第80話:隻眼の肩、伏せ床の寝かせ方 【レオン】
ダークファンタジー群像劇『泥濘のレクイエム』、毎日20時更新中です。
戦場でいちばん厄介なのは、たいてい敵じゃない。
助けたいと思っている味方だ。
士官学校じゃ、そういうことは教えてくれなかった。
あそこでは、誰が最初に突撃するか、誰が旗を守るか、どこで名誉ある戦死を遂げるかみたいな話ばかりだった。
けれど、本物の戦場や救護舎で何度も見たのは、その逆だ。
倒れた人間を前にすると、誰もが自分なりの正しさで手を伸ばす。
温めたい者がいて、起こしたい者がいて、水を飲ませたい者がいて、祈りたい者がいる。
その全部が、順番を一つ違えただけで人を殺す。
だから最後に必要になるのは、いちばん強い腕じゃない。
「もう触るな」と怒鳴れる喉だ。
いまの僕は、そのいちばん嫌な役をやっていた。
黒土の `伏せ床` の縁。
半歩内側には、銀髪の小さな器がいる。
右目に黄金、左目に黒を抱え、片翼だけ泥のように黒い、あまりにも歪な帰還体。
その半歩後ろで、カイルが顔色を失ったまま左手だけを残し、灰色の右腕をなるべく寄せないよう歯を食いしばっている。
さらに外では、ミナがもう名前を重ねず、足元の硬さや土の段差だけを侍女みたいな落ち着いた声で告げていた。
もっと外。
教会の白布が風で鳴り、死塩の匂いが薄く漂い、ヘルマンとかいう執行司祭が部下を縛るみたいに外周を押さえている。
そのさらに後ろでは、今にも飛び込みたそうなリノと、喉まで説明をせり上げたまま堪えているセト、そして槍の石突きを地へ押し込んだガルドが、全員そろって「自分が何かすれば少しはましになる」と思っている顔をしていた。
よく分かる。
僕だって同じ顔をしている。
違うのは、いまはそれをやったら終わると知っていることだけだ。
「レオンのおっさん」
リノが、息を潜めた声で呼ぶ。
明るさだけで危機を跨いできた女にしては珍しく、今は本気で顔色が悪い。
「あの子、まだ浮いてる」
言われなくても見えていた。
三位一体の少女は、 `伏せ床` へ完全には体重を預けていない。
片膝は触れている。
黒い翼も半分たたまれている。
けれど肩と背中の力だけが、まだどこかへ逃げ道を探すみたいに張っていた。
眠る直前の身体じゃない。
いつでも跳ね起きられる身体だ。
カイルの左腕が小さく震える。
その震えは、支えている腕の限界だけじゃない。
灰色の右が、少しでも近づけば何かを壊すと分かっている人間の震えだ。
「近づくな」
僕は振り返らずに言った。
「リノも、坊主も、そこから先は来るな」
「でも」
「でもじゃない」
思ったよりきつい声が出た。
たぶん、少しだけ自分に向けても怒鳴っていた。
本当は、僕だって入りたい。
カイルの肩を全部引っ張ってやりたいし、あの小さな器をひょいと抱き上げて、黒土だの教会だの面倒くさい話からまとめて遠ざけたい。
昔の僕なら、それを勇気と呼んでいたと思う。
英雄に憧れていた頃の僕なら、きっと真っ先に飛び込んでいた。
でも、そういうのはだいたい死ぬ。
死ぬだけならまだいい。
今は、一人で済まない。
僕は一歩だけ体重をずらし、カイルの右肩ではなく左の背へ、自分の肩口を当て直した。
中へ入りすぎない。
けれど、崩れたらこちらへ重みを逃がせる位置。
ヘルマンに「肩だけだ」と命じられた時は腹が立った。
敵に指図される筋合いはない。
だが、やってみると分かる。
悔しいくらい、その指示は正しい。
あの白衣の司祭は好きになれないが、順番を間違える人間じゃないらしい。
それがいちばん面倒だった。
「カイル」
「聞いてる」
返ってきた声は、もはや若い男のものじゃなかった。
熱と痛みで角が削られ、荷車の軋みたいに掠れている。
「右は使うな。預けるならこっちへ預けろ」
「分かってる。分かってるけど、こいつが」
こいつ。
灰色の剣のことだろう。
右腕の骨の中で笑ってるみたいな、あの嫌な熱。
「喋るな」
僕は低く切った。
「今はお前が頑張る話じゃない。落とさない話だけしろ」
カイルが、苦笑いみたいに口を歪める。
こんな時でも反発する余裕が残っているなら、まだ切れていない。
そういう確認を、僕はずっと現場でしてきた。
返事の調子、目の焦点、肩の入り方。
人が壊れる時は、たいていそこで先に兆候が出る。
問題は、カイルじゃない。
本当に危ないのは、その前にいる小さな器の方だった。
三位一体の少女は、僕たちの理解よりずっと繊細に周囲を拾っている。
名前一つで揺れる。
教会の匂いで硬くなる。
中心の引きにさえ「まだだめ」と自分で言い返した。
そんなものを、いま何人で見ている。
味方も敵も、全員が息を詰めて、結果を待っている。
うまく寝るか。
誰へ寄るか。
どこで壊れるか。
その視線の重さに、ふと覚えがあった。
霊峰で凍えた兵を掘り出した時だ。
士官学校を出たばかりの若い兵が、救護舎の床に寝かされるのを拒んで、歯を鳴らしながら起き上がろうとしていた。
痛いからじゃない。
怖いからだ。
寝たら終わる気がする。
周りで何人もが自分を見て、「助かるか」「駄目か」を勝手に決めている、その目に押し潰される。
ああいう時、人は布団じゃ眠れない。
寝台の柔らかさより先に、見張られていることの方が身体を固くする。
たぶん、今のこれも同じだ。
あの子は `伏せ床` を嫌がっているんじゃない。
見られながら、選ばれながら、眠らされるのを拒んでいる。
そう思った瞬間、自分でも驚くほどはっきり次が見えた。
「見るな」
気づけば、僕は声を張っていた。
黒土の上で、その一言だけがやけに硬く転がる。
「全員、あの子を見るな!」
外周の空気が凍りついた。
リノが目を見開き、セトが眉をひそめ、教会側の白布がざわめく。
けれど僕は止めなかった。
「助けたい顔するな。祈るな。結果を待つ顔もするな」
喉が焼ける。
それでも吐き切る。
「寝かせるだけだ。見世物にするな」
沈黙が一拍落ちた。
最初に動いたのは、意外にもヘルマンだった。
「聞いたな」
低い、冷たい声。
だがそこには、反発より先に理解があった。
「外周、視線を切れ。内を直視するな。布はそのまま、顔だけ落とせ」
白衣の兵たちが、戸惑いながらも槍と視線を下げていく。
トビアは最初から分かっていたみたいに横を向き、メルはあたふたしながら土ばかり見始めた。
ラザルは露骨に嫌そうな顔をしたが、それでも従った。
敵と同じ判断をしたことが腹立たしい。
けれど、今はそれでいい。
「リノ」
「う、うん」
「笑うな。泣くな。何も足すな。下がって、東を見る」
彼女は一瞬むっとした顔をしたあと、すぐに頷いた。
本当に大した女だと思う。
こういう時、文句を飲み込める。
「セト」
「分かってる。観測だけだろ」
「違う。カイルの右が跳ねたらすぐ言え。理屈は後だ」
舌打ちが返る。
でも、返事代わりに観測石を握る手が強くなった。
「ガルド」
「外を返す」
「ああ。内は見るな」
ガルドは低く唸り、槍の穂先をさらに外へ向ける。
あの武人が素直に目を逸らしたのを見て、ようやく少しだけ場が静まった。
残るのは、足元の声と、僕の肩と、カイルの左だけだ。
ミナが小さく息を吸う。
もう `お嬢様` とは呼ばない。
代わりに、寝台係みたいな平らな声で告げた。
「右足の先、柔らかいです。半歩だけ」
少女のつま先が、黒土を探る。
カイルの膝が震える。
僕は肩口でその揺れを受けた。
重い。
少年一人の重みじゃない。
剣も、熱も、責任も、意地も、全部まとめて預けられてくる重さだ。
「カイル」
僕は視線を少女から外したまま言う。
「持ち上げるな。下ろすな。預けろ」
「……雑だな」
「分かりやすいだろ」
返事のあと、カイルの呼吸が少しだけ揃った。
これも現場で何度も見た。
人間は、立派な言葉より、短い仕事の言葉の方が身体に入る時がある。
戦え、頑張れ、生きろ、なんて言葉は、たいてい遅い。
右、左、持て、置くな、預けろ。
そういう言葉だけが、ぎりぎりの身体を動かす。
ミナがまた言う。
「次は左。そこは冷えていません」
少女の左足が入る。
黒い翼が震える。
その瞬間、僕は反射で顔を上げそうになった。
駄目だと分かっているのに、見たくなる。
ちゃんと寝るか、偏らないか、壊れないか。
確認したい。
けれど、それをやればさっきの怒鳴りが全部嘘になる。
僕は歯を食いしばって、土だけを見た。
自分の足先と、カイルの踵と、少女の影だけを見る。
不思議なもので、顔を見ない方が分かることもある。
重みの逃げ方。
呼吸の深さ。
張っていた背が、どの瞬間にひとつ解けるか。
先に変わったのは、肩だった。
銀髪の器の肩から、ほんのわずかに力が抜ける。
次に、カイルの左腕へ預かっていた張りが、土へ逃げる。
「ミナ」
「はい」
「もう一つ」
僕が促すと、彼女は一拍だけ迷ってから、静かな声で言った。
「寝台の端です。落ちません」
それは侍女の声だった。
誰かを所有する声じゃない。
支配する声でも、祈る声でもない。
ただ、寝る前の相手へ事実だけを渡す声だ。
どさり、ではなかった。
もっと小さい音。
濡れた布をそっと置いた時みたいな、力の抜けた接地音。
少女の膝が沈み、つづいて腰が落ちる。
黒い翼が、ようやく半分より深くたたまれた。
カイルの肩ががくりと崩れかける。
僕はそこへ体重を入れ、外から支え返す。
「まだだ」
思わず漏れる。
誰に言ったのか自分でも分からない。
カイルか、僕自身か、目を上げそうになる全員へか。
セトの観測石が、かすかに鳴った。
「右はまだ跳ねてる! でもさっきより薄い!」
ヘルマンがすぐに怒鳴る。
「外周そのまま! 一歩も寄るな!」
その怒鳴りが、初めて味方の号令みたいに聞こえた。
気持ち悪い。
でも、やっぱり正しい。
僕は荒い息を吐き、ようやく少しだけ顔を上げた。
三位一体の少女は、まだ完全には眠っていない。
片目は細く開いているし、黒い翼も震えが残っている。
それでも、さっきまでの「いつでも跳ね起きる身体」ではなかった。
少なくとも、伏せ床の上へ自分の重みを半分以上預けている。
十分だ、と僕は思った。
今は十分だ。
昔の僕なら、こんなのは勝利でも奇跡でもないと不満をこぼしたかもしれない。
英雄譚の続きを待って、もっと綺麗な結末を欲しがっただろう。
でも、アレン様の泥まみれの背中を見て、帝都の底を這って、ここまで来た今は分かる。
本当に人を生かす場面っていうのは、だいたい綺麗じゃない。
剣を掲げるより先に誰かの手を止めて、祈るより先に目を伏せさせて、助けたい気持ちより先に順番を守らせる。
そんな、銅像にしたら格好のつかない仕事ばかりだ。
それでも、もし誰かがここで少しでも眠れるなら。
少しでも壊れず、次の朝まで持つなら。
隻眼の元騎士が、外から肩を貸すだけの役で終わっても、文句はなかった。
「レオン」
カイルが掠れた声で呼ぶ。
「なんだ」
「……まだ、離すなよ」
笑ってしまいそうになった。
こっちは最初からそのつもりだ。
「馬鹿か」
僕は肩へもう一度だけ力を入れる。
「寝かせるまでは、離すわけないだろ」
黒土の `伏せ床` の上で、少女の呼吸がひとつ深くなる。
それを見届けても、今度は誰も飛び込まなかった。
ようやく、この場の全員が同じことを覚え始めたのだと思う。
救うことと、触ることは、同じじゃない。
帝国暦849年。冬。
レオンは、`伏せ床` の処置段階で本当に危険なのが敵意ではなく `助けたい者たちの手と視線の重なり` だと見抜きます。
彼は味方側の実務者として `見るな、寄るな、順番を守れ` を固定し、ミナの足元の声、カイルの左の支え、自分の外からの肩返しだけを残すことで、三位一体の少女が初めて `伏せ床` へ自分の重みを預け始める条件を整えたのです。
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