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泥濘(でいねい)のレクイエム ―英雄の残火と、つぎはぎの神魔―  作者: 堀吉 蔵人
第2部

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第83話:祈らない夜課、浅い眠りの囲み 【ヘルマン】

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祈りには、向いている夜と、毒になる夜がある。


私は若い頃、それを神学ではなく救護舎で学んだ。

凍傷兵を運び込んだ晩、若い助祭が善意から聖句を唱え続け、半死半生の兵がその声に縋って起き上がろうとしたことがある。

起き上がれば助かると思ったのだろう。

実際には、温まっていない血が一気に回り、その兵は明け方を待たずに死んだ。


古参の衛生司祭は、その助祭を殴らなかった。

ただ、濡れた布を絞りながらこう言った。


「祈りは方向を与える。方向があるうちは、人は立ちたがる。だが眠らせねばならぬ時に方向を与えれば、起きる。起きれば裂ける」


その言葉を、私は今夜ほど思い出したことがない。


黒土の `伏せ床` の外周で、私は祈りを禁じたまま、異端の眠りを見張っていた。


気分は最悪だった。

最悪だが、表現としてはそれでもまだ軽い。

教会の執行司祭が、夜半の野外任務で自軍の祈祷文を捨てさせ、異端審問の正式手順も下げ、外周の兵へ「名を呼ぶな、祈るな、数だけを残せ」と命じているのだ。

ここまで来ると、もはや背教の稽古である。


だが、それでも正しい。

あるいは、少なくとも今この場で一番壊しにくい。


黒土の中では、小さな器体が `伏せ床` へ身を預けはじめている。

完全な眠りではない。

片翼にはまだ細かな震えが残り、黄金の瞼も漆黒のそれも、いつでも半端に戻れそうな隙を持っている。

だが第79話までのような「少し触れれば跳ね起きる身体」でもない。

第80話で視線を切り、第81話で条件が器の側から示され、第82話で白い追跡者が `触れない侍女` に自分を引き直した。

いま現場に残っているのは、保持者の左、隻眼の肩、追跡者の拍、そして外周の抑えだけだ。


美しいとは欠片も思わない。

だが、工程としては無駄がない。

そのことが、私の胃をさらに重くした。


北の外縁ではガルドが槍の石突きを低く打ち、白百合の女が砂を擦って拍を薄く重ねる。

中では保持者が荒い呼吸を長く吐き、隻眼の剣士が外から肩を返している。

術師の少年は観測石を握り、過剰な理屈を飲み込んだまま灰色の反発だけを数えていた。

私の部下たちは、その外を囲う。

布は張るが垂らさない。

死塩は置くが投げない。

長柄は向けるが差し込まない。


教会らしくない。

教会らしくないが、今ここで教会らしさを貫けば壊れる。

それが分かってしまった以上、もはや前の自分へは戻れない。


「ヘルマン殿」


ラザルが、歯の間で呼んだ。

抑えてはいるが、抑えきれない苛立ちが滲んでいる。

彼だけではない。

若い助祭たちも、静修騎士たちも、みな同じ顔をしていた。

我々は何をしているのか、と。

何を守らされているのか、と。


正しい問いだ。

問いとしては。


「このまま一晩、見ているおつもりですか」

ラザルは低く言う。

「今ならまだ輪を閉じられる。保持者も追跡者も疲弊している。浅く眠ったところを抑えれば」


「浅く眠ったところを抑えれば?」

私は繰り返した。


「……器体を確保できます」


確保。

便利な言葉だ。

便利な言葉はたいてい、現場で人を殺す。


私は視線を黒土から外さずに答えた。

「確保ではない。引き剥がしだ」


ラザルが息を呑む。

その沈黙を利用して、私はさらに言葉を重ねる。


「完全に眠りに落ちる前の人間を、寝台から乱暴に起こしたことはあるか?」


「兵を叩き起こすことなら」


「それで済む相手なら、今夜ここまで腐っていない」


北の `伏せ床` にいるのは、雪崩兵でも酔漢でもない。

三つに裂けかけた器だ。

眠りが浅いからこそ危うい。

浅い眠りとは、起こしやすい状態ではなく、最も中途半端に壊しやすい状態である。

人はそのことを驚くほど理解しない。

眠っているなら捕れる、と短絡する。

だが眠りは段階だ。

どこまで沈んでいるかで、起こす行為の意味が変わる。


今の器体をここで揺すれば、起きるのではない。

偏る。

あるいは、途切れる。

そのどちらも、回収ではなく損壊だ。


「今夜の任務はもう `回収` ではない」

私ははっきり言った。

「朝まで崩さないことだ」


言い切ってしまってから、喉の奥にひどい鉄臭さが広がった。

これを口にした瞬間、私は現場指揮官として一線を越えた。

鐘を鳴らさなかった時点で半分越えていたが、今の一言で完全に戻れなくなった。


ラザルは怒っていた。

それも当然だ。

回収班として出た人間が、「回収ではない」と上官に言われる。

教義の言葉で塗ろうにも塗れない。

教本のどこを開いても、異端の浅い眠りを朝まで監視せよとは書いていない。


「それを報告書にどう書くのです」

ラザルの問いは、怒りと恐れが半分ずつだった。


「書ける形にする」

私は即答した。

「それが私の仕事だ」


卑怯な言い方だと思う。

だが現場責任者の卑怯さとは、たいていそこにある。

現場で引き受けた醜い判断を、後日どこまで文面に埋めるか。

祈りを禁じたこと。

異端の侍女の拍を黙認したこと。

保持者と追跡者と教会の外周が同じ工程の中で噛み合ったこと。

そのどれもを真実のまま提出する気はない。

だが、ここで真実の潔白さを優先して器を壊す気もない。


私は自分の腰の祈祷紐へ手をやった。

冬の任務では、指先の感覚を保つためにも紐の結び目を弄る癖がある。

若い助祭の頃からの悪癖だった。

だが今夜その癖は危うい。

祈る気がなくても、祈る形は人に移る。


私は紐を外し、鞄の奥へ押し込んだ。


ラザルが目を見開く。

若い助祭メルは、もっと露骨に動揺した顔をした。

分かる。

司祭が任務中に祈祷紐を隠すところなど、見たことがないだろう。


「見世物ではないぞ」

私は低く言った。

「真似をするな。必要な者だけ、音の出るものをしまえ」


メルが慌てて胸元の小さな珠を押さえる。

ラザルはなお不服そうだったが、黙って十字の金具を裏返した。

トビアだけが、一つ頷いて自分の肩布を固く結び直した。

理解が早い者は助かる。

ただし、理解の早い者ほど後で重くなる。


「配置を詰める」

私は言った。

「今夜から夜明けまでは、祈祷班ではなく監視班だ。言い換えれば、全員、目撃者になれ。救済者の顔をするな」


自分で言っていて胸糞が悪かった。

救済者の顔をするな。

それを聖職者へ命じている。

だが今はそうするしかない。

救済の顔をした瞬間、人は手を出す。

手を出した瞬間、この浅い眠りは終わる。


私は地面へ短く杖の石突きを当てた。


とん。


黒土の内側で、保持者の肩がわずかに揺れる。

追跡者の砂擦りが、それに薄く応じる。

よい。

強すぎない。

一人の声に寄っていない。


「北一」

私はトビアを呼んだ。

「お前が一拍目だ。石ではなく足で取れ。規則正しすぎるな。行進にするな」


「了解」


「東二、メル。声を出すな。呼吸だけだ。器体が大きく跳ねた時だけ、手旗で伝えろ」


「は、はい」


「西三、ラザル。白布は巻いたまま持て。抜くな。もし第三の追跡者以外が入るなら、お前が止める。だが黒土には一片も垂らすな」


ラザルは苦い顔で頷いた。

「……了解」


「南外、レネ。増援を止めろ。誰も近づけるな。特に敬虔な顔をした連中ほど遠ざけろ」


若い騎士が一瞬戸惑う。

当然だ。

だが、こういう時は理由まで与えない方が速い。

彼はやがて短く返した。


「承知しました」


そして私は、最も言いたくない相手へ視線を向けた。

白百合の女だ。

器の外縁を並走しながら、名前を呼ばず、拍だけを整えている。

この場にいる誰よりも個人的な執着を抱いているくせに、今はその執着を一番上手く使っている。

気に食わない。

だが事実として、そうなのだ。


「追跡者」


彼女は顔を上げない。

ただ耳だけがこちらを拾う。


「今夜だけは、お前の拍を認める」

私は言った。

喉がひりつく。

「だが、それは器体を起こさない限りだ。名前を重ねた瞬間、私はお前から先に切る」


女はほんの一拍だけ沈黙し、それから平らに返した。


「結構です」


不遜だった。

不遜だが、いま必要な返事でもあった。

感謝されても腹が立つだけだし、敵意をむき出しにされても場がざらつく。

その無愛想さは、今夜に限っては助かった。


「保持者」

次に、カイルへ。

「右が跳ねたら言え。強がるな。強がりは工程を壊す」


泥街の少年は、返事の代わりに吐く息を一つ長くした。

それで十分だった。

彼は痛みの中で嘘をつくほど器用ではない。

だからこそ信用できる。

信用したくはないが。


「隻眼」

レオンが視線を上げる。

「お前は落ちる時だけ返せ。持ち上げるな。英雄面をするな」


レオンの口元がわずかに歪んだ。

笑いとも、毒づきともつかない顔。


「するかよ」


「ならいい」


この場では、短い言葉の方が信じられる。

長い誓いはだいたい裏切る。


配置を定め、ようやく外周の空気が夜番らしくなり始めた。

戦闘前の張り詰めた気配ではない。

救護舎で、熱のある兵の寝息が浅くなるたび全員が手を止める、あのいやらしい静けさだ。

一人でも功を焦れば終わる。

一人でも正しさに酔えば終わる。


だから私は、部下たちの顔を順に見た。

若い助祭メルはまだ青ざめている。

ラザルはなお納得していない。

トビアだけが、すでに「いま必要な仕事」へ顔を切り替えている。

よろしい、と私は思う。

今夜はそれでよい。

納得など要らない。

納得は明日、報告書の外で腐ればいい。


その時、外周のさらに外で、小さな祈り声が漏れた。


若い補助司祭だ。

気づけば両手を組み、唇の先で聖句の冒頭を転がしている。

善意だ。

善意だからこそ最悪だった。


黒い翼が、ぴくりと逆立つ。

保持者の右腕の灰色が、うすく明るさを増す。

追跡者の拍も一拍だけ遅れる。


私は迷わなかった。

踏み込み、補助司祭の頬を平手で打つ。


乾いた音。

その場の全員が硬直した。


「祈るな」

私は静かに言った。

怒鳴らなかった。

怒鳴れば、それ自体が強い方向になる。

「今夜、お前の善意は凶器だ。次に口を開けば後方へ縛る」


若者の目に涙が浮いた。

屈辱だろう。

だが今はそれでいい。

ここで彼に優しい言葉をかければ、また聖句が戻ってくる。

私は今夜、部下に好かれるために立っているのではない。

浅い眠りを朝まで壊さないために立っている。


頬を押さえた若者が下がる。

黒い翼の逆立ちが、ゆっくり寝る。

拍も戻る。

私は心の中でだけ、古参の衛生司祭へ詫びた。

あなたの言っていた通りだ、と。

祈りは方向を与える。

方向があるうちは、人は起きたがる。

今夜に必要なのは、方向ではなく棚だ。

落ちないための、仮置きの棚。


黒土の `伏せ床` を見つめながら、私は初めてこの場の本当の役割を理解した。

ここは救済の場所ではない。

赦しの場所でもない。

まして奇跡の場所でもない。


猶予だ。


明日まで壊さないための、汚くて、不完全で、教義に書けない猶予。

教会が本来もっとも嫌う種類の時間だ。

だが世界はしばしば、その猶予の上でしか次の正しさを選べない。


北の外縁で、拍が続く。


とん。

しゃり。

吐息。


とん。

しゃり。

長い息。


祈りではない。

だが、私はその反復を見ていて、奇妙な既視感に襲われた。

夜課だ。

鐘ではなく石突きで始まり、聖句ではなく数えで揃え、救済ではなく睡眠の深さを保つための、ひどく歪んだ夜課。


笑えなかった。

だが、少しだけ名前がついたことで腹が据わる。

夜課なら、私は責任者でいられる。

祈れない夜課でも、順番と沈黙を維持することなら出来る。


「第一夜番を固定する」

私は低く宣言した。

「交代は私が言うまで認めない。疲労より崩れの方が先だ。眠るな。だが起こすな。見張れ。測れ。記憶しろ」


部下たちの返事が、ばらばらに返る。

それでいい。

揃いすぎた声は、今夜はむしろ危ない。


私は最後に、黒土の中心ではなく、浅く眠りに落ちかけた器の肩を見る。

黄金も黒も、いまは半ば閉じている。

保持者の左はまだ残り、隻眼の肩も過不足ない。

追跡者の拍は苦いほど正確だ。


最悪の並びだ。

だからこそ、今は壊れにくい。


「夜明けまで持たせる」

私は自分へ言い聞かせるように呟いた。

「それ以外は、明日の仕事だ」


そうして私は、祈祷を捨てた外周の先頭へ立ち続けた。

鐘を鳴らさないまま。

名を呼ばないまま。

異端の浅い眠りを、教会の夜課として囲うために。


帝国暦849年。冬。

ヘルマンは、`伏せ床` の浅い眠りを崩さないため、教会側の任務をついに `回収班` から `祈らない夜番` へ組み替えます。

祈祷文も善意の声も捨て、石突きと数えだけを残す監視布陣を固定したことで、`伏土の窪み` の現場は初めて `朝まで保たせるための猶予` を得始めたのです。

ここまでお付き合いいただきありがとうございます。ブックマーク・評価もぜひお願いします!

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