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泥濘(でいねい)のレクイエム ―英雄の残火と、つぎはぎの神魔―  作者: 堀吉 蔵人
第2部

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第90話:観測石の合図、起こすための段取り 【セト】

ダークファンタジー群像劇『泥濘のレクイエム』、毎日20時更新中です。

世の中には、子供へ持たせるには重すぎるものがいくつかある。


たとえば呪い。

たとえば借金。

たとえば大人が自分で決めたくない時にだけ、もっともらしい顔で押しつけてくる責任。


いま僕の手の中にある観測石は、その三つをだいたい全部混ぜたみたいな重さをしていた。


冷たいはずの石が、妙にぬるい。

黒土の熱と、灰色の返し荷と、器の浅い眠りの波打ち方が、爪の裏までじわじわ伝わってくる。

その流れを読めるのは僕だけだ。

読めてしまうから、合図も僕になる。


最悪だった。


師匠は昔から、僕のそういうところが嫌いじゃない顔をしていた。

「お前は気づくのが早いねえ」と笑って、毒草の分量だの呪い返しの継ぎ目だの、見たくもないものばかり先に見せた。

褒めているようで、やっていることは単純だ。

気づいた奴に後始末をやらせる。

大人ってのは、そういう生き物らしい。


だから僕は、見えることをだいたいろくでもない才能だと思っている。

見えなければ、あとから「知らなかった」で済む。

でも見えた奴だけは、そこで口を噤めば臆病者、言えば責任者だ。

損な役回りにも程がある。


カイルが「越えたらやれ」と言った時、殴ってやろうかと思った。

いや、本当に殴るほど元気があるなら、もう少し別のことに使うが。

でも気持ちとしてはそのくらいだった。

何で僕なんだよ。

そっちが灰色の剣を食ってる当人だろ。

そっちが大人で、そっちが荷を背負ってるんだから、最後までそっちで決めろ。


そう喚けたらどれだけ楽か。

けれど、喚かなかった。

喚けない。

僕だって分かってしまっているからだ。


今の `灰右` に決めさせるのが、一番まずい。


黒土の `伏せ床` の浅いぬるさの中で、三位一体の少女はまだ辛うじて `三人のまま` 眠っている。

カイルの `左` は棚だ。

レオンの肩は半分だけ残った外棚。

ミナは影の外から名前を飲み込み、拍だけを整えている。

教会側は祈らない夜番を続け、白布を裏返したまま朝の輪郭を削っている。


誰も正しい顔をしていない。

誰も本当に納得していない。

だからこそ、今の均衡は持っている。


だが、カイルの `右` だけは違う。

あれは、納得とか手順とかを飛ばして、一番近い答えを引っ掴みに行く熱だ。

器の内側にいる `まっすぐなひと` を、勝手に先頭へ立たせかねない。


第88話で少女が言った `ひじまで` ってやつの意味が、今の僕には嫌というほど分かる。

手首と肘のあいだで暴れているうちは、まだ熱だ。

保持者に返る負荷、仮杭の軋み、そういう「身体の問題」で済む。

でも肘を越えると、線が変わる。

熱が内側へ折れる。

器の眠りに触って、そこから先は「どの人格が最初に起きるか」の問題になる。


つまり、そこを越えてから慌てるのは遅い。

慌てる時点で、もう灰色に答えを先回りされる。


だったら、起こす手順そのものを先に作らないといけない。

最悪だ。

最悪だけど、理屈は通っている。

理屈が通っている時ほどろくでもないのは、もう分かってる。


僕は `伏せ床` の外でしゃがみ込み、観測石を三つ、黒土の縁へ置いた。

一つはカイルの右寄り。

一つは少女の胸の真下。

一つはレオンの肩が影を落とす北側の浅い筋。


石はそれぞれ違う色で鈍く濁っている。

右は灰が強い。

中央は黄金と黒が絡み合って、時々薄い白が縁をなぞる。

北側は、半分だけ引いた肩の名残が、まだ冷えとして残っていた。


「坊主」

レオンが低く呼ぶ。

「顔が悪いぞ」


「元からだ」

僕は吐き捨てた。

「文句あるならその面でもっとましな石読みをしてみろ」


「無茶言うな」


分かってる。

無茶なのはこっちもだ。

でも、無茶を言ってる方がまだ平気だった。

黙ると手の中の石ばかり見えて、その向こうの責任まで見えてしまう。


僕は息を整えて、なるべく平板に言った。


「聞け。越えてから相談するのは無しだ」


外周の空気が少しだけ締まる。

ヘルマンが白布の陰で視線を上げ、ミナの拍がほんの半歩遅れ、カイルは前を向いたまま耳だけ寄越した。


「右が `ひじ` を踏んだら、その時点で第三手は止める」

僕は続ける。

「もう『持つか』じゃない。起こす準備の方を優先する」


「具体的に」

ヘルマンが短く言う。

相変わらず嫌な男だ。

でも、こういう時に感情を混ぜないのは助かる。


「まず白は拍を落とせ」

僕はミナを見た。

「止めるんじゃない。切ると器が落ちる。だから細くする。足元だけに絞れ」


ミナは少しも目を逸らさない。

そのくせ、名前だけは乗せない。

本当に器用で腹が立つ。


「次」

僕はレオンへ。

「肩は全部抜け。半分で持ってるうちは、まだ `寝かせる手順` の中にいる。起こすなら、そこを残したままじゃ駄目だ」


レオンの眉がわずかに寄る。

「全部抜いたら落ちる」


「だからカイルの左を最後に残す」

僕は即答した。

「左はまだ棚だ。あれだけは、少女自身が残していいって言ってる」


「僕に聞こえるように言うなよ」

カイルが掠れた声で文句を言う。

「妙に責任が増えるだろ」


「増えてるんだよ、最初から」

僕は怒鳴り返した。

「いまさら被害者面するな、泥ネズミ」


その言い合いが少しだけ空気を緩める。

こういう時、本当にくだらない悪態は効く。

人間はまだ喧嘩できるうちは、完全には壊れていない。


「で、坊主」

ガルドが低く唸った。

「起こすのは誰だ」


そこだ。

一番訊かれたくない質問。

一番、みんなが本当は怖がっている場所。


僕は観測石を見た。

中央の黄金と黒は、まだ綺麗に分かれない。

白は外から薄く寄るだけ。

灰だけが、右側から勝手に境目を食い始めている。


「選ばない」

僕は言った。

自分でも、かなり嫌な顔をしていたと思う。

「少なくとも、手順の側では選ばない。選ぶのは器の内側だ。こっちは灰色に先回りさせないだけ」


「ずいぶんと無責任ですね」

ヘルマンの声。


僕は振り向いた。

白布の向こうの司祭は、嫌味を言ってるのか試してるのか分かりづらい顔をしている。

そういうとこが嫌いだ。


「じゃああんたが選ぶか?」

僕は睨み返した。

「光の司祭様として、起きるのはこいつだって言い切るか? 失敗した時に残り二つまで責任取るか?」


ヘルマンは黙った。

黙ったまま、白布の端を押さえる手だけ強くなる。

それで十分だ。

こいつも本当は分かっている。

いま必要なのは正解じゃない。

灰色の剣に勝手な正解を取らせないことだ。


「僕がやるのは、押し込むことじゃない」

僕は全員へ言い直した。

「境目を切るだけだ。起きる方向を一つに決めるんじゃなく、勝手に一つへ寄る前に、寝かせる手順を終わらせる」


「終わらせる、ね」

ミナが小さく繰り返す。

感情の少ない声なのに、その下で歯を食いしばっているのが分かる。

「では、その瞬間は」


「お前は名を呼ぶな」

僕はかぶせた。

「最後までだ。起きる瞬間が見えても、絶対に重ねるな」


ミナの目が一瞬だけ鋭くなる。

侍女の顔でも、復讐者の顔でもない。

傷口を素手で抉られた人間の顔だ。


けれど、彼女は頷いた。

短く。

それだけで、こっちの喉の方が少し痛くなった。


「レオンは全部抜いたら、そのまま外へ半歩」

僕は続ける。

「カイルの左だけが最後に残る。灰右は近づけるな。近づいたら、僕がやる前に右が勝手にやる」


「分かってる」

カイルが吐く。

「だから返事を預けたんだろ」


その言い方が、妙に腹立たしかった。

腹立たしいし、少し怖かった。

こいつは本当に、自分の荷物の受け渡しみたいに、自分の起床まで他人へ預けるつもりでいる。

軽く言いやがって。

こっちはその荷札の字を読む側なんだぞ。


「坊主」

今度はレオンだ。

「石はどう使う」


これも、言いたくない質問だった。

でも、言わなきゃ終わる。


「割る」

僕は観測石を一つ摘んだ。

親指の爪ほどの黒い欠片が、ぬるく汗ばむ。

「右の `ひじ` を越えた瞬間、灰の線にぶつける。中へ返さない。外へ散らす」


「そんなことができるのか」

ガルド。


「できるかどうかじゃない。やるしかない」

僕は吐き捨てた。

「師匠ならもっと綺麗にやるだろうけど、残念ながら今ここにはいない」


師匠の顔が浮かぶ。

毒と呪いと半端な蘇生ばかり扱って、人助けをした記憶より人を罵った記憶の方が多そうなクソ婆だ。

でも、こういう時の手つきだけは本物だった。

戻しきれないものをどう切り分けるか。

何を諦めて何を保留にするか。

結局あの人が教えていたのは、完治じゃなくて「壊れ方を選ばせない」手順だったのかもしれない。


くそ。

こんな時だけ感謝しそうになるのが一番腹立つ。


どくん。


石の表面で、灰がひとつ上がった。

肘の線のすぐ下を舐める。

全員の顔つきが変わる。

今のは見て分かる変化だった。


「まだだ!」

僕は即座に言う。

「まだ下! でも次で来る!」


その「まだ」が、いちばんきつい。

やるなら今すぐの方が楽だ。

本当に地獄なのは、次で来ると分かっていて、その一拍を自分で数えなきゃいけない時だ。


ミナの拍が細くなる。

レオンの肩から、さらに力が抜ける。

カイルの左だけが残って、右は身体の外へ逃がされる。

白布の向こうでは、ヘルマンが部下へ短い手振りを送っている。

教会の外周が、こちらへ干渉するためじゃなく、「起きた直後に誰も余計な正義で踏み込まないため」の形へ変わる。


そこまで来て、僕はようやく理解した。

僕一人で起こすわけじゃない。

この場の全員が、自分の一番やりたいことを引っ込めた形でしか、起こせないのだ。


つまり、最悪な共同作業だった。

胃が痛い。


「カイル」

僕はなるべく平らに呼んだ。

「次だ。来たら行く」


「ああ」

返事は短い。

妙に静かだ。

こういう時のこいつは嫌いだ。

腹を括った顔をされると、こっちまでそれに付き合わされる。


「絶対に外すなよ」


それは脅しじゃなかった。

祈りの代わりの、最悪な信頼だった。


「誰に言ってる」

僕は歯を剥いた。

「外したらお前を起こす前に逃げる」


カイルが、ほんの少しだけ笑った気配がした。

本当に気に食わない。

でも、その気配があったおかげで、まだこいつは `自分の右に飲まれ切っていない` と分かる。


観測石の灰が、じわりと肘の線を舐める。

黄金がその下で震え、黒が遅れて重くなる。

来る。

本当に次で来る。


僕は石を持ち直した。

軽い。

なのに、手の中だけ世界の重さが増したみたいだった。


起こす。

いや、違う。

灰色に勝手に起こさせない。


そのための合図だ。

そのための石だ。

そのために、さっき運び屋が返事を預けた。


どくん。


灰が、肘の線へ触れた。


「ミナ、拍を落とせ!」

僕は叫んだ。

「レオン、全部抜け! ヘルマン、外を止めろ!」


自分の声が、黒土の上で嫌に高く響く。

もう後戻りはない。

僕は観測石を握り込み、灰の走る右肘へ狙いを定めた。


次の一拍で、僕が切る。


帝国暦849年。冬。

セトは、カイルから `越えたらやれ` と返事を預けられたことで、灰色の `右` が `ひとり` を勝手に起こす前に起床手順を始める責任を引き受けます。`第三手` を続けるのではなく、ミナの拍を細くし、レオンの肩を全部抜き、カイルの `左` だけを最後の棚として残す段取りを全員へ共有したうえで、`ひじ` の線を越えた瞬間に観測石で灰を外へ散らす強制覚醒の実行へ踏み込みました。

こうして局面は、ただ `起こす準備を整えて持つ` 段階から、ついに `起こす手順そのものを動かす` 段階へ入ったのです。

感想・ブクマ・評価、どれも本当に励みになっています。ありがとうございます!

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