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泥濘(でいねい)のレクイエム ―英雄の残火と、つぎはぎの神魔―  作者: 堀吉 蔵人
第2部

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第87話:合図役の喉、二手目の白み 【メル】

お読みいただきありがとうございます。毎日20時に更新しています。

見習いの仕事は、たいてい「言われた時だけ動くこと」だ。


修練院でも小聖堂でも、まずそう叩き込まれた。

早すぎる善意は、命令違反と大差ない。

遅すぎる忠誠は、事故の言い換えでしかない。

だから若い者は手を出しすぎるな。

目と耳を使え。

指示が来るまで祈るか、運ぶか、黙って立っていろ。


その教えを、僕はずっと半分しか理解していなかったと思う。

命令を待つのは臆病な人のやることだと、どこかで見下していた。

第71話で東の裂け目の綻びを見つけた時だって、あれは「僕だけが気づけた」っていう高揚の方が先にあった。

自分が見つけたずれを叫ぶことで、盤面を一つ動かした気になっていた。


今なら分かる。

あの時の僕は、たまたま当たっただけだ。

本当に難しいのは、見えたことをすぐ叫ばないことの方だ。

いや、もっと言えば、「いまは叫ばない方が役に立つ」と理解したうえで、それでも黙っていられることの方が、ずっと重い。


東二の位置で、僕は裏返した祈祷布の二枚目を見ていた。

第84話でトビアが張った `朝除け` は、風に煽られて少しずつ息をしている。

白い面は内側だ。

外に出ているのは泥を吸った灰茶の裏地で、これが朝の輪郭を柔らかく削いでいる。

布と布のあいだへ、冬の白がじわじわ染み出してくる。

その染み方を見続けるのが、今の僕の役目だった。


役目。

たったそれだけの言葉なのに、今朝は妙に重い。


第85話でセトが決めた順番はもう、頭の中へ刻まれていた。

まずミナが引く。

次にレオンの肩を抜く。

最後にカイルの左を残す。

灰右が肘を越えたら、坊主が起こす。


言葉にすればそれだけだ。

でも、その「だけ」が難しい。

僕たち全員が、自分の一番やりたいことを半歩ずつ捨てないと成立しない。

そして若い僕にとって一番捨てにくいのは、役に立ちたいっていう気持ちだった。


ミナが引いた直後、僕はそれを痛いほど思い知った。


白い追跡者が影の外へ半歩退いた時、器はたしかに揺れた。

黒い翼が持ち上がり、寝息が浅くなり、保持者の右袖の下が鈍く明るんだ。

あれを見せられて、何もしないのは苦しかった。

祈りたくなったわけじゃない。

でも何か一つくらい、こちらから補えるんじゃないかと思ってしまった。

死塩をもっと外へ切るとか、布をもう一枚足すとか、あるいは一声だけ「大丈夫です」と落とすとか。


全部、最悪だ。

ラザルに手首を掴まれた若い補助騎士ほど露骨じゃないにせよ、僕の中にも同じ衝動があった。

善意で埋めたくなる。

空白があると、人はそこへ自分の正しさを差し込みたくなる。


けれど今の `伏せ床` は、その空白込みでひとつの手順だった。

埋めれば壊れる。

それを、僕はもう見てしまっている。


「メル」


低い声。

トビアだった。

彼は北一の足拍を崩さないまま、顔だけを少し東へ向けていた。


「……はい」


「二枚目の白みが、線から面へ変わったら言え」


「はい」


それだけ。

説明はない。

でも十分だった。

第85話で坊主が言っていた `二枚目` の意味が、ここでやっと僕の手に落ちてくる。

ミナの退きは通った。

次はレオンの肩だ。

その第二手を入れる合図役が、今度は僕なのだ。


嬉しくはなかった。

むしろ怖かった。

第71話みたいに、叫べば済む合図じゃない。

この一声で、今度は「支えている肩」を抜かせる。

遅ければ灰右が先に上がるかもしれないし、早ければ器の呼吸が落ちきらない。

外したら、誰かの肉か、誰かの意味が裂ける。


見習いには重すぎる。

正直に言えば、投げ出したかった。

でも、ここで「自分には無理です」と言えるほど僕は潔くもなかった。

それに、もう僕は知っている。

こういう場で怖いのは、重さを渡されたことじゃない。

怖いのは、重さを渡されたくせに、自分から余計なものを足してしまうことだ。


僕は布を見た。

一枚目には、もうはっきり白の筋が乗っている。

二枚目はまだ薄い。

けれど、さっきより面積が広い。

線ではなく、濡れた紙みたいに、じわじわと面へ変わり始めている。


下では、カイルの右がまた一段重く明るんだ。

布越しでも分かる。

熱が上へ登ってくる時って、こういう嫌な照り方をする。

火みたいに鮮やかじゃない。

もっと鈍くて、逃げ場のない病熱の色だ。


「坊主」

と、ヘルマン。

「右は」


「まだ肘は越えてない」

セトの声は荒かった。

「でも長くない。次を遅らせるな」


そのやり取りで、僕の喉が勝手に詰まった。

遅らせるな。

つまり僕が言うのを躊躇えば、そのままカイルの右へ回る。

逆に急ぎすぎれば、今度はレオンの肩抜きが早すぎる。


どっちも嫌だ。

そして、嫌だからこそ、僕はもう少しだけ分かった。

いま必要なのは勇気じゃない。

勇気って言葉は、たいてい雑だ。

雑な勇気は、人を正しいつもりで壊す。

必要なのは、見たままを見たまま言うこと。

それだけだ。


「補助司祭」


後ろから声。

例の若い補助騎士だった。

さっきラザルに止められた男だ。

顔はまだ青い。

でも、青いまま落ち着こうとしている。


「何」


「いま……輪が、少し深くなったように」


僕は頷きそうになって、止めた。

頷くと、それが判断になる。

いまの僕が勝手に共有していいのは、感想じゃない。


「自分の目で布を見て」

僕は言った。

「黒土じゃなくて」


「でも下を見ないと」


「下だけ見てたら遅れる」


自分で言って、少し驚いた。

前ならこんな言い方はできなかった。

でも本当にそうだった。

下の揺れは、誰だって見たくなる。

幼い輪郭も、灰右の熱も、あまりに生々しいから。

けれど、みんなが下を見たがる時ほど、誰かが布を見ていないと駄目だ。


若い補助騎士は不満そうな顔をしながらも、二枚目へ目を戻した。

よし。

その不満は悪くない。

分からないまま従っている証拠だ。

いまはその方が使える。


北の足拍が続く。

外縁でミナはもう動かない。

半歩退いた位置に、感情だけを置き忘れたみたいに立っている。

さっきまでは腹立たしい白だったのに、今は逆に、そこで止まっていられるのが怖い。

あの人もたぶん、自分から何かしたいはずなのに、やっていない。

第86話でラザルが歯噛みしていた理由が、教会の側にいない僕にも少しだけ分かった。

やりたいことをやらない人間の方が、いまはずっと危うい。


「……面になる」


思わず口から漏れた。

二枚目の白が、もう筋ではなく、布目の上へ薄く広がっている。

まだ全面じゃない。

でも「始まった」と言うには十分な変化だった。


喉が乾く。

ここで声を出せば、次は隻眼の肩が抜ける。

出さなければ、灰右が先に上がる。

どちらにしても、ここから先はもっと怖い。


それでも、言うしかない。

見ているだけの係が、一番最後に逃げたら、話にならない。


「トビア殿」


一度、声が裏返りかけた。

情けない。

でも続ける。


「二枚目、面です」


言った瞬間、世界が一拍だけ止まった気がした。

誰も本当に止まってはいない。

けれど、全員の意識が次の一手へ揃う、あの嫌な静けさが落ちる。


レオンがまず息を吐いた。

外から見ていても分かるくらい、肩の位置が半分だけ変わる。

抜く。

だが完全には消えない。

第85話で決めたとおりの、嫌らしくて面倒な抜き方だ。


そこで、器がまた揺れた。


今度はミナの時ほど鋭くはない。

ただ、呼吸の深さが少し減る。

寝台の端へ置いた水差しがずれる時みたいな、嫌な気配。

しかもその変化に合わせて、カイルの右の灰がひとつ上へ滲む。


「っ……」


声にならない呻きが、中から漏れた。

カイルだ。

でも左は動かない。

動かさないまま、右だけで痛みに耐えている。

ああもう、本当に損な役回りばかりだと思う。


「まだ越えてない!」

セトが叫ぶ。

「でも近い! もう一度はやらせるな!」


やらせるな、というのはたぶん、余計な介入のことだ。

分かる。

ここで若い補助騎士が布を下ろしたり、誰かが声を足したりしたら、たぶん全部が余計な「二回目」になる。


その瞬間、僕のすぐ後ろで、小さく祈りの語尾が漏れた。


振り返るまでもない。

さっきの補助騎士だ。

無意識だったのだろう。

怖さに耐えきれなくなって、唇の形だけが先に祈りへ戻ったのだ。


僕の方が先に動いていた。

手にしていた小さな手旗の木軸で、相手の手首を下から叩く。

強くはない。

でも、祈りの形を崩すには十分だった。


「声を出すな」

僕は低く言った。

自分でも驚くくらい、はっきりした声だった。

「今は助けにならない」


補助騎士が目を見開く。

僕が言ったのか、とでもいう顔だ。

分かる。

僕だって驚いている。

第71話の僕なら、たぶんこんな時、誰かの後ろへ隠れていた。


でも今は違った。

善意で動かないことを、初めて自分の判断で選んだからだ。

教わったからじゃない。

上に言われたからでもない。

目の前で壊れかける順番を見て、それでも手を足さない方がましだと、自分で決めた。


それは全然誇らしくなかった。

ただ、すごく苦かった。


レオンの肩抜きは、ぎりぎりで持ちこたえた。

器の呼吸は浅くなったが、乱れきらない。

トビアの拍はぶれない。

ミナも影の外で止まったまま。

ヘルマンは何も言わない。

ラザルも布端を押さえたまま、こちらの若造たちに余計な一歩を踏ませない顔をしている。


みんな腹を立てながら、同じ順番へ従っている。

その歪さが、今は不思議と少しだけ頼もしかった。


「メル」


低く、ラザルに呼ばれた。

怒鳴りではない。

確認の声だ。


「はい」


「次も、布だけ見ろ」


いつもの僕なら、そこで反発したかもしれない。

自分だってもう分かっている、と。

でも今日は違った。

分かっているつもりと、本当に見続けることは別なのだと、もう知っている。


「はい」

僕はもう一度だけ答えた。

今度はさっきより、少しだけまっすぐに。


東の白みはさらに広がる。

二枚目はもう完全に面だ。

次に来るのは、たぶんもっと悪い変化だ。

レオンの肩が半分抜けたぶん、残りはカイルの左と、あの灰右へ寄る。

つまり次の合図は、たぶん「引く」じゃない。

「持つか、切るか」だ。


怖かった。

本当に、情けないくらい。

でも、だからこそ目を逸らさないと決める。

見習いがやるべきことは、たぶん最初からこういうことだったのだ。

一番言いたくない時に、見たままを言う。

一番足したくなる時に、足さない。

そのために、手を震わせたまま立っている。


黒土の内側で、カイルの右袖のあたりが、またひとつ鈍く明るんだ。

肘は、まだ越えていない。

でも、もう遠くない。


僕は手旗を握り直し、二枚目の次の白みを待った。

今度はもう、誰かの後ろに隠れるつもりはなかった。


帝国暦849年。冬。

メルは、ラザルに押さえ込まれた前話の若い衝動を越えて、今度は自分の判断で `余計な善意を足さない` 側へ回ります。

二枚目の白みを見てレオンの肩抜きの合図を通し、祈りを漏らしかけた同僚まで止めたことで、`伏土の窪み` の現場は第二手まで壊さず進みました。しかしそのぶん、局面の重みはさらにカイルの灰色の `右` へと寄り、次はいよいよ `持つか、切るか` を迫られる段階へ入ったのです。

最後までお読みいただきありがとうございます。一言でも感想いただけると励みになります。

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