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泥濘(でいねい)のレクイエム ―英雄の残火と、つぎはぎの神魔―  作者: 堀吉 蔵人
第2部

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第79話:鳴らない祈祷、伏せ床の順番 【ヘルマン】

いつもお読みいただきありがとうございます。感想お待ちしています!

人を眠らせる手順と、人を処刑する手順は、驚くほどよく似ている。


どちらも順番を間違えると暴れる。

どちらも、触れる位置を一つ違えれば取り返しがつかなくなる。

そしてどちらも、周囲にいる人間が「自分こそ正しい」と思い始めた瞬間から壊れる。


私はそれを、戦場よりむしろ冬の救護舎で学んだ。

雪崩に巻かれた兵を掘り出した後、最も危険なのは敵兵の矢ではない。

「温めれば助かる」と善意で怒鳴る者たちだ。

凍えた身体は、急に火へ寄せれば裂ける。

まず濡れ布を外し、次に末端を擦らず、最後に息の深さを揃える。

焦った善意は、たいてい手順を飛ばす。


いま目の前にあるのは、雪崩兵ではなく異端の揺り籠だ。

しかも、眠らせるべき対象が一人かどうかすら怪しい。


北の三杭の内側へ、銀髪の小さな器体が入った。

半歩遅れて灰色の保持者が踏み込み、そのさらに外で白い追跡者が足を止める。

鱗の戦士が槍を低く構え、隻眼の剣士が外から肩を支え、少年術師が喚き、私の部下たちは誰一人として自分の仕事を説明できない顔で持ち場に張りついている。


最悪だった。

だが、最悪の度合いが一段変わった。


もう「奪うか」「奪われるか」ではない。

あの伏せ床へ入った瞬間、局面は回収戦から処置へ変質した。

ここで誤るのは戦術の失敗ではない。

患者を台から落とす種類の失敗だ。


私が若い助祭だった頃、異端審問局の古参に最初に叩き込まれたのは、「ためらうな」ではなく「名を急げ」だった。

相手が何者かを決めろ。

決めたら分類しろ。

分類したら、手順は自動的に落ちてくる。

不浄、憑依、異端、魔性、錯乱。

名前さえ定まれば、教会は強い。

誰が祈り、誰が縛り、誰が焼くかまで、驚くほど滑らかに決まる。


だからこそ、今のこれは最悪なのだ。

目の前の小さな器は、どの欄にも綺麗に入らない。

異端であることは疑いようがない。

だが、異端と断じて即座に布を入れれば壊れる。

憑依と決めて切り離そうにも、切り離した先に何が残るのか誰にも分からない。

救うべき子供と見るには内側が複雑すぎるし、ただの怪物と見るには、こちらの指示よりずっと慎重に自分を扱っている。


そして最も厄介なのは、私自身がもうそれを見てしまっていることだった。

知らなければ、命令は楽だった。

中央を塞げ、布を落とせ、外縁ごと焼け。

それで済んだ。

だが一度でも「この順番でなければ裂ける」と理解した人間は、もう前の自分には戻れない。

現場責任者とは、たいていそういう汚れ方をする。


鐘を鳴らさなかった時点で、私はきれいな戦いを諦めている。

鳴らない鐘の任務に求められるのは、勝利宣言ではない。

後から提出する報告書の中で、どこまでを沈黙させ、どこまでを責任として引き受けるかだ。

今この場で私が選んでいるのは、戦術だけではない。

後日、誰の罪状をどう書き換えるかという種類の泥でもあった。

この場にいる若い助祭たちは、きっと何年か後に別の現場で同じ顔をする。

その時、今日の判断を「弱さ」と覚えるか、「順番」と覚えるかで、救えるものの数が変わる。

そう思えばなおさら、私の命令は曖昧であってはならなかった。


認めたくはない。

認めたくはないが、私はすでにその前提で全員を配置し直してしまっている。


「ヘルマン殿」

トビアが低く呼ぶ。

彼も理解している顔だった。

理解したくないが、見えてしまった者の顔だ。

「北の三杭へ入りました。次は」


「分かっている」


私は答えながら、黒土の艶を見た。

伏せ床の内側は、中心ほど深くない。

外周ほど冷えてもいない。

さきほどまではただの薄い盆地に見えたが、いまは違う。

ここは穴ではなく、工程の一部だ。

中央で選ばせる前に、一度だけ混成状態のまま寝かせるための棚。


教会の文書なら、こんなものを許さない。

曖昧な混成状態は最も嫌う。

ならば切り分けろ、浄化しろ、名を与えろ、正誤を定めろ、と命じるだろう。

だが現場の黒土は、それをやるなと言っていた。

名を急ぐな。

触れすぎるな。

誰か一人の意思で引っ張るな。


まるで教義に喧嘩を売るような手順だ。


ラザルが私の横へ詰めてくる。

苛立ちが鎧越しにも分かった。

「今です。三杭へ入ったなら囲いきれる」


「囲いきってどうする」

私は視線を外さずに返した。


「どうする、とは」

ラザルは声を潜めた。

「眠らせるのでしょう? ならここで白布を」


「駄目だ」

即答だった。

自分でも驚くほど早かった。

「今、布を一枚でも内へ入れれば、保持者の灰と追跡者の声がぶつかる。そこで器がどちらかへ寄れば、伏せ床の意味がなくなる」


ラザルは言葉を失った。

彼の顔には、反論より先に嫌悪が浮かんでいる。

無理もない。

今の私は、教会の執行司祭として最悪のことを言った。

異端の声と、灰色の剣に食われた保持者を、処置の一部として数えたのだから。


「では何を残すのです」

ラザルが歯を噛む。

「あの泥街の小僧と、白い追跡者の好きにさせるのですか」


その問いの形が、逆に私を落ち着かせた。

好きにさせる。

違う。

好きにさせれば壊れる。

今必要なのは自由ではない。

順番だ。


「残すものと、退かせるものを決める」

私は低く言った。

「それが指揮だ」


そして、その指揮がどれほど不快でも、現場では好き嫌いより先に秩序が要る。

メルのような若い助祭は、今にも善意で一歩踏み込みかねない。

ラザルのような正しい兵は、正しさゆえに布を落としたがる。

トビアは理解が早いぶん、理解したことを口にしすぎれば隊の空気が割れる。

誰も悪くない。

悪くないからこそ、全員の「正しさ」を半歩ずつ外へずらさなければならない。


私はそこで、ようやく自分が今していることの名前を見つけた。

制圧ではない。

説得でもない。

統率だ。

しかも、自軍だけを統率しているのではない。

異端の追跡者、灰色の保持者、鱗の戦士、無礼な少年術師、その全員の「余計な善意」をまとめて外へ逃がすために声を使っている。

こんな指揮を、私は教本のどこでも習っていない。


そこで私は、ようやく自分が次に何を命じるべきかを言葉にできた。


「全員聞け」

声を張る。

黒土がわずかにそれを丸めて返した。

「三杭の内側へは、これ以上誰も入るな。保持者と器体、それに外縁の追跡者だけを残せ」


メルが息を呑む。

ラザルは露骨に顔をしかめた。

トビアだけが、無言のまま角度を変えた。


「トビア。北東外周を維持しろ。囲え、だが閉じるな」

「はい」

「ラザル。白布は下げたまま待機。布は天へ向けて張れ。内へ垂らすな」

「……了解」

「メル。死塩はさらに一歩外だ。内側へ飛ばしたら貴様から伏せる」

「は、はい!」


言いながら、自分の声がどこまでも嫌だった。

これではまるで、異端儀式の進行役ではないか。

祈祷文の代わりに封鎖手順を読み上げ、浄化の代わりに「まだ触れるな」と命じている。


だが、ここで教義の面子を守って何になる。

目の前で壊れれば、後に残るのは報告書の綺麗さだけだ。

そんなものは墓標にもならない。


私はさらに息を吸い、最も言いたくない一言を選んだ。


「追跡者」


白い外套の女が、ほんの少しだけこちらを向く。

目は冷たい。

冷たいが、先ほどまでのように喉笛だけを狙う目ではない。

現場の手順を待つ目だ。

それが腹立たしかった。

腹立たしいが、今は利用価値がある。


「名を重ねるな」

私は言った。

「足元だけを告げろ。お前の呼び方は器を偏らせる」


白い女は、わずかに眉を動かした。

怒るか、嗤うか、どちらかだと思った。

だが返ってきたのは、短い確認だけだった。


「足元だけですね」


信じ難い話だが、それで通じた。

異端審問の尋問台よりも、今の一問一答の方がよほど円滑だ。


次に私は保持者を見る。

泥街の少年は、もうほとんど顔色がない。

右腕の灰色は肩から背へまで食い込み、立っているだけで奇跡に近い。

それでも小さな器体の半歩後ろは外していない。

この局面で最も信用ならないのは灰色の剣そのものだが、その剣を抱えた少年の頑固さだけは、残念ながら戦力に数えるしかなかった。


「保持者」

私は呼んだ。

「その位置を動くな。右を近づけるな。左だけを残せ」


少年は返事の代わりに、荒い息を吐く。

理解したかどうかは怪しい。

だが、白い女がすぐに低く繰り返した。


「半歩後ろのままです。左だけ」


なるほど、と私は思う。

今のこの場で最も危険なのは、人数ではない。

声の多さだ。

命令が増えるほど、器は引かれる。

なら、残すべき声は限られる。


保持者へ届く声。

器体が拒絶しない声。

それだけだ。


「隻眼」

今度はレオンへ。

「貴様は外から支えろ。肩だけだ。中へ入るな」


レオンは一瞬だけこちらを見た。

敵を見る目ではなかった。

同じ泥の中で面倒を抱えた者同士の、心底うんざりした目だ。

その目が、妙に正直で気に入らなかった。


「分かった」

短い返事。


「鱗の戦士」

私はさらに続ける。

「槍は地につけろ。上げるな。外から流れだけを返せ」


ガルドが低く唸る。

命令されるのは好きではないのだろう。

だが、この武人は嫌いな相手の理屈でも、現場で筋が通っていれば飲み込む。

だから厄介で、だから助かる。


「今だけだぞ、白衣の男」

「十分だ」


そこで、伏せ床の内側で銀髪がわずかに揺れた。

器体が膝を折りかける。

保持者の肩も同時に沈む。

外縁の白い女が呼吸を詰め、レオンが外から肩を返す。


全員が一斉に動きかけて、止まる。


その一瞬に、私は確信した。

この場を壊すのは敵意ではない。

善意の重なりだ。


「動くな!」

私は怒鳴った。

「まだ誰も寄るな! 器が自分で伏せるのを待て!」


喉が焼ける。

だが叫ばねばならない。

全員、助けたい形が違うからだ。

違う手で同時に支えれば、あの小さな器はどこか一方へ引かれる。

今はまだ、誰の救いも与えてはいけない。

ただ、壊れない角度だけを残す。


それは祈りではなく管理だ。

救済ではなく猶予だ。

教会が最も嫌う種類の仕事だった。


「ヘルマン殿」

トビアが低く問う。

「ここまでやって、なお回収を諦めるのですか」


私は答えるまでに一拍を要した。

諦める。

違う。

諦めてはいない。

ただ、順番を後ろへ回しただけだ。


「諦めはしない」

私は言った。

「だが、寝かせる前に奪えば壊れる。壊れたものは回収ではない」


それを口にした時、自分が何を選んだのか、ようやくはっきりした。

私は異端を見逃したのではない。

より完全な回収のために、いまは寝かせる順番を選んだ。

ひどく醜い理屈だ。

だが現場の責任とは、たいていそういう醜さで出来ている。


北の三杭の内側で、銀髪の器体がさらに深く沈む。

黒い翼が縮み、保持者の左手がわずかに支える。

白い追跡者は名前を呼ばない。

隻眼は肩だけを返し、鱗の戦士は槍を地へ伏せる。

私の部下たちは、初めて自分たちが「止める」のではなく「崩さない」ために立っていることを悟った顔で、外周に張りついていた。


鳴らない鐘の任務は、ここで完全に別物へ変わった。


処刑でもない。

逮捕でもない。

回収ですらない。


順番を守らせること。

それだけが、今この場で教会に許された役目だった。


それが救いかと問われれば、違う。

それが正しいかと問われても、答えたくない。

だが、正しさを名乗る前に壊さないことを選ぶのは、少なくとも指揮官の仕事だった。


私は長柄を低く構えたまま、黒土の伏せ床を見つめる。

ここから先は、さらに醜い。

誰が最後に触れるか。

誰の声で眠りへ入れるか。

保持者の右腕がどこで限界を迎えるか。


そのどれもが、報告書には書きにくい。

だが、現場で見落とせる種類のものではなかった。


「誰も祈るな」

私は最後にそう命じた。

部下へでもあり、自分へでもあった。

「ここでは祈りも命令も、強すぎる」


そして私は、異端の伏せ床を守るために外周へ立ち続けた。

これほど教会らしくない任務を、私は他に知らなかった。


帝国暦849年。冬。

ヘルマンは、`伏せ床` に入った局面がすでに `回収` ではなく `寝かせる順番を壊さないための管理` へ変質したことを認め、教会側の役目を `止める` から `崩さない` へ切り替えます。

こうして `伏土の窪み` の現場では、カイルの支え、ミナの足元の声、教会の外周制御という限られた手順だけが許される、きわめて異様な処置段階が固定され始めたのです。

お読みいただきありがとうございました。次回もお楽しみに!

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