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泥濘(でいねい)のレクイエム ―英雄の残火と、つぎはぎの神魔―  作者: 堀吉 蔵人
第2部

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第77話:護送の理屈、揺り籠の伏せ床 【セト】

お読みいただきありがとうございます。毎日20時に更新しています。

世の中で一番ろくでもない瞬間は、無茶苦茶な状況に、ちゃんと理屈が通ってしまう時だ。


理屈が通るなら助かる、なんて甘い話じゃない。

通ってしまった瞬間、それはもう偶然の幸運でも、火事場の馬鹿力でもなくなる。

順番を間違えたら死ぬ手順になる。

守れなかった奴から壊れていく、れっきとした工程表になる。


いま僕の目の前で起きているのは、まさにそれだった。


黒土の中央には行けない。

外へ落としてもいけない。

三位一体の少女は自分で `安定帯` を選び、泥ネズミの運び屋は右腕を焼かれながらその半歩後ろをついていく。

ガルドは押しすぎないように進路だけを支え、教会の連中はいつの間にか回収よりも `輪を切らないこと` を優先し始めた。

そこへさっきまで殺す気満々だった白百合女まで、外縁を並走して少女の歩幅を測っている。


最悪だった。

人間関係も利害も何一つ信用できないのに、配置だけ見るときちんと一つの作業になってやがる。


これを戦いと呼ぶのは雑すぎる。

救出でもない。

奪還でもない。


担架だ。


しかも、足場そのものが脈打つ最悪の担架。

担ぎ手同士が全員仲が悪く、うち半分は本来なら患者ごと燃やすべきだと思っている。

それでも、いまこの瞬間だけは同じ歩幅を踏み外せない。


師匠なら鼻で笑うだろう。

「野戦の応急処置なんてものはね、だいたい倫理より順番の方が偉いんだよ」とか何とか。

いや、たぶんもう少し嫌味ったらしい言い方をする。

で、最後に必ずこう続けるはずだ。

「だから一番若い弟子に押しつけるんじゃないよ、馬鹿ども」と。


まったく、その通りだった。


僕は黒土の外縁ぎりぎりに膝をつき、二本の指で土をすくう。

ぬるい。

だが一定じゃない。

少女の一歩ごとに熱の溜まりが少しずつずれ、そのたびに泥ネズミの右腕側で灰色の脈が跳ね返る。


どくん。


いまの一拍で、泥ネズミの肩が目に見えて強張った。

膝も少し外へ流れる。

けれど、外へ落ち切らない。

白百合女が低く「左は浅い」と告げ、ガルドが槍の柄で外周からわずかに圧を返し、北東では執行司祭が部下の塩袋をさらに半歩外へ退かせる。


狂ってる。

本当に、嫌になるくらい理屈が通ってる。


僕は舌打ちし、背嚢から観測石を一つ放った。

親指の爪ほどの安物だ。

こんな大仕掛けに使うには頼りないにも程があるが、ないよりはましだ。

石は黒土の上すれすれを転がり、輪の外で止まる。

その表面へ、灰色、黄金、黒、そして薄い白が順に滲んだ。


灰色は泥ネズミの右腕。

黄金と黒は器の内側の反応。

薄い白は、さっきからずっと腹立たしいくらい正確な歩幅で並走している白百合女だ。


つまり、いま輪を保っているのは四本だ。

少女自身の判断。

泥ネズミの返し荷。

白百合女の距離。

教会側の外周制御。


一つ欠ければ、中心へ吸われるか、外へ冷える。

そして、一番先に欠けそうなのはどう見ても泥ネズミだった。


しかも厄介なのは、その四本がそれぞれ別の願いで立っていることだ。

泥ネズミはたぶん、ここで荷を落としたくないだけだ。

白百合女は、取り返したいものと壊したくないものが初めて一致して、だからこそ余計に顔が死んでいる。

執行司祭は教義に殉じたいわけじゃない。現場を預かる人間の顔で、「ここで壊せば後がない」と計算している。

そして肝心の少女の方は、たぶん誰より冷静に「真ん中へ行けば終わる」と知っていて、自分から一番危ない答えを外し続けている。


全員、見ているものが違う。

信じているものも違う。

なのに同じ線の上でだけ、辛うじて噛み合ってしまっている。


気味が悪かった。

でも、だからこそ分かる。

これは奇跡なんかじゃない。

それぞれの勝手な事情が、たまたま同じ `壊さない順番` を選ばされているだけだ。


師匠は昔、「敵味方が同じ処置を選ぶ時はね、たいがい患者の方がもっと厄介なんだよ」と言っていた。

その時の僕は、毒沼で腹を壊した行商人の話だと思って笑った。

いまなら分かる。

目の前の患者は、行商人なんかより何百倍も厄介だ。

世界の都合と個人の執着を、まとめて担架へ縛りつけたような代物なのだから。


「カイル!」

僕は怒鳴った。

「足の裏の感覚、まだあるか!」


泥ネズミは荒い息の合間に、こっちを振り向きもしない。

代わりに、掠れた声だけが返る。


「……半分くらい」


半分。

最悪の答えだ。

まだ動ける、を言い換えた時の、いちばん信用ならない半分だ。


「右か左かは分かるんだな?」

「分かる。熱い方が右だ」

「冗談言ってる余裕があるなら死ぬなよ」

「死なねぇよ。今は」


今は、か。

本当に救いようのない泥ネズミだ。

こいつは肝心な時にだけ、妙に安い言い方で覚悟を済ませたみたいな顔をする。

英雄になりたいわけじゃないくせに、荷を落とさない方向へだけは妙に頑固だ。

その頑固さに何度助けられて、何度腹を立てたか分からない。


僕はもう一度、黒土の流れを見た。

輪は閉じていない。

いや、閉じているように見えて、ほんのわずかに北へ引かれている。

円じゃない。

渦でもない。


これは、道だ。


そう気づいた瞬間、胃の奥がひやりと冷えた。


安定帯はそこで休む場所じゃない。

そのままぐるぐる回って時間を稼ぐための輪でもない。

中心を避けたまま、別の一点へ運ぶための搬送路だ。


僕は首を巡らせ、北の縁を睨んだ。

黒土の濃さが一箇所だけ鈍く浅い。

そこに、半ば埋もれた黒い石杭が三本、等間隔で並んでいた。

教会の補修材だと思っていたが、違う。

もっと古い。

表面に、黒土教の痩せた刻みが残っている。


『伏せよ』

『息を減らせ』

『還すまで待て』


読めた瞬間、悪寒が走った。


「……伏せ床か」


中心は選別の臍。

輪はそこへ落とさず運ぶための搬送路。

で、北のあれが、いったん寝かせる場所。


黒土教の連中、本当に寝かしつけることしか考えてないな。

壊れた器を修理するんじゃなく、まだ壊れ切ってない角度へそっと伏せる。

治療というより保留。

応急処置というより、世界そのものへ向けた時間稼ぎだ。


でも、今の僕たちにはそれで十分だった。

十分どころか、それしかない。


どくん。


次の拍で、泥ネズミが盛大によろめいた。

右腕の灰色が肘まで明るく走り、外へ落ちかけた足が黒土を削る。

少女の翼がぴくりと開き、白百合女が反射で一歩寄りそうになって、ぎりぎりで止まる。

北東の教会側もざわついた。


これ以上はもたない。

いや、正確には、もたせ方を間違えると次の一拍で終わる。


僕は立ち上がり、腹の底から怒鳴った。


「聞け! その輪をその場で保つな! 道だぞ、それは!」


全員の視線が一瞬だけこっちへ刺さる。

最悪だ。

注目されるのは嫌いなんだよ、僕は。

知識係なんて、後ろでぶつぶつ言ってるくらいがちょうどいいんだ。


だが、いま黙ってたら本当に全員死ぬ。


「北の石杭が見えるだろ!」

僕は指を突きつけた。

「あそこが `伏せ床` だ! 中央を避けるための輪じゃない、あそこまで器を運ぶ搬送路だ!」


「何だと?」

ガルドが唸る。


「輪の上を維持しろ、でも周回するな! 北へ抜ける!」

僕は早口で続けた。

「中心は選別、外は冷えすぎる。けど北の伏せ床なら、混ざったまま一度だけ寝かせられる!」


「一度だけ、ですか」

北東から、執行司祭の冷えた声が飛ぶ。

「随分と限定つきの救いですね」


「万能薬が欲しいなら神殿へ帰れ!」

僕も負けじと怒鳴り返した。

「いま必要なのは治療じゃない、延命だ! それをさっきからあんたが一番よく分かってるだろ!」


執行司祭は答えない。

答えないが、長柄の角度が変わる。

部下を制し、北側の囲いだけをわずかに薄くした。

十分だった。

あの男は気に食わないが、理解は早い。


次に僕は白百合女を見る。

ミナは黒土の外縁を並走したまま、目だけで僕を刺してきた。

本当に性格の悪い目だ。

でも今は、その悪さに助けられている。


「あんたは呼び方を戻すな!」

僕は言った。

「さっきみたいに `お嬢様` を強く乗せるなよ! 足元と歩幅だけ言え! それ以上やると偏る!」


ミナの眉がぴくりと動く。

反論されるかと思った。

短剣が飛んできても驚かなかった。

だが、返ってきたのは低い一言だけだった。


「分かっています」


思ったより素直で逆に腹が立つ。

けど、その声は泣いていなかった。

復讐者の顔でも、侍女の顔でもなく、いま必要な役だけを選んだ声だった。


最後に、いちばん面倒な泥ネズミを見る。


カイルはもう汗で前髪が張りつき、口元の血の気も薄い。

右腕を動かすたびに、灰色の剣が骨の隙間で笑ってるみたいな嫌な音がする。

それでも、少女の半歩後ろだけはまだ守っていた。


本当に、腹が立つくらい真っ直ぐだ。

そういうところが嫌いだし、たぶん少しだけ羨ましい。


「カイル!」

「聞いてる!」

「次の三拍で北へ寄せる! お前は考えるな! あの子の足とミナの声だけ追え!」

「雑だな!」

「お前に細かい説明してる暇があるか!」


言い返しながら、僕は自分の手が震えているのに気づいた。

怖いのだ。

そりゃそうだろう。

僕はまだ、師匠に弟子扱いされて毒見と床磨きの比率で給料を決められる歳だ。

こんなところで、教会の司祭と元侍女と泥街の運び屋と鱗トカゲにまとめて指図する予定なんか、人生設計のどこにもなかった。


なのに今は、僕の間違い一つで少女が一人に寄るか、泥ネズミの右腕が焼き切れる。

笑えるか。笑えない。


だからせめて、理屈だけは外さない。

理屈が通る瞬間ほど怖いなら、その理屈を最後まで使い切るしかない。


僕は観測石を拾い上げ、北の石杭へ投げた。

石は黒土を浅く跳ね、三本のうち中央の杭に当たって止まる。

その表面へ、今度ははっきり四色が集まった。

黄金、黒、灰、薄い白。

教会側の光は外に留まり、中心の引きはそこでは弱い。


当たりだ。


「行ける!」

僕は叫ぶ。

「そこだ! 北の三杭の内側! そこだけ流れが寝てる!」


ガルドが低く吠え、槍の柄で外周の圧を押し返す。

白い騎士――トビアとか言ったか――も、それを真正面から止めず、北へ流すように角度を変えた。

執行司祭は部下へ何か短く命じ、死塩の袋がさらに外へ退く。

ミナは息を殺したまま、もう名前を重ねない。


そして少女が、一歩。


どくん。


二歩。


どくん。


三歩目で、泥ネズミの膝が折れかけた。

僕は思わず走り出す。

駄目だと分かっているのに、足が先に動いた。

だが輪へ踏み込む寸前で、別の影が先に支える。

レオンだ。

外から肩を受けるだけで、決して少女側へ寄りすぎない。

あいつも分かっている。

今は支える角度一つが重すぎるってことを。


「坊主!」

レオンが歯を食いしばったまま叫ぶ。

「着けば、本当に少しは保つんだな!」


その問いが、ひどく重かった。

本当に。

絶対に。

助かる。


そう言えたらどれだけ楽か。

でも、僕は師匠に嘘のつき方だけは厳しく叩き込まれた。

都合のいい嘘は後で毒になる。

応急処置で使うのは、痛みを散らすための嘘だけでいい。


「少しだ!」

僕は叫び返す。

「少ししか保たない! でも今よりはましだ!」


レオンはそれで十分だとでも言うみたいに、口の端だけを歪めた。

本当に、この辺の連中はみんな頭がおかしい。

少ししか保たないと聞いて前へ出る。

今よりましなら賭ける。

そういう馬鹿ばかりだ。


けれど、その馬鹿さに僕自身がもう何度も救われてきた。

だから、文句を言いながら見捨てられない。


北の石杭が近づく。

黒土の濃さが、そこだけ確かに薄い。

中心の引きも、外周の冷えも弱い。

言うなれば、寝返りを打つ前の一瞬みたいな場所だ。

完全に眠るには浅いが、壊れたまま立っているよりはずっといい。


少女の翼がふるりと縮む。

ミナの呼吸が浅く揃う。

泥ネズミの右腕からはまだ嫌な熱が漏れている。

それでも、三杭の内側へ入る瞬間だけ、全員の歩幅がぴたりと揃った。


これだ、と思う。

偶然じゃない。

奇跡でもない。

最悪な手順の、ぎりぎり正しい並び順だ。


僕は息を詰めた。

ここから先は、たぶん別の地獄だ。

少し寝かせたあと、どう起こすか。

返し荷をどこまで受けさせるか。

教会をどの線まで入れるか。

白百合女の忠誠と復讐を、いつまでこの距離に留められるか。


何一つ終わっていない。

ただ、次の三息ぶんだけ、壊れない順番が見えた。


それでも十分だ。

今は、そう思うしかない。


帝国暦849年。冬。

セトは、三位一体の少女、カイル、ミナ、そして教会側の外周制御が、偶然ではなく `伏土の窪み` の古い手順に沿った一時護送として噛み合い始めていると見抜きます。

さらに `安定帯` がその場で留まるための輪ではなく、北側の `伏せ床` まで器を運ぶための搬送路だと理解したことで、局面は単なる均衡維持から、次の寝かせ場所を目指す具体的な移送段階へ進み始めたのです。

最後までお読みいただきありがとうございます。一言でも感想いただけると励みになります。

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