ヘルマンとかいう白衣の嫌な司祭が、部下の喉を締めるみたいに言葉を減らしていた。

意味を足すな。

名前を置くな。

位置と数だけで回せ。


正直、最初は何様だと思った。

こっちは右を半分持っていかれているのに、外から偉そうにルールばかり増やしやがってと。

だが、少し考えれば分かる。

あれはあれで、向こう側の連中を殴るための言葉なのだ。

勝手に `英雄` とか `異端` とか呼び出す口を、司祭の権威でぶん殴って黙らせている。


ミナはミナで、もっと腹立たしいやり方をしていた。

呼びたいくせに呼ばない。

触れたいくせに触れない。

目の前で金の目が開いているのに、白百合の欠片を伏せたまま、寝台係みたいな顔で呼吸の深さだけ見ている。


全員、おかしい。

けれど、たぶんそのおかしさでぎりぎり持っている。


もしここで誰かが「あいつはアレンだ」と決めたらどうなるか。

たぶんミナの顔が変わる。

教会の白い連中の構えも変わる。

セトは理屈を急ぐだろうし、レオンは俺の肩をもっと深く拾いに来るかもしれない。


逆に「怪物だ」と決まれば、もっと単純に終わる。

白布が落ちて、槍が寄って、右の灰色ごと全部ひっくり返る。


どっちも駄目だ。

そういうのは、見ていれば俺にだって分かる。

分かるが、分かったところで、じゃあ俺は何を言えばいい。


名前を呼ぶな、と言われた。

喋るな、とも言われた。

でも、金の目はさっきから何度もこっちを見ている。

見ているというより、俺の左がどこまで棚でいられるか測っているみたいだった。


それはそうだ。

今のこいつに一番近いのは、たぶん俺の左だ。

ミナは半歩外。

レオンは外から肩。

セトはもっと後ろ。

教会の連中は論外。


残りの二人を切らないまま最初に目を開いた奴にとって、一番近くて、一番信用できなくて、一番使わざるを得ないのが俺の左というわけだ。

本当にろくでもない位置だと思う。


「おい」


気づけば、喉が勝手に鳴っていた。

ヘルマンに短くしろと言われたのを思い出して、舌打ちしたくなる。

だが、一度出た声は戻らない。


金の目が、ぴくりとこっちを向く。

左の黒はまだ重いままだが、その下で何かが遅れて揺れた。

二人いる。

本当に。

分かっていたつもりだったが、こうして一つの顔の中で別々の重さがずれるのを見ると、腹の底が変なふうに冷える。


「……落ちるな」


我ながら最低の第一声だった。

もっとましなことはないのか、と自分で思う。

だが仕方ない。

俺の口は、こういう時に綺麗な慰めを吐ける作りになっていない。


それに、嘘ではなかった。

今いちばん困るのは、こいつが誰か一人になることより先に、単純にこの伏せ床からずるっと崩れることだ。


金の目は、ぱち、と遅く瞬いた。

その反応が、少しだけ予想外だった。

怒りも、拒絶もない。

むしろ、通じたかどうかを確かめる子供みたいな瞬きだ。


「……おちる」


掠れた声が返ってくる。

自分のことを言っているのか。

それとも、いま全体で起きかけていることを言っているのか。

分からない。

分からないが、少なくとも意味の種類は同じだった。


落ちる。

中央へか。

外へか。

誰か一人へか。


全部だろう。

だから俺は、考える前に言った。


「だったら左に預けろ」


ミナが外で、ほんの少しだけ息を呑む。

セトも聞いているだろう。

ヘルマンあたりは、また余計なことをと顔をしかめたかもしれない。

だが、もう知らない。

これは名前じゃない。

意味づけでもない。

ただの荷運びの言葉だ。


「右はもう当てるな」

俺は続ける。

「痛いなら左へ逃がせ。そっちは、まだ持つ」


言いながら、左肩をほんの少しだけ下げる。

深く差し出しすぎない。

差し出しすぎれば、今度は俺の方が「支える相手」を決めてしまう。

だから、あくまで棚だ。

そこにあるから使え、くらいの角度で残す。


金の目が、その小さな動きだけは見逃さなかった。

まぶたの裏にまだ二人分を抱えている顔で、ほんの少しだけこちらへ重みを寄せる。

それだけで、背骨の奥に細い冷えが走る。


軽い。

のに、重い。


小娘ひとり分の体重なら、泥街じゃ米袋より軽い。

なのにいま左へ乗ってきたものは、体重よりも「決めきっていない重さ」の方が大きかった。

アレンかもしれない。

エリスかもしれない。

シオンかもしれない。

そのどれにも完全にはならないまま、半分だけ預けてくる。


ぞっとする。

だが、そのぞっとする感じが少しだけ収まった時、初めて分かった。

こうやって預けてくる限り、まだ一人にはなっていない。


「……かいる」


今度の声は、さっきよりわずかにはっきりしていた。


俺は一瞬、身構えた。

自分の名前がどうしてこんなに嫌な感じで響くんだと思う。

呼ばれたくないわけじゃない。

ただ、この場で名前ってやつは、たいてい何かを決める前触れだからだ。


けれど違った。

こいつは俺に意味を乗せたんじゃない。

ただ、さっき俺が自分で吐いた音を返してきただけだ。

確認だ。

道具の名前じゃない。

手順の中で使う印みたいなものだ。


「そうだ」

俺は短く返す。

「お前は」


そこまで言って、喉が止まる。

危なかった。

その先を続けたら、何か一つに決めてしまうところだった。


お前は誰だ、でも駄目。

お前はアレンか、なんて論外。

お前は大丈夫か、だって少し危ない。

大丈夫って言葉は、相手を一つの状態へまとめようとするから。


だから飲み込む。

代わりに、もっと雑で、もっと今だけに役立つ言葉へ変える。


「……そこでいい」


金の目が揺れる。

俺の左へ預けた重みが、ほんの少しだけ深くなる。

その深さで分かった。

ミナの迎え方と、ヘルマンの止め方と、俺の左が、たまたま同じ方向へ噛み合ったのだ。


誰が帰ったかは、まだ決まらない。

でも、今ここで落ちない角度だけは決まる。


それで十分だ。

十分じゃないのは分かっている。

朝が来れば、もっと面倒になる。

教会の白い連中も、帝国も、きっと名前が欲しくなる。

セトは次の線を見始めているし、レオンだっていつまでも肩だけで済むとは思っていない。


それでも、今の俺にできるのはこのくらいだ。

左を残す。

右を近づけない。

喋るなら、荷運びの言葉だけにする。


外でミナが、低く息を吐くのが聞こえた。

安堵したのか、怒っているのか、区別はつかない。

でも、その区別がつかないこと自体が今はありがたかった。

あいつがはっきり喜んだり、はっきり泣いたりしたら、たぶんまた黒が揺れる。


「……まだ」


金の目が、もう一度だけ言う。

問いではない。

確認でもない。

たぶん、自分に言い聞かせている。


「ああ」

俺は返す。

「まだでいい」


それは英雄へ向けた言葉じゃない。

聖女へ向けた慰めでもない。

もちろん魔王への宣戦布告でもない。

右を半分切られて、左だけで荷を支えている運び屋が、同じく半分だけ起きてしまった相手へ投げる、情けない相槌だった。


だが、その情けなさがよかったのかもしれない。

立派なことを言えば、こいつはそちらへ寄る。

みっともないくらい平らな言葉の方が、まだ三人ぶんを抱えていられる。


その時、外周で若い兵がまた何か言いかけた。

ヘルマンの短い一声が飛び、喉ごと押し潰される。

セトは観測石を握ったまま、今度は叫ばない。

レオンも肩を入れない。

全員が、こっちのたった二言三言を壊さないために、妙に真面目な顔で自分を止めていた。


笑いそうになる。

こんなに嫌な面子が、こんなに嫌な連携で、たかだか一つの会話を守っている。

泥街の酒場で話したら、誰も信じない。


けれど現実だった。


金の目はもう、さっきみたいに俺を刺すようには見てこない。

かといって懐いたわけでもない。

ただ、左へ預けた重みだけはそのままに、前へ出す痛みと後ろへ残す二人を、どうにか一つの身体へ押し込めている。


それを見ていると、妙なことを思う。

こいつを守る、とは少し違う。

起こした責任、でもたぶん足りない。

もっと泥臭くて、もっと小さい。


落としたくない。


たぶん今の俺にあるのは、それだけだった。

英雄の残火とか、世界の希望とか、そういう大袈裟なものは知らない。

ただ、自分の左へ半分だけ預けてきた重みを、ここで雑に落とすのは寝覚めが悪い。


「おい」

俺はもう一度だけ言う。

「次に痛くなったら、言え。短くでいい」


金の目が、ほんの少しだけ細くなる。

笑ったわけじゃない。

でも、嫌ではない顔だった。


「……うん」


子供みたいな返事だった。

そしてその子供っぽさに、ミナがまた息を止め、セトが観測石を握る手を緩め、ヘルマンは何も言わないまま外周の語数をさらに減らした。


誰もそれを `帰還` とは呼ばない。

誰も `確定` とは言わない。

ただ、未確定のまま、最初の返事だけが通った。


それでいい。

今はそれで、十分だ。


帝国暦849年。冬。

カイルは、`金の目` を先に開いた不完全覚醒へ向けて、誰の名も問わず、ただ `左へ預けろ` `まだでいい` という荷運びの言葉だけを差し出しました。これにより最初の起き役は、`誰か一人の完成形` としてではなく、なお内側に二人を抱えたまま、保持者の `左` を暫定の棚として使う形で外側と最初の対話を結びます。局面はこうして、`名を与えず未確定のまま朝へ渡す` 段階から、さらに `未確定のまま最初の接続を作る` 段階へ進んだのです。

お読みいただきありがとうございました。次回もお楽しみに!

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