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泥濘(でいねい)のレクイエム ―英雄の残火と、つぎはぎの神魔―  作者: 堀吉 蔵人
第2部

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第86話:白布の歯噛み、最初に退く侍女 【ラザル】

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中途半端な命令ほど、兵を腐らせるものはない。


進めと言われれば進める。

斬れと言われれば斬る。

囲えと言われれば輪を閉じる。

そういう単純さの中でしか、人は同じ白布の下にいられないと、私はずっと思ってきた。


だから今朝の任務は、私にとって最悪の部類だった。


引け。

だが完全には消えるな。

止めろ。

だが切るな。

守れ。

だが救う顔はするな。


挙げ句の果てに、最初に退かせるべき相手が、こちらの部下ではなく、黒土の外縁を並走している白い追跡者だという。

敵を退かせるのではない。

敵が正しく退くのを、こちらが壊さないよう見張る。

そんな命令を素直に飲み込める聖職兵がいるなら、そいつは聖人か馬鹿だ。

私はどちらでもなかった。

ただ、従うしかない中堅の現場兵だった。


西三の位置で、私は裏返した祈祷布の端を押さえていた。

白い面は内側へ隠れ、泥を吸った荒い裏地だけが外気へ晒されている。

布をこういう使い方で握る日が来るとは思わなかった。

祈りの言葉を刻んだ布が、今は神へ掲げられるでも、異端へ被せられるでもなく、朝の白みを薄めるためだけに張られている。

侮辱だ。

侮辱だが、昨日までの私なら吐き捨てたその言葉が、今朝に限っては少しも役に立たない。


役に立つのは手順だけだった。


北からトビアの足拍。

外縁からミナの砂擦り。

中では保持者の長い呼吸。

その全部の上を、布越しの白が、じわじわ滲んでくる。


第85話でセトが言った `二枚目` は、もう見えていた。

一枚目の布に淡い筋が乗り、その向こうの二枚目へ、乳を垂らしたみたいな薄い白が広がり始めている。

冬の朝はいつだってそうだ。

いきなり来ない。

気づいた時にはもう、輪郭の側が一歩先へ進んでいる。


私は喉の奥で舌打ちした。

もう合図の時間だ。

あの女を引かせる時間。

自分の手で敵の退き際を守る時間。


「ラザル殿」


脇にいた若い補助騎士が、小さく声を漏らした。

名を呼ぶほどの間柄ですらない若造だ。

三日前までなら、命じられた封鎖材を運ぶだけで胸を張っていたような顔をしている。

その顔が今は、朝の白と外縁の女を見比べて、ぎりぎりのところで歪んでいた。


「今では?」


問いの形をしていたが、中身は願望だった。

いまなら押せる。

いまなら敵が自分から下がる瞬間に布を落とせる。

そう言いたい顔だった。


私は視線を向けないまま答える。

「まだだ」


「ですが、追跡者は退きます。退く時こそ」


「だからまだだ」


言葉を重ねるほど、こいつの目は若くなる。

分かっていない目だ。

いや、昔の私もたぶん同じだった。

敵が迷った瞬間を勝ち筋だと信じていた。

退く背中へ正しさを叩き込めば、それで秩序が戻ると思っていた。


だが、今この場の退きは違う。

勝ち負けの退きではない。

順番の退きだ。

順番を壊せば、戻るのは秩序じゃない。

ただの破断だ。


私はようやく若造へ目を向けた。

「お前は顔を見るな。布の二枚目だけ見ろ」


「しかし」


「しかし、ではない」

私は声を低くした。

「今ここで役に立つのは、信仰でも勇気でもない。合図を見間違えない目だけだ」


若造は唇を噛んだ。

納得はしていない。

だが、少なくとも口は閉じた。

それで十分だった。

納得している人間より、口を閉じた人間の方が、こういう場では壊しにくい。


外縁で、ミナの拍が少しだけ細る。

おそらく彼女も、布の白みを見たのだろう。

引かねばならないと分かっている者の拍だった。

悔しさが混じると、人の動きは少しだけ丁寧になる。

それが分かってしまうこと自体、今朝の私はだいぶ腐っている。


「西三」


ヘルマンの声が、低く飛んだ。

大きくはない。

だが、この距離では十分だ。


「二枚目」


それだけで、胃が沈んだ。

合図が来た。

ここから一手目が動く。


私は布の端をさらに低く押さえ、外縁の白い影を見た。

あの女はすぐには下がらなかった。

まず、砂擦りを一拍だけ残す。

しゃり。

それから、次を入れない。

拍がそこで切れる。

切れた空白の中で、器の浅い寝息がひどく生々しく聞こえた。


駄目だ。

この空白は長すぎる。

誰かが埋めたくなる。


案の定、脇の若造が一歩出かかった。

白布を持つ手が、私の視界の端で持ち上がる。

私は反射で、その手首を掴んだ。


「動くな」


思ったより強く握っていたらしい。

若造の顔が引きつった。


「ですが、今……」


「今だから動くな」

私は歯の間で言った。

「退く側が一番壊れやすい。見ていろ」


自分で言っていて、虫唾が走るほど嫌な言い回しだった。

敵の退き際を守る理屈を、教会の若い兵へ説いている。

笑えるなら笑っていた。

だが今は、笑いより先に、黒土の上の細い変化を見逃したくなかった。


ミナが、ようやく半歩下がる。

完全に背を向けるのではない。

外縁に沿ったまま、影の外へ、ほんの半歩。

第85話でセトが言ったとおりの退き方だ。

侍女が寝台を離れる時みたいな、腹の立つほどきれいな足運びだった。


そこで、器が揺れた。


黒い翼が、ぴくりと持ち上がる。

片側の睫毛が、眠りの底で何かを探すみたいに震える。

保持者の左がきつくなる。

灰色の右も、布越しでも分かるほど鈍く明るんだ。


若造の手首が、私の掌の中でもう一度跳ねた。

押さえ込みたいのだろう。

布を落としたいのだろう。

分かる。

私も同じだ。

この揺れを見せられて、「いま締めれば済む」と思わない兵などいない。


だが、そこで締めたら終わる。

終わることを、もう私は知ってしまっている。


「待て」

私は自分へ言い聞かせるみたいに呟いた。

「まだ持つ」


誰へ言ったのか、自分でも分からない。

若造か。

あの白い女か。

あるいは、自分の中の昨日までの正しさか。


ミナはさらに半歩を足さなかった。

言われたとおり、影の外へ半歩だけで止まる。

見えすぎる朝へは出ない。

だが近づきもしない。

拍は消えたまま。

名前もない。

ただ、そこにいる。


その引き方が、ひどく腹立たしかった。

上手すぎるのだ。

まるで最初からこういう手順を知っていたみたいに。

教会の兵なら褒めたかもしれない。

敵だからこそ、余計に腹が立つ。


けれど、その腹立たしさのすぐ下で、別の感情が生まれていた。

安堵だ。

器の黒い震えが、最初の一拍を越えて深くならなかったことへの。

私はそれを認めたくなくて、若造の手首をようやく放した。


「見ただろう」

私は低く言う。

「今の一歩で布を落としていたら、全部が返っていた」


若造は何も言わなかった。

青い顔で黒土を見ている。

たぶん初めて分かったのだろう。

敵が下がれば勝ち、みたいな単純な場ではないことが。

理解は人を汚す。

第85話で坊主が嫌そうな顔をしていた理由が、少しだけ分かった。


西から、今度は別の圧が来る。

押し込みではない。

保持者の右だ。

灰の明るみが、一段だけ上へずる。

袖の皺の境目が、布越しに薄く光る。


「……近いな」


思わず漏れた声へ、ヘルマンがすぐ反応した。

「何が」


「右です」

私は答える。

「肘まではまだ、と言っていたが、あれは近い」


ヘルマンは一拍だけ黙る。

それから、黒土の中ではなく、セトの方を見る。

いい判断だった。

原因の側ではなく、手順を握っている側を見る。

こういうところだけ、この男は嫌になるほど速い。


「坊主」


セトが観測石から目を離さず返す。

「分かってる。まだ越えてない」


「まだ、か」


ヘルマンの呟きに、私は短く息を吐いた。

この場の全員が、もう `まだ` を別の意味で使っている。

時間じゃない。

破断していない、という意味の `まだ` だ。


ミナは影の外で、もう一度だけこちらを見た。

いや、見たというより、こっちの配置を測ったのだろう。

追ってはこないか。

押し込みに変える気はないか。

そういう目だった。


私はほんのわずかに、白布の端を下げたまま返した。

通すでもなく、塞ぐでもなく。

そのままでいろ、という形だけを返す。

腹立たしいほど、今朝に必要なやり取りだった。


敵とこんな呼吸を合わせるために剣を取ったんじゃない。

白布を巻いたのでもない。

それでも、いまこの歪みを支えているのが、こういう無様な了解だということくらい、もう否定できなかった。


北ではトビアの拍が続く。

中ではレオンがまだ肩を残している。

次に引くのはあの隻眼だ。

つまり、ここで最初の一手が通ったところで、終わりどころか、やっと入口だ。


私はそれを思い知って、ひどく疲れた。

一歩も動いていないのに、徹夜の行軍より疲れる。

正しさを振りかざして進む方が、どれだけ楽だったか。

だが楽な方へ戻れば、この眠りは壊れる。

それだけはもう、昨日の私にも戻れないくらいには分かってしまった。


「西三、維持」

ヘルマンが言う。

「追跡者はそのまま行かせろ。次の白みまで、誰も余計な正義を足すな」


若造が顔を上げる。

ヘルマンのその言い方に、少しだけ救われた。

余計な正義。

ひどい言葉だ。

聖職者が使うにはあまりにひどい。

だが、今朝の空気にはよく合っていた。


「聞いたな」

私は若造へ言う。

「お前だけじゃない。私もだ」


若造は驚いた顔をした。

私が自分も含めて言うとは思わなかったのだろう。

分かる。

昨日の私だって思わなかった。


その時、黒土の内側で、小さな寝息が一つ深くなる。

浅いままではある。

だが、さっきミナが引く瞬間に揺れた分を、なんとか下へ戻した寝息だった。


持った。

完全じゃない。

けれど、最初の一手は壊れずに通った。


私はそこで初めて、胸の奥の歯噛みが、少しだけ別のものへ変わるのを感じた。

納得ではない。

誇りでもない。

ただ、次もやるしかない、という種類の諦めだ。

兵はたいてい、その諦めの上で次の一歩を覚える。


白布の端を握る指へ、朝の冷えがまた強く刺さる。

二枚目の次は、隻眼の肩。

その次は、灰右の肘。

順番はもう見えている。

見えているからこそ、逃げられない。


「……来るぞ」

私は誰へともなく呟いた。

「次の方が、たぶんもっと嫌だ」


西の影の外で、ミナはもう拍を持たずに立っていた。

それでも、そこにいるというだけで、まだ何かが均衡の端に触れている。

そして黒土の中では、カイルの右袖の下を、灰が確実に上り続けていた。


帝国暦849年。冬。

ラザルは、セトが決めた `夜明けの手順書` に従い、ミナを最初に引かせる一手を、自らの反発を噛み殺しながら現場で成立させます。

教会側の若い兵の `いまだ` という衝動まで押さえ込み、白い追跡者の正しい退き際を壊さず通したことで、`伏土の窪み` の現場は初めて `手順が実際に動く` 段階へ入りました。しかしその代わり、次の負荷ははっきりとカイルの灰色の `右` へ集まり始めたのです。

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