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泥濘(でいねい)のレクイエム ―英雄の残火と、つぎはぎの神魔―  作者: 堀吉 蔵人
第2部

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第82話:白百合の拍、触れない侍女の夜支度 【ミナ】

お読みいただきありがとうございます。毎日20時に更新しています。

侍女にとって、いちばん堪える命令は「触れるな」ではない。


「そこまで」だ。


触れるな、ならまだ言い訳ができる。

危険だから。

身分が違うから。

主のご機嫌を損ねるから。

そういうもっともらしい理由で、自分の手を引っ込めたことにしておける。


けれど、「そこまで」は違う。

そこから先へ行ってはいけないのではなく、そこまでは必要だと認められている。

必要だが、それ以上は余計だと言われる。

侍ることは許される。

だが、最後の一手だけは渡されない。


それは命令ではなく、線引きだ。

そして侍女という生き物は、本来その線を守るために育てられる。


だからこそ、胸の奥が焼けるほど痛かった。


「ミナ……そこまで」


あの小さな口から、拙い声でそう告げられた瞬間、私は自分が斬られたのだと分かった。

短剣ではない。

嫌悪でもない。

もっと正確で、もっと救いのない方法で。


必要な距離だけを残されて、その先を閉じられた。


黒土の `伏せ床` の縁で、私は息を止めた。

左手の白百合めいた欠片が、薄く冷えている。

あれだけ追跡の針として使ってきた欠片が、今は私の手のひらの中で、まるで喪章みたいに沈黙していた。


泣きたくはなかった。

泣いてしまえば、私はまた偏る。

侍女ではなく、失ったものへ縋る女に戻る。

そうなれば、きっと喉が先に覚えている。


お嬢様。


その二文字だけで、どれほど多くを壊しかけたか、私はもう知っている。


目の前では、三位一体の少女が `伏せ床` へさらに重みを預けようとしていた。

カイルが左だけで支え、レオンが外から肩を返している。

教会の白布はまだ外周にあるが、今はもう祈りの形ではなく、囲いの骨組みとして風に鳴っているだけだった。

ヘルマンは、嫌になるほど静かに現場を維持している。

ガルドは槍の石突きを土へ沈め、セトは観測石とカイルの右腕を交互に見て、リノは今にも喋り出しそうな口を噛んでいる。


誰も間違っていない。

だから余計に苦しい。


私だけが、一歩多いのだ。


侍女だった頃、夜支度で最初に叩き込まれたのは、「主人の眠りへ自分の気配を混ぜるな」だった。

燭台を落とすな。

水差しを鳴らすな。

裾を擦るな。

寝台へ毛布を整える時も、手つきに感情を乗せるな。


好きだから厚く掛けるな。

可哀想だから肩へ触れるな。

不安だから何度も覗くな。


主が眠るために必要なのは、侍女の愛情ではない。

決まった順番と、余計なものが足されないことだ。


黒土の縁で、私はその教えを思い出していた。

そして同時に、思い出したくなかったとも思っていた。

だって私はもう侍女ではない。

シオン様を失い、地下宮殿で全部を取り落として、復讐だけを抱えてここまで来たはずなのだ。

それなのに最後の最後で、私の手に残ったのが「眠りの支度の仕方」だなんて、惨めにも程がある。


けれど惨めであることと、役に立つことは別だ。

今の私は、その両方を同時に飲み込まなければならない。


「追跡者」


北東から、低い声が飛んだ。

ヘルマンだ。

白布の外周を崩さぬまま、こちらへ視線だけを寄越している。

その目は相変わらず気に入らない。

気に入らないが、戦場で同じ死体を見た人間同士にしか通じない種類の乾いた了解が、そこにはもうあった。


「器が条件を出した」

彼は抑えた声で言う。

「貴様はそこから先へ入るな」


言われるまでもない。

そんなものは、さっきあの子から直接言われた。

だが口に出されると、腹の底の泥がまた濁る。


「分かっています」

私は視線を返さずに答えた。

「あなたの許可で止まっているわけではありません」


「知っている」


それだけか、と一瞬思った。

もっと嫌味を言うか、揺さぶるかと思っていた。

だがヘルマンは一歩も前へ出ず、続けて言った。


「数える声が要るなら、誰がやる」


胸の奥が、きしりと軋んだ。


そこか。

この男も分かっているのだ。

問題は、私が近づくかどうかではない。

最後に誰の拍で、この場を揃えるかだと。


私はすぐには答えられなかった。

答えれば、それは役目になる。

役目にしてしまえば、私はまたその役目へ縋ってしまう。

最後の声になれない代わりに、最後の数え手でいようとする。

それは半分、言い換えた執着だ。


だが、ここで黙るのも違う。

黙っているだけでは、いずれ誰かが「善意」で余計な声を足す。

リノが泣くかもしれない。

若い助祭が祈るかもしれない。

セトが理屈を喋り始めるかもしれない。

カイルは痛みで拍を崩す。

レオンは持ちこたえろと怒鳴るだろう。


そのどれもが、たぶん少しずつ正しい。

そして、その少しずつの正しさが、一番危うい。


「誰でもいいわけではありません」

私はようやく言った。

「でも、一人の声でも駄目です」


ヘルマンの眉が、ほんのわずかに動く。

続きを言え、という顔だった。


「一人で数えると、その声の持ち主へ寄ります」

私は欠片を握る指へ力を込めた。

冷たさが、やっと思考をまっすぐにする。

「強い声なら、なおさら。命令の形になれば、あの子は従うのではなく偏る」


「ならば」


「拍だけを残すんです」


自分で口にして、ああそうかと思った。

私がやるべきことは、最後の声になることではない。

最後の声が誰か一人のものにならないよう、拍を整えることだ。


侍女は主人の代わりに眠ることはできない。

できるのは、眠りへ落ちるまでの部屋の音を整えることだけだ。

燭台の火の揺れ。

水差しの位置。

扉の閉まる速さ。

それらを揃えて、主が自分の呼吸を取り戻せるようにする。


今の私は、それをこの黒土の上でやるしかない。


「レオン」


私は正面を向いたまま、外から声を投げた。

レオンは少女を見ないまま、片方の眉だけを上げる。


「何だ」


「あなたは強く数えないで」


「注文が多いな」


「強い声は向きます」

私は短く言った。

「あなたの声は、立て直す声です。眠る声ではない」


レオンの隻眼が細くなる。

一瞬、噛みつかれるかと思った。

だが彼は意外にもすぐ納得したらしく、肩で息をしながら鼻を鳴らした。


「否定できんな」


次に、カイル。


「カイル」


返事はなかった。

呼吸が荒すぎる。

右腕の灰色はまだ不穏な熱を吐いていて、少しずつだが黒土へ預けた重みを食い返そうとしている。

それでも、彼の左だけは辛うじて真っ直ぐだ。

あの左は不思議な手だ。

誰を抱いているか理解しきれていないくせに、落としたくないものだけは間違えない。

無知であることが、今はむしろ救いになっている。


「息だけ合わせて」

私は静かに告げる。

「数えなくていい。吐く時だけ、少し長く」


今度は、かすかなうなり声が返った。

理解したのか、していないのか、それは分からない。

けれどカイルという少年は、意味より先に荷の動きで覚える。

なら、この指示で十分だ。


セトが外から苛立った声を上げる。

「おい、白百合女。だったら誰が数えるんだよ」


「あなたも数えないで」


「はあ?」


「あなたは理屈を足しすぎます」


舌打ちが返る。

反論はない。

それでいい。

今の彼は賢すぎる。

賢い人間は、こういう時に正しい説明をしたがる。

だが説明は、声へ意味を乗せる。

意味は誰か一人の理解へ寄る。

それでは駄目だ。


「ガルド」


「何だ」


「石突きで」


大男はすぐに理解した。

言葉が短いほど助かる相手だ。

彼は槍の石突きを土へ、ごく控えめに打った。


とん。


低い音。

それは命令でも祈りでもない。

ただの拍だ。


もう一度。


とん。


カイルの呼吸が、その二拍目にわずかに揃う。

レオンの肩の返しも、それへ遅れて重なる。

黒土の `伏せ床` が、小さく脈を返した。


どくん。


まだ足りない。

拍はある。

だが、流れが粗い。

軍靴みたいに固い。

これでは「眠る」ではなく「耐える」になってしまう。


私はそこで、自分のやることを決めた。

近づかない。

触れない。

名前も呼ばない。

だが、外縁から、拍の隙間だけを縫う。


欠片を持つ左手を低く下げる。

白百合めいた芯は、今は追跡ではなく、熱の揺れを拾う錘だった。

黒土のどこが深く、どこが冷え、どこで少女の重みが引っかかっているかが、ごく弱く指先へ返ってくる。

その返りに合わせて、私は足裏で砂を一度だけ擦った。


しゃり。


とん。


しゃり。


とん。


槍の石突きの低い拍に、私の砂を擦る音を薄く重ねる。

主を起こさないよう夜更けの廊下を歩く時、裾さばきの音で寝台の向こうの呼吸を整えることがあった。

あまりに静かな夜は、完全な無音の方が人を不安にさせる。

だから、眠りを邪魔しない程度の、人がまだそこにいると分かる音が要る。


今はそれだ。


名前ではなく。

愛情でもなく。

命令でもない。

ただ、人の世の夜支度に似た拍だけを残す。


「……一つ」


口をついて出た言葉は、自分でも驚くほど小さかった。

数えるだけ。

意味は乗せない。

誰へ向けたとも分からない、侍女の独り言みたいな声。


ガルドの石突きが次を返す。


とん。


「……二つ」


レオンの肩の力が、ほんの少しだけ柔らかくなる。

カイルが長く息を吐く。

黒い翼の逆立っていた先が、一本、また一本と寝ていく。


「……三つ」


その瞬間、胸が痛んだ。

三つ。

この子の中の三人。

私が取り返したかった一人。

取り返してはいけない形でそこにいる一人。

そして、私が直接にはほとんど知らないまま、それでも消えてほしくないと今は思っている一人。


三つ、と数えるたびに、私はその全員を認めることになる。

それは復讐者としては敗北に近かった。

けれど侍女としては、ようやく正気に戻ったとも言えた。


「ミナ」


細い声だった。

いや、声と呼んでいいのかも分からない。

夢の手前で、誰かが布越しに囁いたみたいな掠れた音。


はっとして顔を上げかけ、私は寸前で止める。

ここで視線を重くしたら、また全部が戻る。


「おります」


そう答えた。

名前は呼ばない。

主従の形にも戻さない。

ただ、そこにいるとだけ返す。


「そこです」


それもまた、幼い口から落ちた。

命令ではない。

確認だ。

外縁の、そこでいい。

それ以上でも、それ以下でもない。


胸の奥で、何かが静かに崩れた。

たぶん未練の形をした氷だ。

触れれば取り戻せる、呼べば返ってくる、そういう幼い期待が、ようやく砕けた。


シオン様は、そこにはいらっしゃる。

だが、そこにだけいらっしゃるわけではない。

もう、私一人の主ではない。

侍女の手だけで、寝台へ戻せる方でもない。


ならば私は、そこまでの距離で仕えるしかない。


それを理解した途端、痛みが少しだけ役に立つものへ変わった。

苦しい。

腹立たしい。

それでも、この苦しさが私を外縁へ縫い留めるなら、まだ使い道はある。


北東でヘルマンが短く命じる。

「外周、拍を崩すな。祈祷文を捨てろ」


教会の兵がざわつく気配。

だが、誰も逆らわない。

こんな屈辱的な命令はないだろう。

聖職者が祈りを捨て、異端の眠りを守るために数だけを残す。

笑えばいいのかもしれない。

だが私は笑えなかった。

この男もまた、自分の信じてきたものを半歩だけ折って、今夜を保たせようとしている。

最悪だが、軽蔑だけでは済まなかった。


「レオン」

私はもう一度だけ言う。

「次で肩を入れすぎないで。落ちた時だけ返して」


「面倒な注文だな」


「侍女ですから」


自分で言って、少しだけ可笑しかった。

侍女。

いまさら。

それでも、レオンは鼻で笑い、短く返す。


「そうかよ」


それで十分だった。

説明はいらない。

この隻眼の男は、理屈より先に、必要な仕事の輪郭だけを掴む。

そういう意味では、今夜いちばん侍女向きなのかもしれない。


私はまた、砂を擦る。

しゃり。

石突きが返る。

とん。


「……一つ」


カイルが吐く。


「……二つ」


少女の片膝がさらに沈む。


「……三つ」


黒土が、今度は脈というより、寝返りに似た小さな返しを返した。

どくん、ではない。

もっと深いところで、ぬるく重心が変わる感じ。


浅い眠りだ。

まだ、すぐに破れる。

朝までは保たないかもしれない。

それでも、さっきまでの「いつでも跳ね起きる身体」ではなくなった。

あの子は初めて、自分から `伏せ床` へ身体を預けている。


そのことに、どうしようもなく安堵して。

同じだけ、どうしようもなく悔しかった。


私の手ではない。

私の名前でもない。

私の呼びかけですらない。

そういうものを全部外したあとに、ようやく眠れる。


それが現実だ。

そして、侍女というものは、現実に腹を立てながらも寝台の皺を直す生き物だ。


「眠っていてください」

私はもう一度だけ、小さく言った。

「今夜は、起きなくていい」


返事はない。

だが、黒い翼はもう逆立たない。

右の金も、左の黒も、今はどちらも薄く閉じかけている。

三つが完全に並んだわけではない。

けれど少なくとも、互いを押しのけてはいない。


それならいい。

今夜は、それでいい。


復讐は消えていない。

忠誠もなくなっていない。

地下宮殿で取り落とした怒りも、私の中でまだ腐らずに残っている。

それでも、今の私はようやく知った。

最後に触れられないことは、追い出されたという意味ではない。

そこまでの距離を守り続ける役が、まだ残っているということだ。


侍女の第四手など、本当は欲しくなかった。

第三手で終わるはずだった。

けれど主がひとりではなくなってしまった以上、こちらも手順を変えるしかない。


最後の接触者ではなく。

最後の呼び声でもなく。

眠りの拍だけを整える、触れない侍女として。


私は `伏せ床` の外縁を並走し続けた。

白百合の欠片は追跡の針ではなく、夜支度の分銅になっていた。


帝国暦849年。冬。

ミナは、三位一体の少女から `そこまで` と止められたことで、自分が最後の接触者にはなれないと受け入れます。

そのうえで彼女は、名を呼ばず、触れず、外縁から `数えるだけの拍` と歩幅を整える役を引き受け、三位一体の少女が初めて `伏せ床` の上で浅い眠りへ入るための夜支度を整え始めたのです。

最後までお読みいただきありがとうございます。一言でも感想いただけると励みになります。

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