第78話:灰色の右腕、伏せ床までの三拍 【カイル】
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運び屋ってのは、足の裏で飯を食う。
腕っぷしが強いとか、喧嘩が強いとか、そういうのも無駄じゃない。
でも泥街で本当に生き残るのは、濡れた石畳のどこが滑るか、荷車の轍のどこが深いか、背負った荷の重心がどっちへ逃げるかを、足の裏で分かる奴だ。
だから、いまの俺がいちばん終わってるのは、右の足裏がもう半分死んでることだった。
熱い。
右腕だけじゃない。
右肩、肋、腰、膝まで、灰色の剣が中からじわじわ焼いてくる。
皮膚の上が熱いんじゃなく、骨の空洞へ溶けた鉛を流し込まれてるみたいな熱だ。
おまけに時々、右手そのものが自分のもんじゃなく、剣に生えた肉みたいに思える瞬間がある。
握ってるのか、握らされてるのか、その境目が曖昧になる。
そのくせ、足裏の感覚は薄い。
熱すぎて、何を踏んでるのか分からない。
だから左で数えるしかない。
左。
右。
左。
数えろ、とセトは言わなかった。
あいつは「考えるな、あの子の足とミナの声だけ追え」としか言わなかった。
雑な指示だと思った。
でも、雑だから助かった。
細かい説明をされても、たぶん今の俺の頭じゃ半分も入らない。
目の前には銀髪の小さい背中。
片方だけの黒い翼。
その半歩外を、白い外套の女が並走している。
ミナ。
本当なら一番信用しちゃいけない相手だ。
いや、本当も何も、ちょっと前まで斬り合いかけてた。
なのに今は、あいつの声が一番分かりやすい。
顔を見ると駄目だった。
あの目には、まだ殺意も未練も両方残っている。
どっちか一つなら対処もできるが、両方ある奴は読みづらい。
だから俺は顔を見ない。
声だけ聞く。
声の速さと、息の継ぎ方だけ拾う。
そうすると不思議なくらい、あいつが今は何を優先してるか分かる。
獲物を追う声じゃない。
寝かせる順番を守る時の声だ。
「左は浅い」
「そのままです」
「次は右へ半歩」
声に刃がない。
さっきまでみたいに、誰か一人の名前へ突っ込む勢いもない。
低くて、冷えてて、妙に細かい。
荷を落とさないためだけに使われる声だ。
背中の方では、セトが喚き、ガルドが吠え、教会の連中が短く命令を飛ばしている。
白い騎士が長柄の角度を変えるたび、外周の圧が少しだけ北へ流れる。
執行司祭とかいう嫌な目つきの男が部下を止めるたび、死塩の冷えが半歩外へずれる。
妙な話だった。
泥街なら、こんな面子が同じ荷を囲むことはまずない。
囲んだ時点で、誰かが横取りし、誰かが足を引っかけ、残りは逃げ道を塞いで値を吊り上げる。
大蜥蜴みたいなでかいのは力で持っていくし、白い連中は正義ぶって没収するし、ミナみたいな目をした奴は最後まで喉笛を狙ってくる。
セトみたいな小賢しいのは、後ろで値打ちを数えながら一番損の少ない場面だけ拾う。
つまり、普通なら全員敵だ。
俺だってそう思ってた。
思ってたし、たぶん終わったあともそう思う。
それでも今だけは、誰もこの小娘をひったくろうとしない。
ひったくれば壊れるからだ。
壊れたら、自分の欲しいものまで駄目になる。
だから全員、胸くそ悪いくらい器用に自分の欲を一段引っ込めてる。
そういう時の空気は知ってる。
橋が落ちかけた荷運びだ。
仲の悪い荷担ぎ同士でも、橋を渡りきるまでは同じ板へ体重を乗せる。
誰かが先に裏切れば、荷も橋もまとめて川底だ。
で、川を渡りきった瞬間に殴り合いが再開する。
今の俺たちは、たぶんそれだ。
和解なんかじゃない。
共闘って言うには性格が悪すぎる。
ただ、橋が落ちるまでは一緒に持つしかないだけだ。
意味は分からない。
黒土教の古い手順だの、伏せ床だの、そういう賢い言葉は半分も腹に落ちていない。
ただ、身体では分かる。
中央は駄目だ。
あっちは引く。
足首の骨に釣り針でも引っかけられたみたいに、勝手に一歩前へ出そうとする。
外も駄目だ。
あっちは冷える。
熱い右を一瞬で削る代わりに、左まで動かなくなる冷え方をしている。
で、その間の細いぬるい筋だけが、まだ立っていられる。
立つというより、落ちずに済む。
泥街の細路地で、両側の溝へ車輪を落とさないための、真ん中の一枚板みたいなもんだ。
問題は、その板の上を俺一人で歩いてるんじゃないってことだった。
目の前には、三人分だか何だか知らない化け物みたいな小娘がいる。
化け物、と思うたび腹が少し痛くなる。
見た目が子供だからじゃない。
黄金の目と黒い目が、たまにまるで別のもんみたいに揺れるからだ。
あれを一人と言い切るには、俺はまだ何も知らなさすぎる。
それでも、荷だとは思えなくなってきてる。
重さがあるから荷、ってわけじゃない。
自分で足を選ぶなら、もうただの荷物じゃない。
厄介なことに、その自分で歩く小娘の次に、今いちばん信用しなきゃいけないのが、自分の右腕だった。
どくん。
次の拍で、灰色の剣が脈を打つ。
右肘から肩まで熱が跳ね、視界の端が一瞬だけ白く欠けた。
喉の奥へ鉄みたいな味が込み上げる。
また来た。
返し荷ってやつだ。
最初はただ熱いだけだった。
次は、重い。
その次からは、たまに夢の断片みたいなのが混じる。
目を閉じてないのに、別の温度が差し込んでくる。
冷たい指。
柔らかい祈りみたいな息。
泥の底へ頭から沈むような、暗くて甘い悲しさ。
全部、俺のもんじゃない。
俺が見たことのない景色で、俺が抱いたことのない感情だ。
なのに、右腕に食い込んだ灰色の剣を通ると、一瞬だけ自分の神経みたいな顔をして入り込んでくる。
ぞっとする。
ぞっとするが、もう今さら剥がせない。
剥がせるなら、とっくに投げてる。
投げられないから、預かってる。
預かった以上、途中で道端へ捨てるのは泥街でもご法度だ。
「カイル!」
後ろからセトの声。
苛立ってるくせに、ひっくり返る寸前の奴を叩き起こす時の声だ。
「三拍だぞ! 北の三杭まで!」
「うるせぇ、数えてる!」
強がりだった。
実際は、数えないと倒れる。
目の前の銀髪が、一歩。
どくん。
その背中がふらつく前に、ミナの声が落ちる。
「そのまま」
俺も一歩。
右足が何を踏んだかは分からない。
でも、左足の残ってる感覚が、まだ板の上だと教える。
二歩目。
今度は外から槍の柄がかすめた。
ガルドだ。
押すんじゃなく、落ちかけた荷車の車輪を戻すみたいに、ほんの少しだけ角度を返す。
三歩目。
ここで膝が笑った。
まずい、と思った瞬間にはもう遅い。
視界が沈む。
右腕の熱が、肩じゃなく胸まで食い込んできた。
肺の中へ火の粉を吸い込んだみたいに息が止まる。
あ、落とす。
泥街で一番嫌な感覚だ。
荷の重心が手の中から抜ける、一瞬前。
あれだけは何年やっても慣れない。
だが、今回は落ちなかった。
左の肩へ別の重みが入ったからだ。
「前だけ見ろ」
低い声。
レオンだ。
外から肩を受けるだけで、少女側へは寄ってこない。
支える位置が分かってる。
気に食わないくらい、ちょうどいい。
「借り一つだ」
俺は歯の隙間から吐き出す。
「あとで返せ」
「生きてたらな」
軽口のはずなのに、どっちも笑わなかった。
笑う余裕がない。
北の三杭が近い。
黒い石が半分埋まって、そこだけ土の艶が違う。
ぬるい輪の先に、もう一段だけ浅い場所がある。
そこだけ、中心の引きも外の冷えも弱い。
伏せ床。
さっきセトが喚いてた単語だ。
意味はまだよく分からない。
でも名前なんかどうでもいい。
大事なのは、あそこなら一度は置けるってことだ。
置ける。
その言葉が頭に浮いた瞬間、自分でびっくりした。
さっきまで俺は、この小娘を荷物じゃないと思い始めてたはずなのに。
なのに、置ける場所が見えた途端、運び屋の頭が先に回る。
しょうがない。
俺はそういう生き物だ。
人を信じるより先に、足場と重心と逃げ道を見る。
英雄様の覚悟とか、泣ける友情とか、そういう立派なもんは似合わない。
だからこそ分かることもある。
今ここで必要なのは勇気じゃない。
きれいな言葉でもない。
ただ、置く順番だ。
誰が先に近づくか。
どの角度で寝かせるか。
俺の右腕をどこまで近づけて、どこから先は離すか。
ミナの声をどの距離まで入れて、教会の白い連中をどこで止めるか。
全部、順番だ。
順番を一つでも間違えたら、たぶんこの小娘は一人に寄る。
か、俺の右腕が持っていかれる。
あるいは両方だ。
たぶんセトは、もっと賢い言い方をするんだろう。
地脈だの器だの仮杭だの、そういういかにも頭の良さそうな言葉で。
でも俺に分かるのは、荷崩れの形だけだ。
こっちへ傾けば真ん中へ吸われる。
あっちへ逃げれば冷えて固まる。
だから、その間を通す。
それだけだ。
情けない話だが、そのくらいまで削った方がむしろ怖くない。
世界がどうとか、神だ魔王だとか、そういうでかい話にされると途端に足がすくむ。
俺はそんなもんを担げる器じゃない。
ただ、目の前で膝を折りかけてる小娘を、次の浅い場所まで運ぶくらいなら、まだ何とか想像できる。
ふざけた話だった。
泥街の細長い箱を運んでたら、なんでこんな面倒なもんの順番係までやらなきゃならねぇんだ。
でも、腹を括るしかない。
ここまで来て、「やっぱ無理でした」は一番ださい。
ださいし、そういうのは嫌いだ。
「ミナ」
気づいたら、自分から名前を呼んでいた。
白い外套が、ぴくりと揺れる。
あいつが俺を見る。
殺したそうな目でも、泣きそうな目でもなく、今必要なことだけを待ってる目だ。
「……次、どう置く」
自分でも驚くくらい素直な問いだった。
喧嘩腰でもなく、虚勢でもなく、本気で手順を聞いていた。
ミナは一瞬だけまばたきし、それから視線を少女へ戻す。
「貴方は半歩後ろのままです」
声は低い。
だが、もう刺さらない。
「右は近づけすぎないでください。熱が強い。左で支えて、あの子が自分で膝を折るのを待つ」
「待ったら落ちる」
「落ちません」
言い切った。
「いまの歩幅なら」
腹が立つくらい迷いがない。
けど、その迷いのなさに助けられてるのも事実だ。
「カイル!」
今度はセト。
「聞こえただろ! やれ!」
「てめぇ本当に人使い荒いな!」
「お前の右腕の方が荒いよ!」
言い返した拍子に、少しだけ呼吸が戻った。
変なもんだ。
くだらないやり取りをしてる方が、まだ人間でいられる。
俺は左手を前へ出す。
少女の肩へ触れるか触れないかの位置。
黒い翼が小さく震えた。
黄金の目が一瞬だけ振り返る。
その奥で、黒も揺れた。
誰なんだよ、お前。
頭の中でそう毒づく。
アレンなのか。
エリスなのか。
シオンなのか。
それとも全部で、全部じゃないのか。
答えは出ない。
けど、今はそれでいい。
答えより先に、膝を折る場所がある。
「……寝るなら、今だぞ」
自分でも情けないくらい不器用な声だった。
励ましでもなく、命令でもなく、ただ荷下ろしの合図みたいな言い方。
でも、その方が俺らしい。
少女の肩から力が抜ける。
黒い翼がさらに縮む。
小さな身体が、北の三杭の内側へするりと入る。
その瞬間、右腕の灰色がひときわ強く明滅した。
ぐ、と喉の奥で声が潰れる。
熱が、今度は腕じゃなく背骨を舐めた。
膝裏が痺れ、耳鳴りの向こうで、誰かの泣き声みたいなものが混じる。
くそ。
これが置き賃か。
倒れそうになるのを、左足で踏みとどまる。
ここで俺まで寝たら話にならない。
置くのはこっちじゃない。
「まだ立て」
誰に言ったのか、自分でも分からなかった。
少女か。
右腕か。
それとも自分か。
でも、その一言で、黄金の目がもう一度だけこっちを見た。
次いで黒も、静かに揺れる。
三つの誰かが、ほんの一瞬だけ同じ方を向いた気がした。
それだけで十分だった。
少なくとも、まだ落としてない。
俺は荒い息を吐き、伏せ床の縁へ立ったまま、左手を構え直す。
次は寝かせる順番だ。
そこまで済むまで、この右腕を地面にくれてやるつもりはなかった。
帝国暦849年。冬。
カイルは、`安定帯` の移送を理屈ではなく身体で受け止めながら、中央の引きと外周の冷えのどちらも避けるには `伏せ床` まで荷を落とさず運ぶしかないと理解します。
ミナの声、セトの見立て、教会側の圧をすべて `荷を落とさないための情報` として受け取り、彼はついに `運ばされる側` ではなく `支える側` として、三位一体の少女を北側の `伏せ床` へ押し込む三拍を踏み切ったのです。
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