第89話:肘までの灰、運び屋の返事 【カイル】
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荷運びやってて、聞きたくない言葉はいくつかある。
「割れた」とか、「腐ってる」とか、「追手だ」とか。
そういうのは分かりやすく最悪だ。
でも、今の俺にとっていちばん聞きたくなかったのは、もっと短い一言だった。
ひとり。
あの小娘が、掠れた声でそう言った時、黒土の上の空気が少し変わった。
周りの連中も息を呑んだ気配がした。
けど、一番ぞっとしたのはたぶん俺だ。
理由は簡単だ。
その `ひとり` を呼び寄せる線が、どうやら俺の右腕に引かれてるからだった。
「右は肘まで」
「越えたら、ひとり」
聞こえた言葉はそれだけだ。
なのに、変に分かってしまった。
意味まできれいに説明できるわけじゃない。
でも泥街じゃ、荷の壊れ方ってのは、頭で覚えるより先に身体が覚える。
きしむ場所、外れる場所、これ以上やったら駄目って線。
あの言い方は、そういう線の言い方だった。
熱い。
右腕の中で、灰色の剣がまた脈を打つ。
手首から肘、肘から肩へ、骨の裏にぬるい鉛を流し込まれるみたいな熱がじわじわ上がる。
痛い、じゃ足りない。
右だけで別の生き物を飼ってるみたいで気持ち悪い。
しかも厄介なことに、熱が強くなるほど、ただの痛みじゃ済まなくなる。
たまに混じるのだ。
俺のもんじゃない、妙に真っ直ぐな衝動が。
立て。
前へ出ろ。
そこで答えを一つにしろ。
そんな声そのものが聞こえるわけじゃない。
でも、右の奥でそういう形の力が起き上がる。
分けろ、決めろ、一人にしろ。
そういう、嫌にきれいな方向の力だ。
ふざけるなと思う。
こっちはずっと、決めきらないために踏ん張ってるんだ。
落とさないために、みんなして自分の欲を半歩ずつ引っ込めてる。
それを右腕一本が台無しにするなら、たまったもんじゃない。
目の前の銀髪は、まだ `伏せ床` に全部を預け切っていない。
黒い翼は縮んでいるが、消えてない。
黄金と黒の目も、いまは閉じているくせに、気配だけはまだ三つぶんある。
その半歩後ろで、俺の左が残ってる。
さっき、あの子は `ひだり、まだ` と言った。
最初は意味が分からなかった。
でも今は少し分かる。
左は、選ばない。
守る、とか。
助ける、とか。
取り返す、とか。
そういう立派なことは考えてない。
ただ、落ちたら困るから、そこにある。
誰か一人に肩入れしない。
そういう雑さのまま残ってる。
たぶん、それでいいんだろう。
今この場で一番要るのは、綺麗な覚悟じゃない。
汚いまま、決めきらない手だ。
対して右は最悪だ。
熱くなるほど、何か一つに決めたがる。
しかも俺じゃない誰かの真っ直ぐさまで混ぜてくる。
「カイル」
左の外から、レオンの低い声。
肩は半分抜けたままだ。
でも完全には消えていない。
さっきあの子が言ったとおり、半分でいいらしい。
それがまた腹立たしかった。
腹立たしいが、その半分に今の俺はだいぶ助けられている。
「まだ持つか」
簡単に聞いてくる。
こっちは簡単に答えられる身体じゃない。
だが、そういう聞き方をされる方が助かる。
大丈夫か、とか、無理するな、とか、そういう甘い言葉は今いらない。
「持つ」
俺は息の合間に吐いた。
「でも、長くは持たねぇ」
「だろうな」
ひどい返事だ。
でも、ちょうどいい。
外ではミナがもう名前を乗せない。
教会の白い連中も祈らない。
セトはたぶん、今にも俺の右をひん剥いて観測石でも突っ込みたい顔で、でもそれを我慢している。
全員、次の答えがどこにあるか分かってる。
分かってて、誰も勝手に言わない。
俺がその中心にいるのが、本当に嫌だった。
運び屋は荷物の中身まで責任取らない。
壊したら弁償だし、落としたら半殺しにはされる。
でも、本来はそれだけだ。
荷を開けた先の人生まで背負う義理はない。
なのに今は違う。
この銀髪の中に誰がいるか、どう起きるか、その順番の責任まで、右腕一本経由でこっちへ回ってきてる。
笑えるか。
細長い箱を運んでたら、いつの間にか誰を一番先に起こすかの引き金係だ。
しかも最悪なのは、その「一番先」が、たぶん一番きれいな顔をして出てくるってことだった。
俺は英雄なんて柄じゃない。
柄じゃないからこそ分かる。
きれいな答えは、だいたい後ろで誰かを潰してる。
正しい顔をした決断ほど、後で値札が高い。
泥街じゃ、そういうのを何度も見た。
立派な兄貴分が「俺に任せろ」と前へ出て、残りのガキどもに借金だけ置いて死んだり。
上等な商人が「公平に分ける」と言いながら、一番声の小さい奴から切り捨てたり。
だから俺は、きれいに決める奴をあんまり信用してない。
もしこの右が勝手に答えを引いたら、きっとそうなる。
誰か一人が、いちばん立派な顔で起きる。
その代わり、残りは置いていかれる。
そんなのは御免だった。
どくん。
次の脈で、肘の内側が焼けた。
びく、と右手が勝手に閉じる。
まずい。
今のは分かりやすかった。
線のすぐ下だ。
「坊主」
俺は前を見たまま言った。
「いま、どこだ」
セトは一拍遅れて答えた。
たぶん観測石を見たのだろう。
「まだ肘の下」
声が硬い。
「でも、薄い。次で踏むかもしれない」
次で踏む。
嫌な言い方だが、たぶん正しい。
足元の石段みたいに、熱にも段があるのだろう。
今の右は、その一番嫌な段の縁でぐらついている。
「越えたら」
俺は喉の奥の鉄臭さを飲み込んだ。
「どうなる」
沈黙。
セトが答えたくない時の沈黙だった。
「坊主」
レオンが低く促す。
「……誰か一人が先に立つ」
セトがようやく言った。
「多分、灰に一番近い方だ。三人のままじゃ起きられなくなる」
多分。
一番近い方。
三人のままじゃない。
どれも最悪だ。
だが、分からないまま怯えるよりはましだった。
少なくとも、右腕の中で何が起きかけてるかだけは、名前がついた。
俺はそこで、妙に落ち着いた。
怖くなくなったわけじゃない。
逆だ。
怖さの形が分かったせいで、腹が据わった。
要するに、俺がこのまま「まだ持てる」で粘りすぎると、勝手に誰か一人を起こす。
それは駄目だ。
この場で一番やっちゃいけないのは、俺の右の都合で答えを先に決めることだ。
だったら、返事だけは先に渡しておくしかない。
「カイル?」
今度はミナの声だった。
低い。
平らだ。
でも、その平らさの下で、喉を切りそうなくらい張っているのが分かる。
「貴方の右、今どのくらいです」
侍女みたいな口調のくせに、聞いてることは容赦がない。
好きじゃない。
だが、今はそれで助かる。
「肘のすぐ下」
短く答える。
すると外縁の白が、わずかにだけ止まった。
本当に少しだ。
でも、その一瞬にあいつの中で何かが沈んだのが分かった。
たぶん、期待とか願いとか、そういうのだ。
「なら」
ミナはすぐに続けた。
「次は、貴方が耐えるかではありません」
腹が立った。
腹が立ったが、その通りだった。
「分かってる」
俺は吐き捨てる。
「だから聞いてるんだろ」
右がまた脈打つ。
今度は肘だけじゃない。
その少し上、二の腕の内側までぬるく焼けた。
胸の奥に細い棘が入る。
ああ、これか、と分かった。
あの小娘が言ってた `ひじ` の意味。
ここを越えたら、熱が腕の中で済まなくなる。
もっと内側へ来る。
俺の身体の話じゃなく、向こうの答えを勝手に引っ張る熱になる。
「レオン」
俺は言った。
「何だ」
「越えたら、俺に聞くな」
声にした瞬間、自分でびっくりするほどあっさり出た。
もっと嫌がると思っていた。
もう少し格好悪く、もったいぶるかと思っていた。
でも実際は違った。
言わない方がださいと分かったからだ。
「坊主の石を使え。迷うな」
レオンの肩がわずかに強ばる。
それでも声は平らだった。
「お前はそれでいいのか」
その問いは厄介だった。
いいわけがない。
自分の右が、誰か一人を勝手に起こすかもしれないなんて最悪だし、その前に他人へ「やれ」と渡すのも胸くそ悪い。
けど、好き嫌いで選べる場面じゃない。
「よくはねぇよ」
俺は笑いそうになって、やめた。
「でも、俺の右に決めさせるよりはましだ」
沈黙のあと、レオンが短く答えた。
「分かった」
それで十分だった。
セトが何か言いかけて、飲み込む。
たぶん珍しく、気の利いた慰めでも浮かんだのだろう。
いらない。
今ほしいのは慰めじゃない。
手順が動くって確認だけだ。
「坊主」
俺は続ける。
「石、手放すな」
「当たり前だ」
いつもの苛立った声。
それで少しだけ安心する。
「越えたらすぐやる。だからお前は越える前に言え」
無茶を言う。
でも、その無茶が今の俺たちの仕事だ。
俺は左手の角度を変えた。
抱き込まない。
持ち上げすぎない。
ただ、落ちる時だけ受けられる位置。
右はなるべく遠く。
肘から先を自分の身体の外へ逃がす。
運び屋の癖で分かる。
荷物ってのは、真正面から支えると潰れる時がある。
少し斜めに、逃げ道だけ残した方がもつ。
今やってるのは、それと同じだった。
抱えるんじゃない。
崩れた時だけ拾う。
きっと、あの小娘が `左はまだ` と言った意味も、そういうことなんだろう。
どくん。
また来る。
でも、さっきより少しだけましだ。
肘の下で止まる。
止まった、というだけで褒められた状況じゃない。
それでも一拍稼げた。
一拍あれば、次を選べる。
次を選べるなら、まだ俺の右だけの話じゃない。
目の前の銀髪が、小さく息を吐いた。
眠っているはずなのに、その吐き方だけで、まだ三つがこぼれていないと分かる。
そのことに、妙な安堵が来た。
英雄だの聖女だの魔王だの、正直どうでもいい。
そんなでかい看板の話じゃない。
目の前で三つが一つへ潰されるのが嫌なだけだ。
嫌だから、まだ持つ。
でも、持つだけで勝手に決めるのはもっと嫌だ。
守るってのは、抱え続けることじゃないのかもしれない。
落とす前に、いつ手を放すかの返事を用意しておくことなのかもしれない。
そんな面倒なこと、泥街じゃ誰も教えてくれなかった。
教えてくれなかったが、今さら文句を言っても遅い。
「まだ下だ」
セトが観測石越しに言う。
「次も来るぞ」
「来るだろうな」
俺は息を整えた。
「だから見てろ。越えたらやれ」
それを言って、ようやく少しだけ腹が据わった。
英雄みたいな覚悟じゃない。
運び屋の返事だ。
落とす前に、受け渡しの合図を決めただけ。
でも今は、それで十分だった。
俺は左を残したまま、右肘の内側だけを強く意識する。
ここが線だ。
ここを越えたら、もう俺一人じゃない。
だから、越える前に返事を渡した。
黒土の上で、白布が低く鳴る。
外では誰も祈らない。
半分だけ残った肩、影の外で止まる白、観測石を握る坊主、外周を押さえる白衣、みんなが次の一拍だけを待っている。
その真ん中で俺は、自分の右腕が英雄の返事じゃなく、ただの合図で済むことを祈りたくなった。
でも祈るなって話だったな、とすぐに思い出す。
だから代わりに、前だけを見た。
次の一拍が来るまで、まだ落とさないために。
帝国暦849年。冬。
カイルは、三位一体の少女が告げた `左はまだ`、`右は肘まで`、`越えたらひとり` という断片を、初めて自分の身体の線として理解します。灰色の `右` はもはや単なる返し荷の受け口ではなく、三人のうち誰か一人を勝手に先へ立たせかねない引き金であり、このまま自分が `まだ持てる` と粘ること自体が答えを歪めると認めざるを得ません。
そのため彼は、`ひじ` を越えたら自分の返事を待たずにセトの観測石で強制覚醒へ切れ、とレオンたちへ先に返事を預けました。こうして局面は、ただ耐える段階から、カイル自身の了解のもとで `起こす準備を整えたうえで持つ` 段階へ進んだのです。
お読みいただきありがとうございました。次回もお楽しみに!




