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泥濘(でいねい)のレクイエム ―英雄の残火と、つぎはぎの神魔―  作者: 堀吉 蔵人
第2部

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第85話:夜明けの手順書、灰右の限界線 【セト】

ダークファンタジー群像劇『泥濘のレクイエム』、毎日20時更新中です。

寝かせるのが終わりだと思っている奴は、看病にも呪術にも向いていない。


世の中には「眠ったなら一件落着」みたいな顔をする馬鹿が多い。

子供でも、病人でも、呪いに半分浸かった奴でも、目を閉じて静かになれば安心していいと思い込む。

実際には逆だ。

眠りに落ちた瞬間から、次はどう起こすか、どこまで手を離すか、誰が残るかっていう、もっと面倒で、もっと間違えやすい段取りが始まる。


僕はそれを、魔術師の高等教育なんて立派なものじゃなく、師匠の雑な野営手当と、失敗した術式の後始末で覚えた。

熱を下げるより、下がりすぎた後の方が怖い。

暴れた霊を縛るより、縛った後にほどく方が難しい。

継ぎ目を仮止めするのは前段で、本番はその仮止めをいつまで使い、どの順番で外すかだ。


だから第84話の終わりで `朝除け` が張られた瞬間も、僕は一息つくどころか、むしろ胃の辺りが重くなった。

ここからが本番だ、としか思えなかったからだ。


`伏せ床` の外で、観測石を握る指先はかじかんでいた。

冷たいくせに手のひらだけ汗ばんでいるのが最悪だった。

東の布越しに朝の白が滲みはじめ、北の崩れ杭には薄い影が落ちている。

トビアが組んだ `朝除け` はちゃんと効いていた。

効いているが、だから終わりじゃない。

布が光を薄めたことで、今度はこっちが「どの変化なら許せて、どこから先が駄目なのか」を、はっきり見なきゃいけなくなった。


僕の足元の観測石には、いつもの三色が見えている。

黄金、黒、白。

三位一体の少女の中で擦れている、三つの反応だ。

そこへ、灰色が一本。

泥ネズミの右腕から伸びる、嫌味ったらしい受け皿の線。

さらに今朝はもう一本、青白い膜みたいな揺れが入ってきていた。

太陽そのものじゃない。

光で立ち上がる `視線と輪郭` の線だ。


これが厄介だった。


第80話で視線を切り、第81話で `見ないこと` が条件に入り、第82話でミナが `触れない侍女` へ引き直された。

第83話でヘルマンが祈りを捨て、第84話でトビアが光を薄めた。

ここまで来てようやく、器は浅い眠りへ身体を預け始めた。

だが、その浅い眠りは「何もない場所」で眠っているわけじゃない。

カイルの左、レオンの肩、ミナの拍、教会の影、そういう余計な人間の都合が、互いを削り合って辛うじて平らになっているだけだ。


つまり、一つでも削る順番を間違えれば、すぐ傾く。

しかも朝は、その傾きを強くする。

顔が見えれば、人は勝手に意味を足す。

意味が足されれば、器はその意味に引っ張られる。

今の三位一体の少女に一番危ないのは、たぶん刃よりそっちだった。


「坊主」


低い声。

レオンだ。

隻眼のまま器の外側へ肩を預け、ほとんど彫像みたいに動かずにいるくせに、こっちが顔をしかめるとすぐ気づく。


「ひでぇ面してるな」


「朗報がないんだよ」


「ある時だけ教えろ」


「一度もないだろ、そんなもん」


言い返しながら、僕は観測石の角度を変えた。

石の中で、灰色の線がじわじわ太っている。

太り方がいやらしい。

夜のあいだは手首から先に鈍く張りついているだけだったのに、今は前腕へ向けて、熱に似た滲み方をしている。

朝の白が布越しに濃くなるたび、それが少しずつ押し上がる。


「……クソ」


「分かったのか?」

今度はカイルだ。

泥ネズミ本人は、半歩後ろで三位一体の少女を左に預けたまま、ひどく雑に息を整えている。

顔色は終わっているし、右腕なんてもう半分他人のものみたいだ。

なのに、こういう時だけ妙に真っ直ぐ訊いてくるから腹が立つ。


「分かったよ。最悪の順番が」

僕は観測石を握り直した。

「寝たから終わりじゃない。今から、誰が先に引くかを決めないと駄目だ」


ミナの砂擦りが、外縁で一拍だけ止まる。

すぐ戻る。

止めた自覚がある奴の動きだった。


ヘルマンも寄ってきた。

トビアは北の影を維持したまま、こっちの声が届く位置へだけ重心を寄せる。

いい。

このくらいの寄り方ならまだ器へ刺さらない。


「言え」

ヘルマンが短く促した。


簡単に言うなよ、と心底思う。

言うのが僕だから、全員が簡単な顔をして待てるだけだ。

便利屋の知識係ってのは、だいたいそういう損な役回りだ。

誰かが嫌な事実へ名前をつけないといけない時、真っ先に視線が集まる。

大人って本当に卑怯だと思う。


それでも、黙っていられる段階じゃなかった。


「まず確認する」

僕は観測石を地に置き、白墨で細い円を一つ描いた。

「勝手に動くな。こっちが言うまで、今のまま」


「偉そうね」

外縁からミナが返す。


「偉いんじゃなくて、一番嫌な役をやってるだけだ」


「知ってるわよ」


それで少しだけ助かった。

皮肉が返ってくるうちは、まだみんな人間でいられる。


僕はまずミナを見た。

白百合めいた欠片を包んだまま、外縁に沿って、名を呼ばずに拍だけを整えている。

第76話の時点で取り戻した侍女の歩幅が、いまは器を壊さないための第三手になっている。

だが、朝になれば、その歩幅は逆に鋭くなる。

見えれば思い出すからだ。

シオンの側が。


「ミナ」

僕はできるだけ平らに呼んだ。

「一回だけ拍を止めろ。名前は使うな」


外縁で気配が強ばる。

嫌な役を振られると分かっている沈黙だ。

だがミナはすぐ従った。


しゃり、が消える。


それだけで、観測石の白い線が細く揺れた。

同時に、少女の左の黒い睫毛が、ほんの半拍だけ深く震える。

眠りから起きるほどじゃない。

だが、偏りの向きとしては十分だった。


「再開」

僕は即座に言った。


しゃり、が戻る。

黒の震えが引く。


「……やっぱりね」

ミナが小さく吐いた。

悔しさの混じった、分かった声だった。


次にレオンだ。


「隻眼」

僕は顎で示す。

「肩、指二本分だけ抜け。完全に離すな」


「やってみりゃ分かるが、失敗しても文句言うなよ」


「言うに決まってるだろ」


レオンは鼻で笑い、ほんのわずかに肩の圧を抜いた。

その瞬間、観測石の黄金と白のあいだに、薄い隙間ができる。

器の呼吸が浅く速くなる。

だがミナの時ほど鋭くはない。

こっちは `起きる` というより、`落ち着きが減る` に近い。


「戻せ」


肩が返る。

呼吸がまた下がる。


最後に、カイルだ。

本当は一番やりたくなかった。

こいつを試すってことは、そのまま `お前がタイムリミットだ` と口にするのと大差ないからだ。


「泥ネズミ」

僕は言った。

「左、絶対に動かすな。代わりに右の感覚だけ言え。今どこまで死んでる」


カイルは少し黙って、低く答える。

「指先はとっくに怪しい。手首は焼けてる。肘までは、まだ……たぶん来てねぇ」


`たぶん`。

こういう時の `たぶん` は、だいたい来かけてる。


観測石の灰色は、ちょうど手首と肘の中間あたりで、汚れた染みみたいに広がっていた。

師匠なら「まだ余裕」と言うかもしれない。

僕はそんな楽観は嫌いだ。

余裕があるうちに段取りを決めておかないと、最後はいつも肉で払うことになる。


「結論を言う」

僕は立ち上がった。

膝が冷えて痛い。

たぶんみんな同じだろう。

でも、僕が痛いと言ったところで誰も助けてはくれない。


「朝を越える順番はこうだ。ミナが一番先に引く」


外縁の気配が固まる。

予想どおりの反応だ。


「完全に?」

ミナの声は低い。

怒鳴らないのが余計に怖い。


「完全じゃない。影の外へ半歩」

僕は言った。

「拍は布の二枚目に朝の筋が乗ったら止めろ。その先は白が強すぎる。お前の線は `侍女` としては役に立つけど、見える朝だと `主従` に戻りやすい。そうなるとシオン側が先に食いつく」


ミナはすぐには返さなかった。

けれど否定もしない。

受け入れたくない時ほど、こいつはむしろ静かになる。


「次がレオン」

僕は続ける。

「肩は二番目。完全に消えるんじゃなくて、影だけ残せ。支えるな、倒れる時だけ拾え。お前のは `守る` が強すぎる。朝になるとそれも命令になる」


「便利な扱いだな、俺は」


「便利じゃなきゃここまで残ってねぇよ」


レオンは肩をすくめた。

文句はあるだろうが、従う顔だった。


そして、一番言いたくないところへ行く。


「最後がカイルだ」


誰も口を挟まない。

挟めないのだろう。

ここで嘘を入れる余地がないと、もう全員分かっている。


「左は最後まで残していい」

僕は観測石を見せた。

「器が今いちばん `棚` として認識してるのはそれだ。名前じゃない。意味でもない。ただ落ちないための手だ。だから最後まで残せる」


「右は」

カイルが短く言う。


「右は時間切れの針だ」

僕も短く返した。

「灰が肘を越えたら終わり。そこから先は保持じゃなく侵食になる。お前が頑張る頑張らないの話じゃない。越えたら、寝かせたままは無理だ」


カイルは顔をしかめた。

怖がっているのか、痛いのか、その両方か。

たぶん全部だ。


「で、越えたらどうすんだ」


その問いで、また全員の視線が集まる。

本当に大人は卑怯だ。

嫌な答えが必要な時だけ、ちゃんと子供へ投げてくる。


「起こす」

僕は言った。

「でも名前じゃ起こさない。祈りでも起こさない。腹が減るか、冷えが勝つか、土の流れを断つかのどれかだ」


「断つ、って」

メルが青ざめる。


「僕がやる」

僕は遮った。

「観測石で `伏せ床` の流れを切る。眠りは剥がれる。たぶん綺麗には起きない。だから本当はやりたくない。でも、カイルの右が肘を越えたらそっちの方がまだましだ」


しん、と静まる。

教会の連中も、ミナも、レオンも、みんな同じ顔をした。

嫌だが、必要だ、と理解した顔。

僕はその顔が好きじゃない。

理解ってのはたいてい、人をちょっとずつ汚す。


「それ、起こしたあとどうなるの」

リノが小さく訊いた。

いつの間にか息を詰めて聞いていたらしい。


「分からない」

僕は正直に言う。

「ただ、一つだけ分かる。眠らせたのと同じ手では起こさない方がいい。最後まで残ったやつが、そのまま最初の顔になると、器が寄る」


ミナが目を閉じる気配。

カイルは息を吐く。

レオンは何も言わない。

その沈黙が、今の答えだった。


誰も報われない。

でも、誰か一人だけ報われる形よりはましだ。

たぶん今の局面って、そういう種類の選び方しか残っていない。


ヘルマンが腕を組み、低く言った。

「採る。順番はそれで固定だ。トビア、布二枚目を合図線にしろ。メル、お前はそれを見続けろ」


「はい」

「了解」


「追跡者」

ヘルマンが今度はミナへ向く。

「二枚目で引け。引けなければこちらが切る」


「分かってるわよ」

ミナは吐き捨てた。

「私は侍女よ。寝かしつけの順番くらい守る」


その言い方が、ひどく苦くて、少しだけ救いだった。

こいつもちゃんと腹を立てている。

腹を立てたまま手順を守る人間は、案外信用できる。


カイルは左で少女を支えたまま、右の手首を一度だけ振ろうとして、途中でやめた。

無駄だと分かっている顔だった。


「坊主」


「何だよ」


「肘越えたら、ためらうな」


本当に救いようがない。

自分の腕の話をしながら、気にしているのはたぶんその先にいる小さい方だ。


「言われなくてもやる」

僕は睨み返した。

「ただし、その前に勝手に格好つけたら殴る」


レオンが小さく笑い、リノは泣きそうな顔で笑い損ねる。

ミナだけは笑わなかった。

外縁で、次に止める拍の準備をもう始めている顔だった。


僕は再び観測石の前へしゃがみ込む。

三色。

灰。

布越しの淡い朝。

最悪だ。

最悪だが、少なくとも順番だけは見えた。


眠りは目的地じゃない。

朝へ渡すための仮置きだ。

その仮置きをどう崩すかまで決めて、ようやく一つの処置になる。

師匠ならたぶん「やっと半分だね」と笑うだろう。

僕は笑えない。

いまの僕にあるのは、半分まで来てしまったっていう嫌な実感だけだ。


それでも、言葉にした以上は進めるしかない。

朝は待ってくれないし、灰色の右腕も待ってくれない。


「……二枚目まで、あと少し」

僕は観測石を睨みながら呟いた。

「そこで一つ引く。肘で終わる。その前に次を決める」


誰に聞かせるでもないその独り言へ、外から拍が重なる。


とん。

しゃり。

長い息。


まだ持っている。

でも、この `まだ` は時間じゃない。

順番のことだ。

そのことだけは、もう見失わないでいられる。


帝国暦849年。冬。

セトは、`朝除け` が効いたあとに本当に危険になるのが、眠りそのものではなく `誰がどの順番で手と意味を離すか` だと見抜きます。

ミナが最初に引き、次にレオンが肩を抜き、最後にカイルの `左` を残す一方で、灰色の `右` が肘を越えた時点で強制的に起こすという `夜明けの手順書` を言語化したことで、`伏土の窪み` の現場には初めて `朝を越えるための具体的な順番` が与えられたのです。

感想・ブクマ・評価、どれも本当に励みになっています。ありがとうございます!

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